2016年12月30日金曜日

ピラカンサとむくどり

わが家の壁に這っているピラカンサ(3メートルくらいの高さがある)は、この時期に実をつけるが、どこから情報を得ているのか、ムクドリがやってきて、実を食べ尽くしていく。みごとに食べ尽くしていく。

 何羽か来ているから、リーダーが誘ってくるのだろうか。三々五々集まってくるのか。それとも、偵察隊が毎日みまわりして、そろそろだぞ~、とみんなに声かけしているのか。

 ムクドリは喜んでいるに違いない。腹いっぱい食べて、堪能しているかもしれない。そして、「旦那さん、ごちそうさま」って、感謝しているに違いない。お正月の前に、大吉ゲットでした。

2016年12月26日月曜日

温良恭倹譲

 京浜東北線の南浦和駅のホームから、敷地は200坪はあろうかと思われる、和風の立派な家が見える。庭には茶室と思われる小さな建物もある。よほどのお金持ちだったのでしょう。

 ところが、いつのまにか解体されて、今は更地になっている。きっと、マンションでも建つのでしょう。遺産相続のために売却されたのかも知れません。

 どういう理由が知りませんが、建って20年もしない立派な住宅が壊されるのは、実にもったいない。その住宅を壊して、マンションを建てれば、相当に儲かるのだから、安いものでしょうが、経済的な損得で、丹精こめて造ったものが壊されるのは、実にもったいない。

 子禽が質問するには「うちの先生(孔子)は、どこの国にいかれても、きっとそこの政治の相談をうけられる。それをお求めになったのでしょうか。それとも向こうから持ちかけられたのでしょうか」

 子貢がいうには「うちの先生の性格は、温良恭倹譲。なので、どこの国にいっても相談を受けられることになるのだ」

 温(おだやかさ)、 良(すなおさ)、 恭(うやうやしさ)、 倹(つつましやかさ)、 譲(ひかえめ)を持ち合わせていたという。それゆえに、いろいろ相談が持ち込まれていたらしい。

 この中の倹約は、老子も重視している。

 老子も、慈・倹・敢えて天下の先にならないの三つの宝を持っている。慈(いつくしみ)、倹(つつましやかさ)、敢えて天下の先にならない(沢庵によれば、謙ひかえめである。中国のふたりの哲人はとても良く似ている。

 ついこのあいだまでの日本に浸透していた「もったいない」の精神は、ふたりの倹約の精神の延長線上にあると思われる。

 食べ物を粗末にしない、修理して大切に使う、というように、日本の日常に遍満していた倹約の精神が、いつのまにか、損得、消費、使い捨てのほうが美徳とされ、倹約は悪徳のようになってしまっている。
 
 本当に日本人は変わったとおもう。

 養生は、倹約の精神の延長線上にあると思う。そうすると、養生の教育のまえに、倹約の精神の教育が先なのだなあ、と気がついた次第。



2016年12月19日月曜日

ランクル60(ロクマル)

 今日、家の近くで、赤のランクル60を見ました。それもマニュアルのようです。若い男性が運転していました。

 ランクルとは、トヨタが誇る大型のオフロード車で、60は今から30年程前に生産されていた型番である。いまだに根強い人気があるらしく、県内にも中古ランクル専門店があちこちにある。

 もし、次に買うのであれば、このランクル60にしようか。これまでは、軽トラが第1候補でしたが。

 クルマは、一般的には、速いとか、安いとか、便利とか、燃費がいいとかが、良い評価を得られるでしょう。けどランクル60は、遅くて、高くて、取り扱いが面倒で、きっと燃費も悪くて、一般的な評価の真反対に居る。それを好んで手に入れているのは、なかなかの硬派である。

 そう考えてみると、古典を読んでいるのは、なかなかの硬派といえよう。仲間が増えない理由はここにあるのかも知れない。 

2016年12月15日木曜日

さらに、一層。

 近所に、コーヒー豆を焙煎して売る店があるので、炒りたて、挽きたて、淹れたての、三たてコーヒーを、毎日飲んでいる。それで、十分満足していたのだが・・・

 数日前、京都の土居コーヒーというところの豆を、いただいた。おそろしいことに、豆の大きさがそろえてあり、見た目もつぶぞろいであった。十分に豆を吟味した気配がただよっている。

 飲んでみると、雑味がなく、三たてを超えている。胃に軽いし、爽やかだし。原材料の吟味につきるか。

 「しじみの貝がみんな同じ大きさで、つまり粒を揃えたところに老人の心がまえがある。金がないので、心で食わせる料理であった。近頃は、同じ茶をやっても、ただ贅沢ばかりで、こんなおもむきのあることをする主人はいなくなった。」

 『味覚極楽』の一節である。老人というのは、牛込早稲田に住んでいた赤沢閑甫という茶人で、茶席に出されたシジミ汁を、いたく感心したという内容である。

 豆のぎんみ、炒りのぎんみ、ひき方、淹れかた。かくして、さらに一層のコーヒーができあがるようである。

 淹れかたでは、最後の抽出液は捨てるというのは、よく知れたことだが、近頃では、最初の抽出液の一滴を捨てるそうである。かくして、雑味がないコーヒーが完成するんだとか。

 この研究熱心さが、日本人の特性でしょうか。

 

2016年12月12日月曜日

がんづぎ

 子どものころのお菓子といえば、がんづぎ(訛りをへらして「がんづき」とも)。二種類あって、むしパンの様なのと、ういろうの様なのと。記憶の中には、みそ味があったような。

 今でも売っているらしいので、伝統菓子として定着しているようです。

 上京して初めての洋菓子は、ヒロタのシュークリーム。地元には不二家があったけど、やはり東京の味のように思いました。昨日、地下鉄の駅で売っていたので、40年ぶりに食べました。

