2015年9月14日月曜日

きゅうくつと天災

 先週の日曜日に、勉強会に行くために、新宿駅で乗り換えたら、人の多さに気押されて、息苦しくなりました。強迫されるような感じで、生きた心地がしませんでした。2~3分のことでしたが。

 毎月一回、新宿駅で乗り換えて、同じような人混みに混じるわけだけど、今回が初めてそうなりました。いつの間にかですが、狭いところ、狭い感じ、ひいては「何時いつまでに」という締め切り感に、窮屈さを感じ、苦しくなっているようです。田舎育ちなので、都会生活がだんだん困難になってきているのだと思います。「つま立つものは、立たず」というがごとし。

 もうひとつ押し寄せているのが、天災。わが家は、もと田んぼだった住宅地に立てたので、床上冠水を何度か経験しています。軽かったので、被害軽少でありましたが、鬼怒川の氾濫のようになれば、同じようになると覚悟しています。その、大水がいつくるのか、それも強迫的でもあります。怖いわけでもなく、悲観しているわけでもなく、覚悟はしているのですが、それでも見えない強迫として、わずかばかりあります。

 鬼怒川が氾濫したと思ったら、阿蘇山が噴火しました。首都直下の地震もありました。三陸津波を経験し(身内が経験したので間接的ですが)、大雨の被害に遭っていると、天災が人ごとではなくなり、なんとなく息苦しくなります。おおかたの人は、のど元過ぎれば忘れてしまうのでしょうが、これだけ頻繁だと、心構えしておいたほうが良いのではないでしょうか。
 
 他の国とはちがって、天災が多い国なのだから、日本人は、個々人がしっかり天災と向きあわなければならないと思います。国がなんとかしてくれる、自治体が助けてくれる、と安穏している場合ではないでしょう。自分には天災が降りかかってこない、とのんびりしている場合ではないでしょう。

 日本人が呑気になってしまって心配ですね。ボーとしている間に・・・・。万事、後手後手に回ってしまうのは、この辺りが原因なのだと思います。ひとは、自分が被害にあわないと、天災がくるのとは思わないので、しかたないのかも知れません。

 実は、鍼灸界も、呑気になってまして、天災がきそうなのを誰も心配していません。安づくりな医学なのですから、一旦事が起きれば、あっというまに消し飛んでしまうのです。先生方は、酒吞んで浮かれている場合じゃなくて、次の世代のために、足場固めの一策を講じなければならないと思います。

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