2016年12月15日木曜日

さらに、一層。

 近所に、コーヒー豆を焙煎して売る店があるので、炒りたて、挽きたて、淹れたての、三たてコーヒーを、毎日飲んでいる。それで、十分満足していたのだが・・・

 数日前、京都の土居コーヒーというところの豆を、いただいた。おそろしいことに、豆の大きさがそろえてあり、見た目もつぶぞろいであった。十分に豆を吟味した気配がただよっている。

 飲んでみると、雑味がなく、三たてを超えている。胃に軽いし、爽やかだし。原材料の吟味につきるか。

 「しじみの貝がみんな同じ大きさで、つまり粒を揃えたところに老人の心がまえがある。金がないので、心で食わせる料理であった。近頃は、同じ茶をやっても、ただ贅沢ばかりで、こんなおもむきのあることをする主人はいなくなった。」

 『味覚極楽』の一節である。老人というのは、牛込早稲田に住んでいた赤沢閑甫という茶人で、茶席に出されたシジミ汁を、いたく感心したという内容である。

 豆のぎんみ、炒りのぎんみ、ひき方、淹れかた。かくして、さらに一層のコーヒーができあがるようである。

 淹れかたでは、最後の抽出液は捨てるというのは、よく知れたことだが、近頃では、最初の抽出液の一滴を捨てるそうである。かくして、雑味がないコーヒーが完成するんだとか。

 この研究熱心さが、日本人の特性でしょうか。

 

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