 仙台銘菓といえば、萩の月ですが、松島の銘菓といえば、松島こうれんです。1327年から作っているらしい。米粉を材料にした、ほのかに甘い煎餅です。

 京都には、遣唐使が将来したという、清浄歓喜団があります。日本最古のお菓子のようで、一個540円します。高いと言いますが、遣唐使が持ち込んだお菓子を、現在のわたし達が食べることができるのですから、安いのではないでしょうか。新宿高島屋で、たまに見つけます。

 古いから有難いというわけではなく、今もなお支持されている点が、鍼灸とよく似ていると思います。

 なので、がんづぎ、こうれん、歓喜団をたべると、伝統を受け継ぐことなどを、考えちまいます。

 

2016年12月1日木曜日

戸や窓を開放する文化

 3月に、南京中医大学と学術交流しましたが、そういえば、泊まったホテルは玄関を解放してあって、外の肌寒い空気がはいっていました。中国の方が、「この地方の風習だ」と言ってたのを思い出しました。だから、寒くて、南方といえども痺症が多いのだそうです。



 数年前に、安徽中医薬大学に招待されたとき、宏村という古民家街を観光したことがあります。

 古民家は、家をロの字形に屋根をくみ、真ん中は開けて、天井(てんせい)とよぶ、空がみえる、雨がふきこむ空間が設けてありました。

 案内者の解説によれば、風水思想にもとづく、天地と一体になる空間で、四方向の雨水が入り込むので、四水帰堂というそうです。吉相ですから、家の中に雨水が吹き込んだごときは、気にしないそうです。

 吉相かどうかはわかりませんが、「天地と一体になる、」というのは、大事な思想だと思います。日本でも、かつては雨戸をはずして解放していましたから、中国の影響があったのかもしれません。

 現今の住宅では、開け放つことはほとんどないですから、基盤になる思想が変わったのだと思います。それで住宅が閉鎖的になり、そして人間も閉鎖的になっているかもしれません。家が陰、外が陽だとすれば、陰陽交流が断絶しているといえるのではないでしょうか。

 風水では、お墓のことを陰宅といいます。生きているあいだの住まいが陽宅です。ご先祖の陰のお蔭で、今の陽が有るわけです。陰陽が交流しているととらえるようです。死後、お墓を作っておしまい。なのでは有りません。

 こうしてみると、わたしたちが陰陽思想を学んでいるといっても、机の上だけで、表面的な理解にすぎないなあ。

 住宅といい、お墓といい、生活の中に陰陽がとけ込み、人生の中で陰陽を味わい体感しなければ、陰陽の真の理解を得ることはできないでしょう。

 以上のことを踏まえると、わたしたちが、陰陽だ、五行だといっているのは、表面的理解にすぎない、本当のところは理解していないと思います。西洋医学を批判するまえに、わたしたちの「東洋」を、生活レベルから自己批判せねばならないようです。

 

2016年11月30日水曜日

関東(ちら見)三山

 最寄り駅の東川口駅の南の高台から、筑波山がみえる。距離は近いので、よく見える。標高は877メートル。孤立している山なので、わかりやすい。日本内経医学会で、筑波山登山をしたことがある。岩場をよじ登った。

 中国の泰山は、標高が1500メートルなので、筑波山の倍。麓から頂上まで、7000段の階段が用意されている。岩場と階段では、あっとうてきに階段の方がつらい。同じ運動の繰り返しなので、一定の筋肉が酷使されるからでしょう。

 東川口駅から東浦和駅に向かうときに、北方に日光の男体山がみえる。距離はあるので、空気がきれいな時期しかみえない。電車に乗れば、いつも探すが、年に1、2回しか見えない。

 母方の実家は、松島湾の離島にあったが、冬になると、泉ヶ岳がきれいに見え、「あそこではスキーができるらしい」と、大人におそわった。その大人も、それを聞いた子どもも、スキーをやったことがないし、そもそも知らないのではないか。岩手県出身の女性の患者さんは、東京に来るとき、おばあさんに「東京にはひとさらいがいるからダメだ」と言われたらしい。50年程まえの話である。50年で、世の中だいぶ変わったです。

 京浜東北線の川口駅から赤羽駅に向かうとき、荒川をわたる。そのとき、富士山がみえる。みえるとは知っていたが、このあいだ、やっと、はじめて見えた。見る方向がわるくて、思いこみで違う所を探していた。見えないわけである。
 
 探して見えたのではなく、なにげなく、なにげない方向をみたら、富士山が鎮座していたのである。それも、ほんのわずかな時間であるから、要領がわるいと、ほとんど見えない。

 倉公は、望診に長じているが、特殊能力を持っていたのではなく、みるコツを知っていたのであろう。みどころ、というのでしょうか。孔子は、一晩ねずに考えたが無駄であった、おそわるにこしたことがない、とおっしゃってましたが、やはり、なんどか探し、みどころを教わって、それに基づいてまたさがず、というのが近道かも知れません。
 
 「学んで時にこれを習う。またたのしからずや。」というがごとく、繰り返し復習することがよろこびとなるのが、本当の学習なのでしょう。
 
  予習→おそわる(コツ・みどころ)→復習

 学校で教えての、なんとなくの感じているのですが、みなさん復習が足りないような気がします。しつこくないというか。わかった気になって、そこで止まるのでしょうか。




 

