2015年5月25日月曜日

お灸のイロイロ

 昨日は、全日本鍼灸学会のランチョンセミナーで「お灸のイロイロ」を講演してきました。200名くらいの参加で、見知った人も大部いました。見知った人がいると、やりにくいのです。なぜやりにくいかというと、以前に同じような話をきいた人がいて、ネタがばれているからです。落語や漫才とおなじように、おなじネタでも聞かせる、そのような話芸があれば別なのですが。

 ランチョンセミナーは、自分の空腹をガマンして、美味しそうに食べている人の前で講演するので、少しばかり悔しいもので、出来るならば避けたい状況なのですが、「おきゅうのふきゅう」を考えれば、イヤがっている場合ではありません。

 お灸が生き延びた理由は、時代の要請を受けて、大艾炷から小艾炷へ、烈灸から温灸へと、自在に対応できたところにあります。その生き延びたお灸は、日本の鍼灸のおおきな特色なのですから、積極的に活用していきたいところです。「世界文化遺産」にも値すると思います。鍼灸のみなさんは、そこに気がついていない、のが残念なのです。第2の世界文化遺産候補の「養生」とあわせて、「養生灸」の復活なども、今後の課題でもあります。

 

 

2015年5月11日月曜日

厩やけたり

厩舎が火事になった。孔子が、朝廷から戻ってきて、「けが人はいなかったか」とお聞きになり、馬のことは尋ねませんでした。

という話が、『論語』郷党篇にある。このエピソード自体、教訓めいたところがなく、『論語』に採録された意味も不明である。

 朱子は、けが人を心配していたから、すぐさま質問したのだ、という。人は、迷いがあると、ためらいがあり、ためらいがあるとタイムラグが生まれる。すぐさま質問したのだから、迷いはなく、ためらいが無かったといえる。間髪を入れない生き方の教訓として、この事柄が掲載されたのだと思います。

 何かを判断したとき、即断即決したときは迷いがなく、とても良い判断ができるものですが、時間がかかるほど後悔するような判断になるようです。なぜ、後悔するのかといえば、判断に迷ったときは、自分に有利な判断をしてしまうからだそうです。欲をかいて、よこしまなこころを起こしてしまいますから、悪い結果になるか、悔いが残ることになるのだそうです。

 「ぼくは、老人には安心してもらい、友達には信頼があり、子供にはなついてもらいたい。」というのは孔子の夢です(、『論語』公冶長篇)。共通するのは、孔子と、老人と、友達と、子供との間に、へだてが無いと言うことです。人なつっこく子供達が寄ってくる孔子を思い浮かべると、渾然と一体になっているほほえましい情景が浮かんできます。

 時間に隔てがない即断即決、、隔てのない人付き合い、さらに天道さんとも隔てがない、つまり「隔てなし」こそが、孔子が目指したことなのではないでしょうか。道徳だとか、孝ていだとか、忠恕だとか、そういうのは「隔てがない」ことの延長線上に存在するのだとすれば、実にすっきりします。