2021年4月30日金曜日

茶は政所

 

 近江の永源寺で買ってきた「政所茶 平番茶」というのが、右の写真。

 全葉を乾かしただけ?の素朴なものです。番茶のあっさり、緑茶の渋み、両方兼ね備えてものです。

 100度のお湯で3分間というから、紅茶とおなじです。通常の番茶は、100度のお湯で60秒ですから、「平番茶」というのですが、番茶と緑茶のハーフですね。

 茶樹は40年が寿命のところ、政所茶は300年だそうです。こういうのを、枯淡の茶というのでしょうか。無農薬だそうです。いいものに出合いました。

 中国の武威岩茶の古いものは1000年だそうです。足下にもおよばないですが、それが1000円くらいで買えるのですから、すごいのです。お茶で言えば、人生最大の収穫でした。

2021年4月29日木曜日

お地蔵さん

  昨年、2度ほど、お地蔵さんが夢枕に立ち、あかるい光を浴びました。何も語りはしなかったのですが。そんなわけで、どのお地蔵さんなのかと、探すのですが、意外に見つかりません。

 4月29日、島田先生の墓参にいったら、なんと、お地蔵さん。豪華に6体。もしかしたら、このお地蔵さんに手招きされていたのかも。なんども墓参に行ってましたが、無縁のものと、素通りしていました・・・

「掬水月在手」(水を掬えば、月は手に在り)

 心を寄せて行動を起こすと、結果が得られる、というのが、身に染みました。


島田先生墓参

  本日、合間をぬって、島田先生の墓参に行ってきました。東武東上線の高坂駅から歩いて10分くらいですが、駅前から周辺まで、区画整理が終わったようで、見違える街になっていました。むかしながらの、細い道は、無くなりました。寒村から、おしゃれな市街になりました。おそらく、沢山の樹木を切ったのでさっぱりしたのかもしれません。

 そういえば、杉山和一は、江ノ島にお礼参りとして、毎月通ったそうです。片道30キロですから、往復で丸2日です。杉山和一の業績は、こうした目に見えない誠実さに支えられているのかと思うと、ぼくらももっとしっかりせねば。

 菩提寺は曹洞宗広済寺ですが、屋根がおもしろくて、写真を撮ってきました。

 横広の顔のよう。鼻は卍です。曹洞宗か、広済寺の独特の型式かとおもったら、近くの天台宗東光院も同じようでした。

 この地区の共通デザインか、建築時期の流行なのかも知れません。


 

2021年4月25日日曜日

65歳 得るもの

 4月5日に、65歳になり、得るもの、いろいろです。

 お寺を味わえることができるようになったのは、得るもの。

 ひとつひとつが味わい深くなったことも、得るもの。これだけ得れば、御の字です。

 玄米が美味しくなったのも、得るもの。食べても、胃が重くならず、さわやかなのは、前には無かったことと思う。

 体は身重になるけど、気持ちは身軽になるから、フットワークがよくなっているのも、得るもの。

 コロナ以降、日曜日家にいることが多くなり、サザエさんをよく見ています。心がさわやかになるので、得るもの。

 あんまり「失うもの」無いかも。

近江の永源寺

 宣言が出る前にと、すき間をついて、近江の永源寺に行ってきました。留学僧の寂室元光が開山の、臨済宗のお寺です。1361年。

 建物は、江戸時代に建て直されていますが、境内は、当時のままですから、往事をしのぶには十分です。

 31歳で中国に渡り、37歳で帰国しました。永源寺の開山になったのは71歳です。無くなったのは78歳。死んだら、この寺は壊してくれ、壊せないなら誰かにあげてくれ、と遺言したそうです。

 境内に入るのに大歇橋(だいけつきょう)を渡ります。変わった名前だなと思っていたら、昨日読んでいた有馬頼底『茶席の禅語ハンドブック』にヒントが書いてありました。

「求心歇処、即無事」(臨済録)

 求心 歇(や)む処、即ち無事なり。

 つまり、追い求めるのを、この橋で止めよ。橋を渡れば、さあ、修行だ。

 そういう意味なのかと思いました。

 帰りに、政所茶(まんどころちゃ)を買ってきました(番茶)。「宇治は茶所、茶は政所」といわれるような古くからの茶の産地とのこと。通販でも売っていますが、買うときは、再訪したいと思います。よいお寺でした。

2021年4月22日木曜日

たががはずれる

 わが家のご飯の流儀は、土鍋で炊き、飯台で冷ます。冷ますのは、前はうちわで、今はドライヤー。急激に冷やすと甘みが出るのです。

 その飯台のたがが、きのう外れたのです。たがは銅製で、お寿司やさんによれば、竹製と銅製は、板と一緒に伸び縮みするので、外れにくいと。ステンレスのたがは、そうでないので、外れやすいと。

 きのう外れたのは、板が乾燥しすぎたからです。乾燥すると板が縮んでしまうのです。お寿司やさんによれば、何日か休みが続くとなれば、お店には、飯台に水張りに行かねばならないそうです。つまり、いつも、一定程度の湿り気が無いと、たががはずれるのです。

