2016年2月8日月曜日

目は一代、耳は二代、舌は三代


 近頃、ちょっとお金に余裕ができると、グルメと称して通ぶる人がいるが、食べ物やお酒の味がわかるのは、その人だけの能力ではなく、祖父母と父母の能力を受け継いだものである。僕みたいに、農民と漁民のハーフでは、美食家とはほど遠い。どんなに背伸びしても届くものではない。『老子』に「つま立つ者は立たず」とよく言ったもので、手近のものを食べるのが「身のほど」ではないか。

 鍼灸の道に入るのも、どう考えても、本人の意志だけではないような気がする。身内に鍼灸師が居たというのであればわかりやすいが、まったくそうでなくてこの道に入るのは、きっと魂に引き寄せられて、門を叩いたに違いない。ちっとも上手く行かないのに、この道の歩みを止めないのは、きっとご先祖の魂に引き寄せられているんだと思う。あるいは、三つ子の魂とは良く言ったもので、子供の時に進む道が定まったのかも知れない。

 実は、この度、八木下勝之助先生の遺品をお借りすることができ、10日間、そばに居ました。一度、その鍼箱を、その『重宝記』を見てみたい、それはそれは微かな思いを持っていました。その思いが叶ったのです。直に見る機会が巡ってきたのです。魂に引き寄せられたのでしょう。ちらっとでも見ることができた人、運悪く見ることができなかった人は、これまた魂の感応というものでしょうか。その人の運でも、その人のせいでもないと思います。

 直に見ることを、柳宗悦は、見る者と対象物に介在がないという意味で「直観」といっています。介在とは、物の介在だけではなく、頭脳の介在も含んでいます。物とは、博物館のようにガラスケースに入っているようなことで、頭脳とは、先入観とか知識とかいうもの。そういう介在が無い状態で、無心になって、対象物をみることを「直観」というらしい。

 今回は、八木下先生の所有物という頭脳の介在が入っていますので、完全な直観ではありませんでしたが、手にとってみることができたので、わずかばかりの直観ができました。このことが幸せなのです。70年前の八木下先生と、一瞬、接続できたことも幸せでした。これが僕自身の努力の結果ではなく、魂の感応だろうと思っているから、よりいっそう、さらにいっそう幸せなのであります。

「直観には時間がない。直ちにであるから、ためらいがない。速刻なのである。直観に躊躇はないから疑惑が起らぬ。だから信念を伴う。見ることと信ずることは甚だ近い。」(『茶の美』講談社学術文庫)

 直の体験は、鍼灸の治療にとても似ている、と思いませんか?

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