2012年7月18日水曜日

其の楽しみを改めず(その2)

前回、貧窮生活なのに「其の楽しみを改めていない」と、孔子から絶大なる評価を得ていた顏回の「其の楽しみ」を考えてみました。そして、「感情の純粋さに支えられた喜びを、楽しみというのだろう」とようやく落着しました。が、『莊子』外篇・養生主篇に、顏回の話と同じ沢辺の野生の雉(沢雉)の説話があります。
 「沢辺の野生の雉は、十歩歩んでやっとわずかの餌にありつき、百歩歩んでやっとわずかの水を飲むのだが、それでも籠の中で養われることを求めはしない。籠の中では、餌はじゅうぶんで気力は盛んになろうが、こころ楽しくはないからだ」(岩波文庫版現代語訳)
 野生の雉は、餌が不十分で、天敵に襲われるおそれがあるけれど、籠の中に飼われたくないはずである。なぜなら、自由に羽ばたけないからである。飼われて安心するよりも、翼を拡げる自由をえてこそ、のびのびと、生き生きと、生きることができるのである。からだの満足より、こころの自由を唱えていた荘子らしい説話である。
 としてみると、顏回がもちつづけた楽しさとは、「感情の純粋さに支えられた喜び」かも知れないが、養生主篇を参考にすれば、「こころの自由」と解釈するほうが、よいかも知れない。

0 件のコメント:

コメントを投稿