2016年11月21日月曜日

鶯谷の小径

鶯谷駅から、鶯谷書院に向かうのに、線路沿いを歩く。その道の一番細いところは、大人二人が横にならぶと一杯になる。

 駅への近道らしく、人通りは多い。かつ、自転車の通りも多い。自転車はわがもの顔で横行する。最初のころは、「んもお」と思っていたが、今では大人になって、自転車をみたら立ち止まり、「どうぞお先に」と道をゆずる。半分のひとは会釈し、半分のひとは当然顔で通過する。半分でも感謝されるのは気持ちいいので、積極的にゆずることにしている。

 雨が降ったときは、お互いに傘を遠慮しながら歩く。みんなが気遣う、その空気は中々いいものです。

 広い歩道には無い、細い道ゆえの小さなドラマです。広い歩道では遠慮して気遣うことなど、いっそう無いかも知れません。反って横柄のような気がします。

 鍼灸がメジャーになればと期待はするが、そうでない今の窮屈な立場が貴重に思う。窮屈なゆえに、向上をめざし、素朴で真摯な鍼灸師たちが寄りそっている。メジャーになれば、彼らは消滅してしまうのではないか。というのは杞憂だろうか。

 島田先生に「鍼灸は傍流で結構」ということばが在ったのを思い出しました。

2016年11月16日水曜日

十月さくら


 ふとみたら、近所に、十月ざくらが咲いていました。ひっそりと。
 
 探して見つかるのは、喜びなのだけど、ふとみつかると、力が抜けているだけに、喜びに幸せが加わる。

 考えて導き出すより、ふとしたときに「ああそうか」と分かる方が、すっとしみ込む感じになる。

 自慢じゃないけど、電車で坐ったら、確実に爆睡してしまうので、ほとんど立っている。

 立っているときは何もしていないので、「ああそうか」が多い。立っているのは、しんどいと思うこともあるけど、「ああそうか」で幸せになれるので、立つことにしている。

 「どうぞご自由に」と言われたので、(正坐のほうが楽なので)正坐するけど、それをみて、また「どうぞご自由に」と言われる。「ご自由に」というけど、やっかいな、お国です。

 

2016年11月9日水曜日

ジャパン セミナー

 昨日、昨年に続き、ジャパンセミナーを担当してきました。9時から17時の、ハードなセミナーでした。

 アメリカ、カナダ、オーストラリア、インドネシア、ブラジル、スイスから、30名の参加でした。

 今年も、日本鍼灸の触診を広めてきました。「頭のてっぺんから、つま先まで、全身を、なでたり、つねったり、叩いたりする」我流ですから、日本代表とはいえませんが。

 扁鵲は全国を巡って治療したお医者さん(偏歴医)です。地方には方言があり、言葉が通じなくて、細かに問診ができなかったと思われます。故に脈診に長じたのだと思います。

 しかし、脈診だけで、すべてがわかるのでしょうか。

 『史記』扁鵲伝に「病は、大表に在り」という語があります。前後の文脈からすれば、大表とは、体表だけでなく、その人がもつ気配、人間関係、さらには噂もふくめて言っている。であるから、扁鵲が脈診の大家とはいわれるけど、触診もすぐれ、情報収集能力も長けて、それを整理する能力も優れていたのだと考えられる。安直に、脈診の先生と、断じてはならない。

 現代風にいえば、既往歴、家族歴、生活習慣、職場環境などを総合的に言うのだと思います。と考えると、扁鵲は特別なお医者さんではなく、ごく当たり前のお医者さんだといえるでしょう。

 今回は、何人かの外人をモデルを診察しました。また何人かを細切れに触診しましたが、今まで触ったことがないような人が何人かいました。日本人だけを触って触診学を作ったのでは、ローカルなんだと思った次第。

 それと、通訳の方がいるとはいえ、問診は細かにできるわけではないので、病気の情報は無いにひとしく、やはり触ってみなければわからない。むしろ、触るとよくわかるという印象を強くしました。

 その触り方も、日本人限定の通りいっぺんではなく、十通りくらいの触診法を駆使しなければならないな、と強く思いました。


 



2016年11月1日火曜日

電車のつり輪

 18歳で上京して驚いたことの一つは、つり革の輪が、地下鉄では三角だったことです。最近では、つり革は同じ車両の中でも長さが同じでなく、長短入り交じっていて、みていて楽しい。

 写真のは大阪の南海電鉄のつり革の輪で、少し太い。この太さになんとも安心感がある。ベストオブつり革でした。

 電車の吊り輪を見た小児や乳児は、なんとしても掴んでみたい、という目つきになり、手をぐーっとのばす。小学生になると、ジャンプして、掴まえようとする。その姿をみるたびに、「初心」ということを、つくづく思う。つり革に届いてしまうと、目をキラキラしていた時代を忘れてしまう。

 鍼灸を仕事として、食えるようになりたい、治せるようになりたい、ああなりたい、こうしたいという夢が、頑張った結果、実現してしまった。次の野望でもないかぎり、成長は止まってしまう。

日本エレキテル連合の中野さんのコラム(東京新聞10月22日夕刊)が興味深かったので。

「何もかも自由じゃなかった未成年の頃が恋しい」

「そんな不自由さを埋めるために私の脳味噌は進化した。何もかもを空想で手に入れていたのだ」

「ところが最近、私の頭の中の世界が消滅していることに気がついた」

「大人になるにつれ、いろいろな経験をして現実の世界が充実してしまった分、空想の必要が必要なくなってしまったのだと思う」

「不自由や反骨精神から理想を空想してお話を作っていたのに、何も不満がないから書くことがない」

「できることなら少女の頃に戻ってまた妄想や空想に耽りたい」」

 不自由や不満が原動力になり、それが満ち足りれば原動力は奮い立たない。これを 『老子』は、「物壮んなれば老ゆ」と言っている。イチローのように、高い意識をもちたいものだ。

