『論語』公冶長に、孔子が弟子3人を評価して、子路は千乗の国(大藩)を治める能力はあるが、「其の仁なるを知らず」といい、子有は百乗の国(小藩)を治める能力はあるが、「其の仁なるを知らず」といい、子華は、外務大臣を務められる能力はあるが、「其の仁なるを知らず」という。政治的な能力と、仁者(仁徳者)である能力を、別々に評価しているのが気になっていたのですが・・・
ミャンマーには瞑想センターという施設が多くあって(僧侶がトップを務める寺院であるが)、出家・在家を問わず希望者を受け入れて瞑想の指導をしてくれらしい。本書の著者が訪れたとき、そこに7年異常も滞在している日本人僧侶がいて、開口一番に「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と言ったそうである。同著によれば、日本では大乗仏教の影響で、悟りは円満な人格完成者としての仏の悟りのイメージが強いので、解脱・涅槃を得た人は、同時に人格者のように思う傾向があるらしい。
なるほど。ぼくは、僧侶に限らず、優れた技能者にも、人格者であるのを期待していたかもしれない。人間国宝ともなれば、自動的に人格者ときめつけているかもしれないし、優れた鍼灸人も、人格者だと思いこんでいる節がある。人物の評価は、冷静に行い、思い込みやえこひいき、偏りがあってはならないとわかっていても、習性といおうか、なんとなくまるっと評価してしまっている。
そういう意味で、孔子が「其の仁なるを知らず」といったのは(都合5回も使われる)、相当に重い意味を持っている。ということを、仏教の本を読んで分かった(気がする)。
確かに、会ったことのないすごい人(技でもなんでも何か秀でた人)は人格者だと思ってるし思いたい。でも割りと身近なすごい人は、どんなにすごい人でも人格者かというと…。そこが人間だなと思って安心はしますが、人格者と秀でた人とどちらを目指す、目指してもらいたいか、考えちゃいますね。
返信削除美人だと、頭良さそう、金持ってそう、人格良さそう。強面だと、悪そう、こわそう。本人には、大変めいわくなことだと思います。
返信削除そういう意味で、皆さんに迷惑かけてました。