2016年5月16日月曜日

同じ電車に乗っていても

 山手線の先頭車両に乗っていると、スピードを落とさず、ホームに滑り込みます。まるで、通過するみたいに。思わず「山手に、快速あったかな?」と、自分をうたがうほです。それでも、減速し、ホームの先頭に、ちゃんと止まります。同じ電車でも、最後尾にのっていると、やんわりホームに到着します。

 同じ電車に乗っていても、景色は大分違います。同じ電車だから、同じ景色というわけではないようです。

 数日前の新聞に、

 急須で飲むタイプのお茶を精算してきた静岡は、ペットボトルや飲料の多様化による緑茶離れなど、新しい消費動向への変化に付いていくことができませんでした。結果として、年々、栽培をあきらめる生産者が多くなり、茶をつくる工場も次々と閉鎖を余儀なくされています。

 とありました。

 世の中のニーズに対応できないと、自分は生き残るつもりでも、生き残れないということでしょう。個人がニーズに対応するのか、業界が対応するのか。判断がわかれるところだが、余儀なくされているところをみると、個人は、業界が何とかしてくれると楽観していたのだとおもいます。業界は、個人の苦境を知らないか、目をつぶっているか、結果としては何もしていなかったのかも知れません。

 おなじ構図が、仏教界にあるようです。末端では、葬儀離れ、お墓離れ、お坊さん離れがすすんでいるのに、中央の宗門は、現状を知らないか、目をつむっているか、何も対策をしていないようです。お寺は、末端から、すこしずつ衰退していくのでしょう。

 人ごとと思っているけど、わが業界も同じようかも知れません。おなじ業界にいても、みる景色は異なっているようです。

 僕はお灸は危機的と思っていますが、ほかの人たちは危機とも思っていないし、楽観している人もいるでしょう。というわけで、ひとりで焦っているわけなのです。何を焦っているかというと、学校のお灸教育が、旧態然として、世の中のニーズとかけ離れているからです。ニーズに対応できるように、いろいろな灸法を教えてあげてほしいと思います。

 土手の蟻の巣が、河の氾濫の発端である。象牙の箸を買ったときが、金持ちが衰退するきっかけである。というような中国の話があるように、ちいさな見逃しが、鍼灸業界を消滅させるかもしれません。

 誰かが何とかしてくれる、と思いたいのですが、業界が対応してくれる、宗門が対応してくれるというのと同じように、実際は誰も何にもしてくれないようです。経験からすると、学校も、業団も、学会も、見ている景色が違うのですから、お灸が危機的とは思っていません。ですから、不満を言っても、何も変わりません。

 気がついた一人一人が立ち上がって、活動しないかぎり、ずるずる下降して行くのではないでしょうか。自分たち世代は良いとしても、何もせず、下降したまま、負の遺産を、後輩にわたすのは、やっぱり心苦しい。わたしたちの借金を、無責任に、子供や孫に押しつけようとしている、今の日本と同じでしょうか。歴史的にみれば、破廉恥かも知れません。








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