2016年1月12日火曜日

沢庵『老子講話』

 年末から年始にかけて、沢庵の『老子講話』を読んでいる。

 蜂屋邦男訳注(岩波文庫)や、その他、近代の先生の注釈とはずいぶん違う。何故に違うのかと、案じつつ読んでいるが、老子の人物像が明解であるか、そうでないか、そこが異なるのかもしれない。

 第20章の末句に「求食於母」とあるが、蜂屋邦男は「道という乳母を大切にしたい」、福永光司も「乳母なる道をじっと大切にしている」と訳す。

 これを沢庵は「小児の母にママ食ふの事なり。老子の心、小児の何の求め貪る事も無く、ママ食ふと云ふ其れが貴い、其の心がよいとなり、然るを註に頑且鄙しからんやと見て、母の字を道と見たるは大に非なり。老子の心には非ず。頑且鄙なりと云ひ、食を母に求むと云ふが是れ老子のおもしろき本意なり」という。

 第20章の冒頭は「絶学無憂」とあり、沢庵は、礼学を立てば憂いが無いとよみ、人間社会の小うるさいしきたり・マナー・倫理道徳を切り捨てれば、憂いなんぞ無くなる。だから、食事の作法、その以前に、子供が母に食べ物をせがみ、もくもくとご飯をたべる、その純粋無垢な姿が貴い、ここのところが老子のおもしろさなのだ。ところが、それでは、戯れだし(頑)、鄙びているとして、母を道に置き換えて注釈するのは、大いなる間違いである。と言っている。

 沢庵は、老子がどのような人物であるか、それを元にして解説している。老子ならば、こういう意味だろう。老子は、こんなこというはずがない。このように、作者を具体的にイメージしていないと、文面を追うだけで、上滑りで、真味が出てこない。そこが、読者の気持ちを捕まえるか、捕まえないかの差になっているようである。

 近代の『老子』註は、学者から発信されるから、どうしても上滑り調である。このことは、『内経』にも言える。ただ文字面を追うのではなく、作者の人物を想像し、その意図を汲みあげるのを目指すべきである。ただ、それには、相当な労力と時間がかかるに違いない。速馬でも淀、遅馬でも淀。

 それはそうと、古聖の智恵に触れるのは、実に悦びである。
  

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