2015年2月9日月曜日

あい忘る

 森共之編の『意仲玄奥』は、御園意斎(1557~1616)に師事した森家の秘伝書である。意斎には、初代の宗純と、その次男の仲和が師事しているが、とくに仲和は子供の時から師事していて、上工のほまれ高かったようである。その孫が共之で、仲和の弟子の大槻泰庵のノートを元に、自流について整備した秘伝書である。

 その中に、共之のメモとして、「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所なり」、と但し書きした上で、「医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」と書いている。

 このようなお言葉には、いろいろ古典を読んでいるが、遭遇したことがない。秘伝書ならではの、ちいさなメモである。大言壮語するわけではなく、日常の何でもないことばを、次の世代に伝えようとする、真摯な心持ちがよく現れている。

 長年の修行の上に、「相忘」の境地に達したという。『荘子』の「坐忘」「木鶏」を思う。診察せねば、診察せねば、という気持ちがすり減っていって、ごく自然に病気の核心をつかみとっている、そんな姿を想起する、今世紀至高の明言ではないでしょうか。

 「相」とは、医者と病人の双方、どちらも。「忘」とは、亡に通じ、無になること。医者は診察しようという気持ちを忘れ、身体の情報が自然に拾えること。病人は、診察されていることを意識しないこと。自然に、流れるように、なめらかに、有るようで、無いようで、そして自然に治療する。「相忘る」とは、なんと思いが深いことばではないでしょうか。

 みなさん、本は高いとか、古典は読まないとか、あれこれ言うけど、このような至言に巡り会った時のよろこびは、まさに千金に値します。本でも、古典でも無くても良いのですが、ぼくの場合は本であり、古典なのであります。

 

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