 昭和の鍼灸の目標は「食える」であった。今も、同じである。敷居が低すぎやしないだろうか。

2016年10月24日月曜日

米国の鍼灸教育

アメリカのバークレイの鍼灸学校の校長からのめーるにはおどろきました。

アメリカでは中医学をベースに、
1.東洋医学的な生理学
2.病因論
3.病機論
4.診断理論
5.治療理論(鍼灸・湯液)
 これと並行して、西洋医学の1~4をかなりみっちりと学んでいます。
 その上で、臨床950時間、さらに患者数350名の臨床が義務付けられています。

 最後の行。350名の臨床が、おどろきです。

 3年の制度だとすれば、1年間に120名ですが、1年次には無理だとすれば、2年次・3年次に各175名になります。毎日、臨床実習の時間があるわけではないでしょうから、週2回だとすれば、1回につき2名弱の臨床実習をこなさなければなりません。1クラス30人だと、1授業あたり60名の患者を用意しないと実現しません。

 2年次も3年次も週2回とすれば、60人の患者を4日分用意しなければなりません。日本の学校で、協力患者を毎日60人用意できるでしょうか。

 ちなみに新大久保の学校では、3年次に臨床実習があって、治療できるのは年間で2~3人だそうです。バークレイ校の1パーセントです。愕然としました。

 根本的に教育制度内容を改めないかぎりは、こんご、どんどん日米の差が開いていくのでしょう。

 米国式の鍼灸教育をうたった専門学校が出てきたら、おもしろそうだな。


無味

 
 愛読書『味覚極楽』の赤坂虎屋の黒川光景の段に、

「すべてべっとりといつまでも舌へ甘味が残るのは、菓子の下の下に属すべきもので、舌へ載ってにわかに味が出ず、無あじの如く淡々たる中に、自然にうす味が湧いて出るのが三昧境である。」

とあった。和歌山の醤油ラーメンの味が、そういえば、そんな気がします。出しがしっかり利いているラーメンやが多いなか、???という味の体験は少ない。もう一回、食べてみたい。

 そばつゆでも、かつお節の風味は、不要なのだそうです。

 誰にでもわかりやすい濃厚な味。それを超え、次のステップに至るのが、侘、寂、粋なのかもかもしれません。和菓子というのは、そういう意識をもって、味わうものなのでしょうね。

 T先生が入院されて、銀座の「空也もなか」をお持ちしたとき、「粋なおかし」と評してました。値段は高くないのですが、たいへん喜んでいました。通人は、見る所がなるほど違う。

 生活の中から、侘、寂、粋、が消えている、のに今、気がつきました。日本鍼灸というフラッグを掲げるならば、失ってならないのに・・・・・

2016年10月20日木曜日

和歌山城

 和歌山城は、戦国時代に築かれ、江戸時代に増築されているので、石垣の表情の移り変わりをみることができ、中々面白い。

 写真は、戦国時代の石垣で、なにやら雑然と積まれているが、400年以上経っても、ゆがみもなければ、崩れてもいない。無造作に積んだように見えて、相当な技倆が備わっているようだ。

 穴太積みとも違う、なんとも逞しい石垣である。

 和田東郭の医則の「方を用ゆること簡なるものは、其の術、日に精し」を髣髴とさせる。江戸時代になって、医論が盛んになって、修飾うるわしくなるが、その分、弱々しい。

 鍼灸医学も、たしかに精細な理論もうるわしくあるが、シンプルで荒々しいのも捨てがたい魅力がある。陰陽五行、相生相剋の法則も良いが、法則が無いという法則も良いと思うのだが。


和歌山城 一の門跡は左に2回直角に曲がる。



2016年10月15日土曜日

和歌山ラーメン

 和歌山に来たので、和歌山ラーメンをいただきました

 まず、JR和歌山駅ビル内の丸美商店。麺は普通だけど、スープは、何とも美味しい。目の前に、早寿司があったので、それもパクリ。チープなサバ寿司だったから、要らなかったかも。何の出しかは、不明。

 ホテルが、南海電鉄和歌山市駅近くだったので、二つの駅を歩くことにした。途中に和歌山城が見えるはずだし。電車でも一駅。バスも走っているらしいが、とにかく歩くことに。

 和歌山城がライトアップしてたので、無駄歩きだとおもったけど、ひともうけでした。

 おそらく、3キロくらいか。結構、暗い中を、道を間違えないかと案じながら、小一時間あるきました。その途中に、麺屋ひしお、なるお店があったので、ちょっとのぞく。遅くまでやっているというので、チェックインしたあとに向かうことにした。

 麺屋ひしおは、醤油ラーメンで、スープはあの醤油色。あじも醤油味なのだけど、出しの味は無いような(よくわからない)。

 醤油は癖が強いから、それを醤油色のスープにしたのは、努力賞ではないでしょうか。煮詰めていたら、味がどんどん替わるだろうし。敢闘賞かな。と麺屋ひしおの醤油がなんと湯浅商店(日本の醤油の元祖)のお醤油でした。

 和歌山ラーメン2軒完食でした。
 

ヌーベルシノア

 本日は、講演のために、大阪に来ています。昨夜は、関係者と中国料理店で会食でした。

 中国料理は、大皿から各自が取り分ける「分食」が、基本なのであるが、この店は、最初から小皿に分けて盛ってくる「個食」でした。

 個食は、ヌーベルシノア(新しい中国料理)という方式らしく、高級なジャンルに入るのだが、上品すぎて、パンチフルな本場の中国のを食べなれてしまうと、何とも肩すかし的なのです。

 とはいっても、少食な樸には、量的にはちょうどよい。日本人用にアレンジしたといえば、そうなのでしょう。

 しかし、日本の中華は、中国の料理とは別物で、日本独自に進化したのでしょう。鍼灸も、そうなのかも知れません。日本の鍼灸に安住しないで、原型をたどり、中医学に学び、より鍼灸を深化させたいところです。

