2013年1月6日日曜日

ただ変のみ。


 ふたたび、和田東郭先生。『蕉窓雑話』の冒頭に「医則」が附録されている。先生の遺稿から抄録したものだという。前回の「用方簡者、其術日精」も「医則」にある。

今回は、「医之所用心者、其唯変乎。揣変於未変、而以非変待変。此之謂能応変也。」である。この文章の意味がわかったのはごく最近で、読み始めて10年ほど経っている。原文には返り点がついているので、読める。読めることと、わかることは、雲泥の差がある。そのわかるまでの道程が、古典をよむことの醍醐味であろう。

新幹線で仙台まで、2時間もあれば到着する。歩で歩けば、10日以上はかかる。仙台に到着したことはおなじでも、その道のりは全く違う。新幹線では古典はわからない。地道をあるくに如かず。苦労した分、よろこびが多い。

 医者が心を用いるのは、(患者の)「変」だけである。「変」を「未変」に推し測り、(医者の)「非変」の状態で「変」を待つ。このことを「能く変に応ずる」という。

 変の対は常である。平常である。医者の非変の状態とは、平常心を指す。どのような患者が来ても、症状にとらわれることなく、こころを動揺させることなく、平常心で対応せよ、という意味である。その平常心でなければ、患者の変を見抜けないし、未変を推し測ることができなくて、ただうろたえるだけである。

 患者の変とは、平常と異なる何か(症状であったり、仕草であったり、身体の反応であったり)であり、変が明確になる前に見つけ出して対処すべきであることをいう。

  まりは、澄明なこころで、静かに、患者さんに対応せよ、言い換えることができるかも知れない。『針道秘訣集』の「三つの清浄」に相通じるところがある。

その脈をたどれば、『老子』第一章の「故常無欲以觀其妙」(いつも無欲であれば、微妙・精妙をみることができる)に到達する。

10年を要したのは、『老子』を読んでいなかったからである。
 
二三子に告ぐ。東洋医学の古典を読むならば、『老子』『荘子』『論語』を併せ読むべきだ。平成25年の年頭に、原点に回帰を唱う。

 

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