2012年9月18日火曜日

機心

 「荘子」天地篇のはなし。ひとりの老人が、井戸から水をくんで畑に水をまいていたところに、孔子の弟子の子貢が通りかかり、井戸から水をくみ上げる「はねつるべ」とい機械があれば、もっと楽に、効率的に、水まきがはかどると教えた。けれど、老人、「はねつるべ」という機械は知っているが、機械にたよると機心が生まれ、機心が生まれると、こころの純白さが無くなる。だから、それは使わないと言った。

 井戸のくみ上げを機械に任せれば、井戸の様子を観察しなくなる。水位はどうか、水質に変化はないか。さらに、くみ上げる方の健康状態まで関わってくる。このような純粋な観察があって、くみ上げが成り立っているわけである。それを機械まかせにしてしまえば、もっとも大切なところを無視し、こころの純白さが無くなる、というわけである。

 鍼灸治療にマニュアルがあるとすれば、まさにこのエピソードに該当する。胃が痛いのには足三里。腰痛には委中。形式通りの治療。そこには、身体を観察するという基本が抜けている。鍼灸治療は、原則的には、人にたよらない、理論にたよらないで、自らの観察から始まる。そういう意味では、とても自由な職業だと、つくづく思う。学ぶ者は、まず最初に、ここに気づくといいのだが。
 

 

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