2016年8月29日月曜日

沖気為和

 『老子』四二章に「万物は、陰を負うて、陽を抱く。沖気は以て和することを為す」とあって、万物は陰と陽と一体になっている。陰と陽は沖気で一体になり、調和している、という。

 蜂屋邦夫は、「負は背負うこと、抱は抱くことであり、どちらも含み持つ意味である」といい、万物は陰性と陽性を含み持つと解釈している。

 福永光司は「負と抱は、もともとは母親が子供を背負い、膝に抱くこと」という。これによれば、万物は陰と陽と一体になっていると解釈したと思われる。

 老子は、どちらか一方というより、両方を受け入れる。かたよりを嫌う。

 だから、蜂屋説の「人体内で陰と陽が調和して一体になっている」、福永説の「人体は外界の陰陽と調和して一体になっている」、両方が一体になって調和していると老子は考えている。

 それを人体内だけで論じているのが治療の思想で、外界を視野にいれているのが養生の思想。こういうわけで、治療と養生の両輪が理想になるわけである。

「和」をテーマに『内経』を見直すと、かなりの箇所でしみ込んでいる。

 虚に対し補、実に対し瀉というのは、典型的な「和」の思想。たとえば、 『霊枢』終始篇に「寫者迎之、補者隨之、知迎知隨、氣可令和、和氣之方、必通陰陽」とあるのはその典型である。

 ここに「迎を知り、随を知りて、気を和せしむべし」とあるように、補写は手先の技術ではなく、知恵であり、哲学である。老子を理解しないかぎり完璧ではないのである。

 『霊枢』読破の道、いよいよ険し。




 

2016年8月22日月曜日

全山蝉声

 東京都北区の飛鳥山は桜の名所。最寄り駅は京浜東北線の王子駅。
 
 飛鳥山の全ての蝉が一斉に鳴く。家の前の街路樹で鳴いているのには、侘びさびがあるけれど、飛鳥山のは襲いかかってくるような迫力で、とても感動的である。
 
 王子駅で、電車のドアが開くと、蝉声が土砂崩れのように車内に入ってくる。今年はじめての経験である。去年も、蝉声は聞こえていたはずなのだから、聞けども聞こえずだったのでしょう。

 こうしてみると、加齢もまんざら捨てたものではない。失なっているものもあるが、感動しようと思えば、随処にころがっている。感動した分、日々新たなり、年々新たなり。

 スポーツの世界に自己ベストというのがあるけれど、毎日、こうして生きていること自体、自己ベストだし、少しばかりの勉強をしても、自己ベスト。旅行して、知見を足しても、自己ベスト。

 いろんな体験をすることが自己ベストになると思えば、良い体験も、そうでなくても、とても楽しい。

 

 

2016年8月7日日曜日

張士傑先生没す

 8月3日(水曜日)、大阪のオリエントの野瀬社長から電話があって、張士傑先生が亡くなられたと。この3月に、親しくご加療いただき、その時は病気もなく、元気そうだったので、おどろいている。

 「ミヤカワさん」といって煙草をすすめてくれた、あの屈託のない笑顔が髣髴とします。なんど断っても、自分が吸うときは、「ミヤカワさん」といって煙草をすすめてくれました。

 張先生は、お酒はたくさんのむ、煙草もよく吸う。不養生のようだけど、長生きしたのだから、お酒も煙草も、クスリだったのでしょう。のませなかったら、短命におわったかもしれない。

1931年生まれで、85歳。ことしの5月か6月に、日本人の若い見習い達がみな帰国したので、気持ちも切れて、電池も切れて、絶えたのかも知れません。天寿を全うしたという意味では、めでたいことなのかも知れません。

 さらに、東洋鍼灸専門学校で病理学を教えていた金井先生が、8月2日に急逝されました。まだ60歳に届いていないかも知れません。

 長寿が幸福、短寿が不幸のようだけど、マラソンで、早くとも、遅くとも、ゴールに到着したならば、拍手でお迎えしますから、死も、長寿・短寿に優劣をつけず、どちらもめでたいとみなすべきではないでしょうか。

 早牛でも淀、遅牛でも淀、というがごときか。