 


2016年10月3日月曜日

養生灸その2

 具体的に養生灸の方法を書いてあるのは、貝原益軒(1630~1714)の『養生訓』です。ここには、毎日一壮、百日続けると書いてあります。病気治療のためには、多壮灸すべきですが、あくまでも軽微を、長く続けるところに特徴がありそうです。

 養生灸の初出は、『千金方』だろうと思います。その「灸例」に、阿是穴に施灸しておけば病気予防になる、と書いてあります。

 問題は、この阿是穴です。

 圧痛点と言われていますが、圧痛点ならば全身に分布しているので、どの圧痛点を選ぶのかが大きな問題になります。素人がやる養生灸に、専門的な選穴理論は、問題外です。

 また、選んだ圧痛点が病気予防になるのは、どのような理由なのでしょうか。

 というようなことを考えると、阿是穴問題は、なかなか解決しそうにない。しかし、これが解決しないのであれば、養生灸を唱えたところで、砂上の楼閣にすぎない。となえることで、自己満足しているに過ぎない。

 私説ですが・・・

① 阿是穴は、ああ(阿)、そこ(是)という穴で、圧痛点とはちがう。
② 素人が、そこと認識するのであれば、普段から気になるところを解消しうるツボ、そこが、ああ、そこ、なのである。
③ 普段から気になる所、たとえば肩こりがあれば、元気がなくなるので、それが解消されれば
元気が戻る。というのが、病気予防の理屈か。
④ 自分で施灸できるという条件をつければ、場所は、四肢か、腹部でしょうか。

 結局、普段から気になっている所(不調箇所)が解消し、ああ、そこ、と言わしめるところが、阿是穴なのではないでしょうか。

 【本日の提言】  
 養生灸をしましょう、と提案しても、自力でできなければ、目的は達成できない。
 




2016年9月14日水曜日

党ということ

沢庵『老子講義』

「ほぼ道を知れる人一人有って、其れに人がなびきしたがうと、もはや其の一流が立つなり。」

 道を知った優れた人が生まれると、廻りに人が集まって、一つのグループができる。このことは自然のながれである。がしかし、グループをむさぼり執着して、反って道を忘れてしまい、その優れた人は俗化してしまう。

 臨床に長けて、技術が優れていると、一つの流派ができる。さらに、講習会などを開いて、広めたいとおもう。そこで、会費が発生し、お金の問題が浮上する。それに伴い、人間関係が悪化する。
 
 島田先生に、こういうことを強く誡められた。だから、お金の問題が発生しないように、会費はできるだけ安く、一人の流派にならないように、技術の講習会はしない、と。

 「一段又よき人なれば、斯様に党の立たぬようにすべきなり。斯様に一流立って党が出来る時は、其の中に自然に悪しき事が出るものなり。」

 よく道を知った人ならば、あえてグループを作らない。なぜなら、グループを作ると、その中から「悪」が生まれるからだという。

 富山市議の不正は、まさにこの通り。かりにグループを参加したとしても、それに拘束されずに、各自自由意志を持ち、各自冷静な判断をすべきだとおもう。

 勉強会なり、学会なり、ひとつの会派ができたら、「悪」が生まれやすい、ということは肝に銘じておきたい。




2016年9月12日月曜日

藤井秀孟

 藤井の小児鍼。

 院長は、藤井秀二博士で、『鍼法弁惑』の著者である藤井秀孟の七代目の当主である。本書は、1768年の刊行で、小著ながらたいへんに読み応えがある。

 初代は小児鍼はやっていない。員利鍼やら鋒鍼をつかう、強刺激派である。

 森秀太郎編の『鍼灸医学辞典』(医道の日本社刊)に「藤井式小児鍼」という項目があり、藤井式双管鍼というものを使うとある。

 双管は、『鍼法弁惑』にみえるもので、鍼管を2本そろえたものである。2本同時に弾入し、2本同時に刺すことができる。

 つまり、1穴に2本刺すのである。試してみてください。なかなかの代物です。「鍼は1本を刺す」というとらわれから解放される、喜びが生まれます。他にもいろいろな鍼法が埋もれていると思うと、先人に申し訳ないとおもう。

 『医道の日本』昭和35年12月号に起稿し、言う。

 「鍼灸医業は人格者によってのみ資格を与えられるべきものなり。」

 至言ですね。3年で免許を取れたとしても、現場に立たせるためには、2年ないしは3年、4年の研修期間をもうけ、その中で認められた者だけが臨床の現場に立てるようなシステムにしたいところです。



2016年9月11日日曜日

小池都知事

 小池都知事が、築地市場から豊洲市場に移転するのを、延期した。風当たりは強いのに、なぜ敢行したのか、理解できなかった。

 今日の新聞によれば、豊洲市場は土壌汚染対策のために、4・5メートル盛り土することになっていたのに、全体の三分の一は、盛り土していないことが判明した。

 いわゆる偽装なのである。おそらく、小池知事は、この情報をかぎつけていて、豊洲市場に移転してからでは、問題が大きくなることを予想して、延期したのでしょう。

 それはいいとして、4・5メートルの盛り土を偽装したのは、文化国家としては恥ずべき問題である。さんざん、中国は、中国はと批判しておきながら、わが国で、それも首都で、ういう偽装が起きたのは、何とも恥ずかしい。

 高畑くん個人の問題で無駄な時間を使ってないで、こういう問題こそ、問題にすべきではないだろうか。しかし、誰が指示したんでしょうね。

 そういえば、高畑くん問題も、報道内容が事実と大分違っているらしい。以前に村木審議官も冤罪で大分苦労なさっていたので、真相が判明するまでは、第三者は静観すべきではないでしょうか。

