2012年6月22日金曜日

其の楽しみを改めず

孔子の弟子の顏回は、普段の生活は、一杯のご飯と、一杯の味噌汁と、狭い路地暮らし。普通の人は、その貧窮さに耐えられないものだが、顏回は其の楽しみを改めていない、何と賢いのだろう。 (『論語』雍也篇)

 其の楽しみとは何だろう。

 孔安国は、道を楽しむ、といい、朱熹はあえて説かず、「其」の字は玩味すべきであると、なぞめかしている。

 楽しみという語は、『論語』の冒頭に、友達が遠方からたずねてきた、何と楽しいではないか、とある。そこからすれば、手放しで喜ぶことを、楽しむというのだと思う。勉強が楽しいというのは、手放しで喜んでいることで、パチンコが楽しいといえば、手放しで喜んでいる。

 その手放しは、損得ぬきであり、よこしまなこころが介入してはならない。そこで初めて、思いよこしま無し(『論語』為政篇)のことばとつながる。よこしま無しを、吉川幸次郎は、感情の純粋さと訳している。

 感情の純粋さに支えられた喜びを、楽しみというのだろう、とようやく落着。単に学問が好きだ、没頭しているのではなくて、「何々のために」というよこしまなこころを介入しないことが、大事なのではないか。

 古典を読むとき、臨床に役立たせようとか、発表しなければならないとか、なにかよこしまな心が介入したとき、つまり楽しくないわけである。古典は、単に知識を得るための情報誌ではないのだから、純粋な気持ちになって、真正面から読んでほしい。








 

0 件のコメント:

コメントを投稿