2015年11月16日月曜日

文質彬彬

 『論語』に、「文質彬彬、然後君子」という一句があって、文(スマートさ)と質朴(ドロクサさ)は、彬彬(半々)が望ましく、それでこそ君子(ゼントルマン)なり、という意味だが、奥深い意味が込められている。孔子塾では、仁を基本に、礼、孝、文などの完成を目標としたが、それだけであれば優秀で、計算高く、弁が立つ生徒が、ゴールに一番近いことになる。

 しかし、孔子は、文質彬彬と言い、半分は質朴さ、ドロクサさが必要なことをいう。それは、別のところでも、「先進の礼楽におけるや、野人なり」といって、初期の弟子達は、野人的で、質朴であることをいい、「もし之を用いば、吾れは先進にしたがわん」といって、もし選び用いるならば、野人的である弟子達を選ぶと言っている。

 始皇帝が全国を統一したのが39歳で、52歳で亡くなるまで、地方巡視を5回くりかえし、総移動距離は15000キロになるという。驚異的な行動力である。泥臭い人物の極みかも知れない。権力に安座して、ふんぞり返っていても良いのである。やはり、それなりの人は、泥臭さが濃い。

 サッカー日本代表では、岡崎選手は、どろくさいはたらきで、評価が高く、信頼度も高い。ちかごろ、わが業界、この泥臭さが足りないような気がする。「身銭を切る」といって、お金を供出するような意味にとっているが、「身を切る」のと「金を切る」のと、ふたつの意味が込められているような気がする。その「身を切る」ということが、足りないのだと思う。身を切るは、ある程度、自己利益は捨てないとできない。

 「古典を読んで役に立つのか」と思ったことは、自分に利益になるかならないかを考えたことであり、思った段階で「身を切っていない」ことになる。 孔子に、「今、なんじは画(かぎ)れり」と指弾された冉求が良い例で、「画れり」は「自分自身を見限っている」と訳されているが、「いま、おまえは、自分に有利か、不利かを、考えただろう」と個人的には解釈している。孔子的には、黙って俺に就いてこい、なのである。古典を損得の目でみた時に、その門戸は閉ざされる、と思っています。

いずれにしても、身銭を切って東洋医学に奉仕する人が、にょきにょき出ているのを、ねがっています。

 

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