2016年3月7日月曜日

表裏一体

 十二経脈では、陰経脈と陽経脈が表裏になっている。その前段階の十一脈では、陰脈と陽脈は表裏になっていない。ただ、陰と陽に別れているだけである。

 ここから、表裏になる陰陽(分けられない陰陽)と、別れる陰陽があることが知れる。決定的な違いである。世界が全くちがう。これを、ごっちゃにしては、まずい。

 十一脈から十二経脈へ発展したというけれど、じつは、陰陽区別派から陰陽不別派に、担当者が替わったのである。

 十一脈が含まれる、馬王堆医書、張家山医書は、基本的には神仙思想の文献である。神仙思想とは、不老長寿を目標とする思想で、そのために食事法、服薬法、呼吸法などの長寿法の研究に余念がなく、その成果として十一脈の発見になった(と考えている)。長寿に益することを目標に、余計な思想をいれずに、直観した結果、十一脈が発見されたでしょう。したがって、十一脈は、素朴な観察として、きわめて貴重な情報である。

 余計な思想をいれて、一を増やして、十二になった。その余計な思想とは、陰陽不別の陰陽思想である。それは、誰の思想なのか。

 『老子』第二章に「 有無相生じ、難易相成り、長短相形はれ、高下相傾き、音声相和し、前後相随ふ」とあり。

 善と悪、有と無、難と易、長と短、高と下、音と声、双方が存在して始めて成り立つのである。分けられるものではない。ものの見方は、相対的で、表裏一体である。

 膀胱経と腎経は表裏。胃経と脾経は表裏。そんなことみんな知っている。知っているけど、表裏ということの真意を知っている人は少ない。真意を知らないと、本当の活用はできはしない。やっぱり『老子』を学ばないと。

 究極の一体は、天地と一体になること。その体験がなくて、真の表裏一体はわからないかも知れない。だから、『素問』上古天真論では「道に和す」「道に合同す」と言っているのでしょう。
 
 おそらく、陰陽不別は老子発ではないか。物事に表裏があって、表裏は一体であることを唱えたのが老子であり、その延長線上に陰陽不別派がうまれ出たと考える。陰陽不別派は、病気は表で、病気の素地を裏だと考え、さらに、病気の素地はこころで、病気になるのはからだだとも考えている(ようだ)。『霊枢』に経脈篇があるだけでなく、本神篇が用意されている、その理由がここにあるのではないか。

 この後に、余計な思想の第二弾として、陰陽五行思想が介入してくるのではないか。

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