2019年10月12日土曜日

なんども無心

 ふたたび、鈴木大拙の『無心ということ』を、ぺらぺらめくっているのです。『素問』上古天真論での「無心」が、なんだか、いつでも気がかりなのです。
 
 今は、なんとなく、次のように色分けしています。

 (孔子の無心)
  無邪:こころがよこしまで無いこと。仁を尽くすこと。

 (老子の無心)
  無私:私意(個人的な思惑)が無いこと。

 (禅宗の無心)(荘子の無心に近いらしい)
  無心:無私だけでなく、分別(ものごとを比較)しないこと。

 (お釈迦さまの無心)
  無我:無私、無心だけでなく、存在しないものが存在するかのような思い込みもないこと。

 仏教は、北伝の大乗仏教→中国→日本という系譜と、南伝の上座部仏教→東南アジアという系譜に分かれていること。伝わっている間に、本質が薄れたようです。仏教では、出家が必須条件ですが、日本仏教をみるかぎり、出家しない宗派がある。また、戒律を守らなければならないのですが、日本仏教をみるかぎり、きちんと守っているようにはみえない。中村元先生は「日本の仏教は、シャーマニズムの域をほとんど出ていない」という。

 ということで、日本仏教から、お釈迦さまの無心は、かすんでみえない。唯一、出家して、戒律を守っている禅宗が、お釈迦さまの無心と近いのかもしれません。とはいっても、結婚して子供がいる禅家もいるし、托鉢をしているのは見たことないし、法事に呼ばれればお酒は飲むし。ちょっと怪しいです。

 問題は、『老子』にしろ、『荘子』にしろ、無心を文字上では理解できるのですが、実際の生活、社会生活の中での、生かし方がわからないのです。そこからすると、孔子の無心が一番現実的であり、老子がそれに続くのです。結局、『素問』上古天真論の無心は、老子で読むのが現実的なようです。

 
 

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