2013年4月9日火曜日

素のちから

 何時だったか、オリエント出版社からの招きで大阪で講演したときのはなし。
ホテルをあてがってもらったので、土曜から大阪入りして、ぶらぶらと夕食を探していたら、「夏野菜のスパゲッティ」なる看板発見。茄子のほか、いろいろな野菜(覚えてない)と、スパゲッティを炒めたもので、まことに美味しかった。ミートソースも使わず、トマト味でもなく、塩味のみだったので、(いつものように)目からうろこが落ちてしまった。きっと、秘密の塩を使っているに違いない、なにか隠し味があるに違いない、と踏んだ。たいてい、こういう時は、次の日も食べる。さすがに、連食すると、感動が薄れ、うまさも少し減るが、ほぼ同じもの。

材料はシンプルなので、家に帰って作ってみたら、それがまあ、美味しいこと。秘密の塩でも、隠し味を発見したわけでもなく、普通の手順で、オリーブオイルでニンニクのみじん切りに火を通し、具と麺を炒めて、塩味で完成。素っ気なく、完成。あっというまに完成。おそるおそる食べてみたら、美味しい。おどろきましたよ。素の力、偉なるかな。忽焉として前に在り(正しい使い方か知りませんが、使ってみたくて)。

初めからミートソースやトマトの力を借りていたために、素の力(オイルとニンニクと塩の力)をスポイルしていただけなので、秘密があるとか、テクニックがあるとか、そういう問題ではなくて、素材の力、基本の力だけでも、十分に美味しく仕上がる、ということを発見しました。ナポリタンで始まり、ミートソースで育った世代なので、なかなかそこから離れられない。手を加え、複雑に味付けすればおいしくなる、素材だけではおいしくない、だしは欠かせないというように、頭でっかちになっていたわけです。

さて、これは鍼灸にもあてはまるような気がしました。己の鍼灸治療像を、学校なり、講習会なり、本なりで作り上げて、頭が拘束され、不自由になってませんか? 鍼灸の「素」について考えてみたら、おどろくほど自由になるかも知れませんよ。
子母沢寛著『味覚極楽』の「宝珠荘雪の宵 伯爵 小笠原長幹氏の話」に、「料理はあまり技巧めいた包丁使いのものはうまくない。包丁味がどうこういうようなことはわからないでも、うまく食わせよう食わせようとしている調子で、いやになる。ぴたりと時節にあったものをその物の一番うまい季節に、淡白に料理して出してくれるのが何よりの馳走である」。受け売りで申し訳ないですが、こういう鍼灸が「素」ではないかと、ひそかに思っています。

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