『老子』四二章に「万物は、陰を負うて、陽を抱く。沖気は以て和することを為す」とあって、万物は陰と陽と一体になっている。陰と陽は沖気で一体になり、調和している、という。
蜂屋邦夫は、「負は背負うこと、抱は抱くことであり、どちらも含み持つ意味である」といい、万物は陰性と陽性を含み持つと解釈している。
福永光司は「負と抱は、もともとは母親が子供を背負い、膝に抱くこと」という。これによれば、万物は陰と陽と一体になっていると解釈したと思われる。
老子は、どちらか一方というより、両方を受け入れる。かたよりを嫌う。
だから、蜂屋説の「人体内で陰と陽が調和して一体になっている」、福永説の「人体は外界の陰陽と調和して一体になっている」、両方が一体になって調和していると老子は考えている。
それを人体内だけで論じているのが治療の思想で、外界を視野にいれているのが養生の思想。こういうわけで、治療と養生の両輪が理想になるわけである。
「和」をテーマに『内経』を見直すと、かなりの箇所でしみ込んでいる。
虚に対し補、実に対し瀉というのは、典型的な「和」の思想。たとえば、 『霊枢』終始篇に「寫者迎之、補者隨之、知迎知隨、氣可令和、和氣之方、必通陰陽」とあるのはその典型である。
ここに「迎を知り、随を知りて、気を和せしむべし」とあるように、補写は手先の技術ではなく、知恵であり、哲学である。老子を理解しないかぎり完璧ではないのである。
『霊枢』読破の道、いよいよ険し。
9月25日の丹塾古典部は、『内経』の「和」がテーマです。いよいよ核心に迫ってきました。
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