2015年7月8日水曜日

オリエント研修その2

 森共之先生が、『意仲玄奥』に書き入れた「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所な。医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」という一文は、これこそ真髄ではないか。

「忘れ」は、『荘子』外篇・達生篇のエピソードがわかり易い。
「足のあることを忘れておれるのは、履き物が足にぴったり合って快適だからである。腰のあることを忘れておれるのは、結んだ帯が腰にぴったり合って、快適だからである。善し悪しの判断を忘れておれるのは、心と対象とぴったり一つになって快適だからである。内面の動揺がなく外に流されることもないのは、どんな出来事にもうまく適合して快適だからである。心にかなった快適さにもとづいて、どんな場合にも快適でおれるというのは、快適を忘れて意識しな快適にいるからである」(金谷治訳)

「相い忘れ」とは、医者の手指と、病人の皮膚がぴったり合って、快適なことだといえる。別な言い方をすれば、「一体になった」ということである。


 鍼灸は、診察にしろ、治療にしろ、病人の皮膚に直接触れる治療法である。この意味では、とても特殊な治療法である。やはり、柔らかで、温かな手が、是非ほしいところである。

 タオルを隔てて触れるのならば、手が冷たくても、手が荒れていても、手汗をかいていても、病人に不快がないだろうが、皮膚に直接触れるのであれば、病人は不快だろうと思う。ましてや、腹部はナイーブなところだから、一層に不快だろうと思う。

 そうしてみると、鍼灸にしろ、腹診にしろ、技術以前に、手指を整えることが、「相い忘れ」の第一歩ではないだろうか。なにしろ、イヤがられたら、腹診はできませんから。手指を整えるには、毎日、空いた時間に自分の肌を撫でる、気がついたら撫でる。そういう工夫が必要である。他にも、工夫法があると思うが、どんな方法でも良いから、続けなければならない。

 なので、オリエント研修では、「手指を整える」ことを、第一声にした。少なくとも、自分の手の平をこすりあわせ、滑らかな手の平を作ることを、繰り返し教えた。あとは、受講生の工夫だけが、頼りである。

 ツボが正確にとることができるとか、反応を正確に拾うことができるというのは、その次である。あくまで、初めから、病人の皮膚に拒否されないように、手指を調整しておかねばならない。それが、「相い忘れ」の第一歩だと思う次第。


 










 


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