 「たがが緩む」というけど、たがは緩みません。板が湿り気を含んでふくらむとたがが締まったようになり、板が乾燥すると縮んでたがが緩んだようになり、はずれるのです。「たががゆるむ」というのは、たがの締め付けがゆるむことではなく、内側の緊張感がゆるむこと、なのだと学習しました。


2021年4月15日木曜日

『無限の清風』

  鎌倉のお墓参りのついでに、建長寺、円覚寺に立ち寄ったときに、売店に、吉田正道住職の『無限の清風』を買った。住職のことも知らないし、ほんのこともしらないのだが、折角だからと買ったもの。

 しかし、読んでみると勉強になり、利益がありそうな本は利益がありそうだが、何となくかったものでも利益になるのだから、はじめに「利益ありそう」などと分けることは、自分の世界をどんどん狭くしているのだと気が付きました。

 『無限の清風』に、師匠の実家、故郷をたずねる、というのは感動的です。

 室町末期、中国の高僧の元に数多くの留学僧が海をわたって、臨済宗がいま在るのだが、別の坊さんの、高僧の寺跡をたずねるという文章(別の本)も、感動的でした。先輩たちは、この道を歩んだのか、この川の水を掬って飲んだのか、同じこの木を眺めたのか。なににも、かににも、心を寄せていた姿が、感動的でした。

 丸山先生の墓参のあとに、昔住んでいたという廃屋をたずねていましたが、他の人からみると、感動的なシーンだったのです。『無限の清風』からいろいろ学びました。

2021年4月13日火曜日

以て爾(なんじ)の隣里の郷党に与えんか

 仲間が急逝し、奥様が遺稿をあつめて詩集を作った。奥様から、ご希望者に贈呈します、と連絡があって、希望者はわずかだった。いろいろ理由があろう。

 昔は僕も、必要ないものとして断っていた。しかし、「論語」の次の文章を読んでから、なんでもいただくようになった。

 弟子の原思が町長になった。孔子は給料を「粟900」と決めた。原思は、そんなにたくさんの給料は要りません、と断った。孔子は、ならん、君が必要ないなら、村の人に分けてあげればよいではないか。

「原思、之が宰と為る。之に粟九百を与う。辞す。子曰く、無かれ。以て爾の隣里の郷党に与えんか」

 原思は、無欲ぶっているが、自分のものにしようと思っていたから多すぎるといったので、私有の欲はあったのである。さすが、孔子先生。私有しないで、みんなにあげればいいんだよと。孔子先生のは、仏教でいう柔軟心(にゅうなんしん)と言うのでしょう。

 この文章をよんでから、飲まないお酒をもらっても、ありがたくいただくことにしているし、嫌いなものでももらうことにしている。持ち帰って、欲しい人にあげればよいので。



2021年4月12日月曜日

もっこうばら 咲く

  今年も、木香薔薇が咲きました。

 世の中、コロナ、ワクチン、なんやかんやとうるさい中、いつもどおりに、微香をただよわせて、開花しました。しばらく爽やかな風がふきます。

 テレビをみれば、暗雲わきあがり。窓下をみれば、雲は吹き消され、蒼天をみるがごとし。

 写真では、微香ただよわぬのが、難。

 


藤平健2

 『百味箪笥』を読むと、『傷寒論』は完璧な医書、とある。

「傷寒論は、まさに類型診断学の極致というべきものであって」と。

「すでに用済みの古代の書」というような人は、つまみ食いしているのである。

 魂を込めてよまない限り、その本質がわからないのである。だから、江戸時代の先生方は、熱心に読んだ。単なる文献ではないから、つまみ食いは無益である。

 中西深斎(1725~1803)は、38歳で吉益東洞の門下になり、『傷寒論』の重要性に覚醒し、医院を閉鎖して『傷寒論』研究に没頭した。30年かけて、『傷寒論弁正』をあらわした。一生を賭した『傷寒論弁正』の崇高さには、だれも近づけはしない。

 一生を賭けて『内経』を読む。残りの人生は、そうありたい。

 

 

 

 

2021年4月4日日曜日

藤平健

 藤平健『百味箪笥』(緑書房)が、書架にあったので、読む。というか、漢方家の随筆なので、敬遠していたのです。差別していたことを反省。

 眼科医なのだが、漢方も使い、手術もやり、注射もするという。それは「現代医学と漢方との、いずれを用いた方が、この患者の病気を、より早く、より根治的に、そして安価に治すことができるか」という三原則を踏んでいるからだという。漢方ごりごりではない先生なのです。

 丸山昌朗先生は、医師なのだが、鍼と灸しかやらなかった、と聞いて、カッコいいなとおもっていたけど、藤平先生もカッコいいなと思う。現在の自分の心境では、藤平先生に近い。

 現在、丹塾古典部で、能美友庵『六診提要』を読んでいるが、これまたすごい。多くの先生方は、治療の証を決めるために診るのだが、能美先生は病気を診ているのです。鍼灸師は、すぐ鍼を刺したがるけど、大いに反省せねばならない。

 これからは、病気をよく診て、「より早く、より根治的に、そして安価に治す」ために、どの治療が良いのか考えながら、治療したい。なんでもかんでも、自分の領域にひきずりこむのは、保身の極みで、恥ずべきことです。良著をよんで、身あらたまる。