 ぼく個人としては、他の人の評価は、自分で確かめるまで、評価しないことにしている。噂によって人生が狂わされたらたまらんでしょう。その加害者には成りたくないし、噂に乗った自分が恥ずかしいし。


 

2016年8月29日月曜日

沖気為和

 『老子』四二章に「万物は、陰を負うて、陽を抱く。沖気は以て和することを為す」とあって、万物は陰と陽と一体になっている。陰と陽は沖気で一体になり、調和している、という。

 蜂屋邦夫は、「負は背負うこと、抱は抱くことであり、どちらも含み持つ意味である」といい、万物は陰性と陽性を含み持つと解釈している。

 福永光司は「負と抱は、もともとは母親が子供を背負い、膝に抱くこと」という。これによれば、万物は陰と陽と一体になっていると解釈したと思われる。

 老子は、どちらか一方というより、両方を受け入れる。かたよりを嫌う。

 だから、蜂屋説の「人体内で陰と陽が調和して一体になっている」、福永説の「人体は外界の陰陽と調和して一体になっている」、両方が一体になって調和していると老子は考えている。

 それを人体内だけで論じているのが治療の思想で、外界を視野にいれているのが養生の思想。こういうわけで、治療と養生の両輪が理想になるわけである。

「和」をテーマに『内経』を見直すと、かなりの箇所でしみ込んでいる。

 虚に対し補、実に対し瀉というのは、典型的な「和」の思想。たとえば、 『霊枢』終始篇に「寫者迎之、補者隨之、知迎知隨、氣可令和、和氣之方、必通陰陽」とあるのはその典型である。

 ここに「迎を知り、随を知りて、気を和せしむべし」とあるように、補写は手先の技術ではなく、知恵であり、哲学である。老子を理解しないかぎり完璧ではないのである。

 『霊枢』読破の道、いよいよ険し。




 

2016年8月22日月曜日

全山蝉声

 東京都北区の飛鳥山は桜の名所。最寄り駅は京浜東北線の王子駅。
 
 飛鳥山の全ての蝉が一斉に鳴く。家の前の街路樹で鳴いているのには、侘びさびがあるけれど、飛鳥山のは襲いかかってくるような迫力で、とても感動的である。
 
 王子駅で、電車のドアが開くと、蝉声が土砂崩れのように車内に入ってくる。今年はじめての経験である。去年も、蝉声は聞こえていたはずなのだから、聞けども聞こえずだったのでしょう。

 こうしてみると、加齢もまんざら捨てたものではない。失なっているものもあるが、感動しようと思えば、随処にころがっている。感動した分、日々新たなり、年々新たなり。

 スポーツの世界に自己ベストというのがあるけれど、毎日、こうして生きていること自体、自己ベストだし、少しばかりの勉強をしても、自己ベスト。旅行して、知見を足しても、自己ベスト。

 いろんな体験をすることが自己ベストになると思えば、良い体験も、そうでなくても、とても楽しい。

 

 

2016年8月7日日曜日

張士傑先生没す

 8月3日(水曜日)、大阪のオリエントの野瀬社長から電話があって、張士傑先生が亡くなられたと。この3月に、親しくご加療いただき、その時は病気もなく、元気そうだったので、おどろいている。

 「ミヤカワさん」といって煙草をすすめてくれた、あの屈託のない笑顔が髣髴とします。なんど断っても、自分が吸うときは、「ミヤカワさん」といって煙草をすすめてくれました。

 張先生は、お酒はたくさんのむ、煙草もよく吸う。不養生のようだけど、長生きしたのだから、お酒も煙草も、クスリだったのでしょう。のませなかったら、短命におわったかもしれない。

1931年生まれで、85歳。ことしの5月か6月に、日本人の若い見習い達がみな帰国したので、気持ちも切れて、電池も切れて、絶えたのかも知れません。天寿を全うしたという意味では、めでたいことなのかも知れません。

 さらに、東洋鍼灸専門学校で病理学を教えていた金井先生が、8月2日に急逝されました。まだ60歳に届いていないかも知れません。

 長寿が幸福、短寿が不幸のようだけど、マラソンで、早くとも、遅くとも、ゴールに到着したならば、拍手でお迎えしますから、死も、長寿・短寿に優劣をつけず、どちらもめでたいとみなすべきではないでしょうか。

 早牛でも淀、遅牛でも淀、というがごときか。




2016年7月25日月曜日

藤井秀孟『鍼法弁惑』

 丹塾古典部で、先月から読み進めた、藤井秀孟著の『鍼法弁惑』は、本日(7月24日)でとりあえず読了。読み切ったわけでも無いのですが、なるべく多くの古典に触れるのが古典部の方針ですので、とりあえず読了ということにしました。

 『鍼法弁惑』は本文81丁。ほどほどの分量ですが、中身は濃いものがあります。『内経』『難経』を読みこなしているようで、はっ!とするような解釈が随処にみられます。こんなに踏み込んだ解釈に遭遇して、とても驚いています。

 藤井先生は、漢学の素養は深く、臨床もすぐれている、現今にはいないレベルの先生だと思います。矢野白成先生も近い。今では、丸山昌朗先生か。

 毫鍼の刺し方は、ただ刺して、ただ抜くと言う、実にシンプルな方法を行う。それは『霊枢』九針十二原篇に、毫鍼は尖は蚊虻の喙(くちばし)のごとし、とあるところからヒントを得て、ただ形を真似るだけでなく、刺し方も蚊や虻を手本にせよと覚り、静かに刺して、静かに抜くのを原則とする。撚るとか、手技を加えるのは、毫鍼の本義ではないと。

