2018年12月29日土曜日

吉川幸次郎『支那人の古典とその生活』

 文章を書くことに苦労していたとき、吉川幸次郎の文章が好きで、だいぶ読みました。島田先生がご存命の時ですから、20年以上も前のことです。

『支那人の古典とその生活』は、1度よんで、なるほどとおもったきりで、細かな印象は無かったのですが、今回、ふと手に取って読んでみたら、目からうろこがだいぶ落ちました。前回、うろこが落ちなかったのは、読み切れていなかったのでしょう。いい本は、何度も読まねばならないと思いました。

「支那人の生活は古典の制約を非常に強く受けている。」
「これは支那人の先天的な性癖に基づくものと考えます。」
「具体的な生活を古典に一致させようという欲求は、」
「支那人がその生活の法則を、常に先例の中に求めようとするのは、」
「生活の規範を古典に仰ぐ、五経に仰ぐ態度である。」

 これからすれば、『内経』を読むことや、迷いなく陰陽五行説を踏むことや、古典の補法・瀉法の記載を頑なに守ることなどは、中国人のDNAがなせる業であることがわかる。別の言い方では、たましいで古典を読み、仰いでいるのです。仰ぐ精神性は持っていない僕と、中国の研究者との距たりは、想像を超える溝になっているに違いない。

『内経』は読まず、陰陽五行は信用せず、補法や瀉法などお構いなしなのは、そのDNAを持たない日本人だからと言える。その人たちに、『内経』を読みましょうといっても、無理なのかもしれません。

 中国の人が古典を生活の規範にしているとしたら、現在の日本人は、何を規範にして生活をしているのだろうか。仏教でもなさそうだし。確からしいのは法律でしょうか。この本を読みながら、自問自答していました。


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