2015年9月23日水曜日

弦躋塾終わる

 9月20日・21日と、第31回の弦躋塾に参加してきました。去年あたりから、31回で弦躋塾は閉じると、首藤先生が仰っていたので、「長い間、ご苦労さま」という気持ちを込めて、参加してきました。おん歳83だそうです。

 弦躋とは、首藤先生の字(あざな)で、文字通り首藤先生の塾なのですが、もし「其の人」がいたならば、まだまだ続けられたのではないかと思いました。後継者がいないのでは、「伝統医学」にはなりえないのではないかと、少しばかりの危惧をいだいてきました。

 弦躋塾は、首藤先生の講義・実演がメインで、外来講師の講義・実技をサブとし、ほぼレクチャーで終わります。レクチャーは、教育効果があがらないとされていますが、100名を超える参加者に、手取り足取りの実技指導は、なかなか難しいところです。首藤先生の実演が、スクリーンに映し出されますので、「見て学ぶ」きわめて貴重な機会なのです。

 「見て学ぶ」側が、単なる観客でおわるか、技術をぬすみとる者になるかは、大きな分かれ目です。話を聞いたことが、単なるお話でおわるか、自らの訓えに昇華させるかは、大きな分かれ目です。講座講演の機会が多いほど、見ることに慣れ、聞くことに馴れてしまい、収穫は少なくなるような気がします。有り難みがすくなくなるというか。

 そういう意味では、いつでも餌が用意されているのではなく、餌を探し求めるハングリーさが、必要ではないか。『荘子』養生主篇の「野性のキジは、鳥かごに飼われるのを求めていない。餌が十分で精神は安定しているが、こころ楽しくないからだ。」という一節が降りてきた。餌を食べることも学ぶことだが、自由に餌を探し求めることも学びである。前者はレクチャーだとして、後者は体験型の教育になろうか。
 
 やはり、国試一本やりの教育は、まずいなあ。
 


 

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