2013年6月20日木曜日

自立

 子供のころ飼っていた猫は、ときどきスズメやイモリを捕ってきて、もてあそんでいて、さんざんいたぶって死んでしまうと放置し、見向きもせず。小さな動物をみたら、捕獲態勢に入るのは本能なんでしょうね。食べるために捕ったのではなくて。

 猫は、毎日、家でごろごろしているけど、それが猫のすべてではなく、からだの奥底でうごめいている野生も含めて、猫でしょう。覚醒したときの猫は、予想以上。

 今の家を建て替えるときに、隣の土地にプレハブを建てて、仮営業していました。そこから見えた風景。地盤強化の杭を打ったところにできた水たまり。どこからか逃げてきた犬がやってきて、何をするかと見ていれば、ビチャビチャになりながら、水たまりから水たまりへと飛びはねていました。さんざん遊んだあげく、どこかに行きました。

ずぶぬれになりながら野山をかけまわるのが、あの犬の本能なんでしょう。いつも繋がれてガマンし、汚れると飼い主におこられる。そこから開放されたから、本能が目をさましたでしょう。

 しばりから解放されたら、自分で判断しなければならないのですが、その時、本能というか、潜在していた能力が覚醒するようです。もし、わたし達は、人智から解放されたら、どのような本能が覚醒するのでしょうか。

 ぼくがほんの少し覚醒したと思えることは、島田先生が亡くなって自立しなければならなくなったことでしょうか。すべての判断を島田先生に頼っていたので、多少は積極的になったかも知れません。
 
いま、表向きにみえている能力は、もしかしたら仮の能力であって、自立したとき、自由になったときに表出する能力が、真の能力ではないか。とすると、誰かにたよったり、人智にたよったりすることなく、自立できることが、極めて重要なのではないか、と、ネコとイヌをみて思ったしだい。

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