2015年4月1日水曜日

反って其の快きを覚ゆ

「相忘る」の森共之先生のほかに、同じようなことを仰っている先生がいる。矢野白成先生で、その著『鍼治枢要』(1697刊)で、次のように言っている。

 凡そ学者、修練、精密、心を用いること、久しきときは、心に発し、手に応じ、手に得て、心に応ず。是において、心手合一、体用不二、内外・本末の分無し。思わずして中り、無為にして成る。真理を識得し、既に妙処に至るものなりと謂いつべし。その真に契(あ)うこと此のごとくときは、其の徳、腹内に通徹して跡無し。其の手久しく腹上に措(お)いて倦(や)まず。病者も亦た厭うこと無し。反って其の快きを覚ゆ。是れ乃ち心業と称する所以なり。

 心の修行をして、覚ったことを、「心に発し」という。その状態で触診をすれば、手にも応じ、心と手と一体になる。何を覚ったかというと、体用は一源で、間(へだて)が無いということ(体は心で、用は体)。または、人心と天地の心とが共に一理であることで、これまた間(へだて)が無いこと。
 
 心と手が一体になった状態で、腹診をすれば、腹内をよく通知し、長く腹診をしても疲れず、病者も嫌がることもなく、反対に気持ちよく感じる。これを心業というのである。

 鍼術は心術であり、鍼に効能があるのは心徳だからという。

 間(へだて)が無いとは、分(わけへだて)が無いことで、「無分」とおなじ。心と体が一体になり、診者と病者が一体になり、「相忘る」ことが、この道のゴールのようである。

 

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