「毫鍼は、尖は蚊虻の喙のごとし。静かにし、以て徐ろに往(すす)め、微(しず)かにし、以て久しく之れを留む。」

「弁惑」は、『論語』顏淵篇から採ったもので、惑とは、人間が無自覚に犯す矛盾、弁とは、それを弁別発見し除去すること。日本の伝統的な鍼灸法にかぶさっている、こじつけ、偏見、強引な割り振りなどを批判し、合理的に判断し、不要なものを取り去ることを言っている。

 判断の材料は、『素問』『霊枢』『難経』で、そして自身の理性で決断する。方向性としては、伊藤仁斎、後藤艮山のながれであり、古学、古方に属すると考えられる。

 『霊枢』九針十二原篇の「鍼を持するの要、堅きものを宝とす」「之れを刺して気至らずんばその数を問うことなかれ」などをまとめて、 これらの文章は「中正平直(偏らず公平)にして鍼を下し、小心翼々(慎重に)として命を重んずる要を論ぜり」と要約し、たんなる刺鍼法を述べたのではないことを見いだしている。

 この中正平直は、科学的な態度にも近い。私情を差し挟まない、臆見を介入させない、へりくつを通さない、思いこみを容れない、冷静で合理的な態度である。

 陰陽五行説、五蔵説、経脈説、経穴説、これらを中正平直に批判しないかぎり、鍼灸医学のあたらしい局面が生まれないのではないか。ただ、言われるままで受容している今のままでは、アカンでしょう。






2016年7月23日土曜日

八木下先生の遺品

 八木下勝之助先生が所持せる『重宝記』、鍼具については、このブログでも取り上げましたが、『漢方の臨床』の5月号・6月号に、報告を投じました。「めでみる漢方史料館(333・334)」です。カラー写真で紹介していますから、興味のあるかたはご覧になってください。

 やはり、それらを直に見ることができたのは、あこがれている人に会えた、握手できた、お話ができた。というように僥倖でありました。なにしろ「直」です。

 かつてこのブログで、柳宗悦が、国宝の喜左右衛門井戸を手に取ることができた、その時の感動を記した文章を紹介しましたが、まさに「直」よりまさる感動はなし。

 たった一人が機縁になって、日本の鍼灸が変ったのですから、八木下先生は聖人でしょう。同じような意味で、古典を標準にすべく孤軍奮闘した丸山昌朗先生も聖人だと思います。どちらもお会いしたことがないけど、写真が残っているのが、唯一の救いです。

 八木下先生の写真は、かつては白黒写真しかなく、不鮮明でしたが、この度の写真は精度がマシになり、先生の気配がよく表れています。むすめさん(静香さん)も写っているし、奥さんも写っているし、治療所も写っているし。丸山先生の写真は、『著作集』の写真が一番よいようで、鶯谷書院に立ててあります。これは、島田先生が選んだのではないでしょうか。

 八木下先生のお墓は、かつて墓参した人から得た、千葉、モノレール、公園の近く、というような手がかりから、鈴木幸次郎くんが探しあて、写真を撮ってくれました。

 八木下先生は、経絡治療の祖ですから、きちんと顕彰すべきではないでしょう。お墓参りは、宗教的行事ではなく、ご先祖に感謝をあらわすための行動ではないでしょうか。今の自分は、遺伝子だけでなく、生活環境もふくめて、すべてご先祖の遺産でありますから、感謝すべきではないでしょうか。

2016年7月13日水曜日

『唐代文人疾病攷』

 小高修司著の『唐代文人疾病攷』が出版されました。知泉書館、4320円。印刷は400部だそうですから、欲しいヒトは早めに手にいれましょう。(ぼくに連絡してくれれば、著者割引でおわけします。数にかぎりあり。)

【広告文から】
白居易は病弱多病で頭痛、眩暈、眼病、半身不随、ストレスによる肺疾患にかかり・・・・
杜甫は窮貧や船上生活などにより風邪に悩まされ・・・・
李商隠は遺伝による糖尿病を患い、それによる眼疾患や腎不全・・・
柳宗元・・・環境と身の不遇の中で、散策や腹式呼吸・・・
温庭筠の詩文の過剰なまでの修飾表現は・・・アスベルガー症候群に由来する
蘇軾は眼や耳、そして痔に悩まされたが、医薬、養生への感心と知識を広く伝えようとした

 小高先生は元は外科医で、豊島病院で頭頸部領域のガンの外科手術に疑問をもち、中国医学を学び、ひいては古典を研究しました。本書は、その成果ですが、科学的な視座をおもちなので、古典を読みかたもするどいのです。

 付録に「蘇軾を通して宋代の医学・養生を考える」があるが、副題を「古代の気候・疾病史を踏まえて『傷寒論』の校訂を考える」とする。この中で、古代の気候特徴と流行する病気に着目し、科学的な眼で古典を読むという方法を提示している。なぜ『霊枢』で九鍼が重んじられ、さらに『難経』に九鍼もお灸も出てこないのは何故なのか。唐代にお灸が流行したのは何故なのか。それを気候面から再検討せねばとつくづく思いました。


 
 

2016年7月11日月曜日

唯!

