『鍼治枢要』は、矢野白成の著。1697年刊。京都大学附属図書館富士川文庫文庫所蔵。画像は公開されています。
その巻の上の冒頭「鍼術」のなかに、「夫れ我が鍼術は、心の全体発して用を為す。故に心業と称す」、「蓋し体より用を為すときは、体用一源にして間(へだて)無し」というような表現があります。「全体」「体」用」は朱子学由来のようですから、矢野先生は朱子学を学んだ鍼立(鍼師)だろうと思います。
矢野先生の治療法は腹部打鍼法です。矢野流を含めると、思想哲学を下地とした打鍼法には、少なくとも3流を見出すことができます。この3流に限っていえば、打鍼法は思想哲学が下地にあって成立する鍼法であり、ただまねをすれば良いというものではないようです。
夢分流=仏教(禅)に基づく打鍼法。
意斉流=老子に基づく打鍼法。
矢野流=朱子学に基づく打鍼法。
この体用については、伊藤仁斎先生は「この体(本質)用(適用)の理論は宋代の学者からはじまったももので、聖人(孔子)の学問にはもとよりこの理論はなかった。・・・それで体用で説明すると、体の方が重く、用の方は軽く、体が根本で用が末であるから、人はみな用をすてて体の方に走らざるを得ない。」と言っています(『論語古義』貝塚茂樹訳)。
個人的には、本治法と標治法を、根本的な治療だから重視し、末梢的な治療だから軽視しているかもしれない。もともとそういう区別はないのだという視点でもういちど考え直してみたいと思います。本治法と標治法、できあがった方法を受け継ぐことも大事だけど、きちんと批判することも大切だな、と『論語古義』を読んで学びました。
江戸時代の鍼灸に学べとはいうが、本当に理解するためには道はなかなか遠く深いようです。
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