2015年9月7日月曜日

聖人たれ②

 道家では、聖人は目標人である。この流れを受けて、上古天真論篇でも聖人は目標人である。

 聖人は、天地自然に合体し(というより天地自然にすべてを委ね)、天寿を全うし、心静かで無欲なる人である。この人こそが、鍼灸師に最適なる人で、天寿を全うし、世の見本になり、心静かで無欲なために、病者の苦悩が、病因病機が、明鏡に映し出すように見えるのである。すべてお見通しなのである。
 
 もし、心が騒がしく、欲まみれだと、「欲に目がくらむ」というように、病者の苦悩も、病因病機もなにも見えないのである。なにも見えないので治療しているのである。だから、怪しく、疑わしい治療を、何食わぬ顔で行っているのが、今の私たちなのである。それでも、世の中から許されているのだから、鍼灸師はぬるま湯に漬かっているとしか言いようがない。

 みなさん、冷静に考えてみてください。調子にのって酒吞んでいる場合じゃないし、ちゃらちゃらしている場合じゃないのです。昔はそれで良かったのですが、今は違います。昔の建物と同じく、耐震構造が無いのです。そのことに気がついて、補強工事をしておかないと、一気に瓦解するに違い在りません。
 
 儒家では、聖人は理想人であり、目標人は君子である。古代の尭舜禹、周公などが聖人で、どのように努力しても、近づくこともできない。なので、君子を設定して、修徳にはげみ、世の中に役立つ人になることを目標とした。鍼灸師も社会の中の一員であるから、君子をめざして、修己治身することは、当然なのです。

 鍼灸師は、社会人として君子をめざし、治療人として聖人をめざさねばならないのですから、安直にできる仕事ではないのです。このことは江戸時代の鍼灸書で、しばしば警鐘が鳴らされています。そろそろ、めざめないと。

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