 先日の『論語』を読む会で、曽参が孔子のよびかけに「唯」と答えるところに至った。

 「曽参くん。わしの道は一つのことで貫かれている。」「ハイ!」(里仁篇)

 「ハイ」という返事をきいて、孔子は退室する。朱子は、唯は反応がす速やくて疑いを持っていない返事だという。澄んだ目で即答したのでしょう。だから、きっと安心して退室したのでしょう。

 先進篇では、曽参は「魯なり」といわれる。魯は、愚かで鈍いこと。行動は遅いはずなのに、返事が素早かった。その理由は、朱子がいう「疑いをもっていない」ところにある。別な言い方をすれば、素早いということは、時間のすきまがないことである。なので、疑いを容れない。あるいは私情をはさむ余地が無い。雑念が無い。結句、行動が素早い人は、純粋である可能性が高い。
 
 里仁篇はこうも言う。君子は、発言は遅くて(訥言)、行動が素早いのが望ましい。

 都知事選では、後から立候補したほうが有利だという。それを後出しじゃんけんというらしい。その通りに、こずるそうな人達が、後から後から顔をだす。

 政治をこずるい人に任せられるのでしょうか。こずるい人に懲りたはずなのに、こずるい人の戦略にはまって、またもやこずるい人を選ぶのかなあ。

 個人的には真っ先に手を挙げた小池さんに委ねたい。どのような思惑をもって立候補したのかはわかりませんが、真っ先に手を挙げたところを評価したい。とはいっても、都民ではないから、投票権ないのだけど。

 いずれにしても、行動のす速さを人物評価の指標としてみると、なかなかに興味深い。





2016年7月4日月曜日

鈴木真幸さん逝去


 鈴木真幸さんは、東洋鍼灸専門学校の学生さんなら、「寺子屋」の主宰者として知っているのではないでしょうか。伝聞によれば、この6月18日に逝去したらしい。昭和の鍼灸人がまた一人あの世に行きました。

「心身の体力低下が著しく、医療行為者として、これ以上の責任のもてる施術をすることが不可能となりました。このため、この五月を以て東雲堂鍼灸院を閉院することにしました」というはがきを、4月6日消印でもらったばかりです。

 85歳だったようです。東洋鍼灸専門学校の1年後輩ですが、卒業後まもなく開業したので、34年間の臨床だったと思われます。開業したのは50歳ころではないでしょうか。隣町の浦和市で開業したので、最初のころは何度か訪問しました。

 どこにも所属しないで、経絡治療を独自に発展させた方法で治療していました。寺子屋の配布資料は、こつこつとワープロ入力したもので、地道で、骨太で、一本気さがにじみてで来るものです。

 島田先生の七回忌追悼特集号(『内経』164号)には「睡足軒の一夜」を寄せてくれました。

2016年6月27日月曜日

和田東郭先生

 今年60歳。和田東郭(1742--1803)先生に近い年齢になった。けれども、和田先生の気高さには、足元にも及ばない。何もかにも及ばないのだが。

 和田先生は、さきに吉益東洞に入門し、その人柄を嫌って辞し、最終的には折衷派の大家となった。古方を学び、後世方を学び、最終的にそれを混ぜ合わせたのが折衷派。そう思っていたけど、彼の塾の「医則」を読んでみると、そうではないことに気づいた。

 「医則」には、彼我の分が無い、死地に陥いんと欲する者は活路を得ん、色を望むに目を以てせず、とかあり、ここから老子の思想が読み取れる。「医則」に入れるくらいだから、相当に読み込んでいるのであろう。

 老子が影響しているのであれば、古方と後世方の区別は、和田先生には無いことになる。おそらく、一つの医学の、A面が古方で、B面が後世方であり、分けるべきではない、そう思っていたはずである。

 和田先生は「一」に復帰したのである。だから、両者のいいとこ取りして、折衷派を作ったのではない。和田先生は、まことに純粋である。沢庵の『老子講話』を歩み、森共之の『老子国字解』をたどり、和田先生に至り、感慨ひとしおである。

 日本鍼灸も「一」に復帰すべきではないだろうか。

 


2016年6月20日月曜日

『鍼灸OSAKA』121号

 『鍼灸OSAKA』121号は、「触診力をつける」を特集し、中身が濃い。30年前は、こういう親切丁寧な本がなかったし、誰も教えてくれないので、力がある人は自立できたが、そうでない人は自滅していました。この特集をよくよみ、練習をつめば、相当よい治療家になれるのではないだろうか。

 こういう特集を組んでくれる発行者はとても貴重である。定期購読をして支援してあげましょう。自分の好みの特集だけを購入するのも良いが、活動を支援するという意味で定期購読してあげましょう。

 この中で、94ページの「津島さんのバリア」が、いちばん印象的でした。太宰治の娘である津島佑子さんにまつわるエピソードである。津島さんの周りの人の思いこみが、津島さんのバリアを形成するという話。「病者は、色眼鏡でみないで、素直に直観すべき」と啓発されました。

 三旗塾の金子朝彦先生が登場する「フィリピン・スービック地区での鍼灸治療3日間」という対談も興味深かった。金子先生は問診を主とするが、言葉が通じないので、六部脈診を使った診察治療をしてきたと言う。経絡治療的に、「六部の凸凹を平らにする」という治療法。ぼくと同じようなことを考えている。

 言葉が通じないという状況で、対応できる汎用性があり、理論理屈をとり除いたという意味では、無心であり、臨機応変に対応できるという意味では、たくましい。金子先生、すごいな。

 触診では、谷岡賢徳先生の、既成の理屈を容れず、ただ皮膚を観察し、そこから見えてきた事実だけを積み上げてきているのは、すばらしい。この優れた人の言葉を読めるのは、幸せである。「触診の神さま」でしょうね。

 121号はおすすめです。ついでに定期購読しましょう。鍼灸を純粋に考えてくれる編集者を応援しましょう。

2016年6月13日月曜日

潮目

 情勢が変化するその境目のことを潮目という。

 東日本大震災は、日本の潮目だったような気がする。無駄遣い生活から、質素倹約の生活に転換しなければ成らなかったのかも知れない。大きな企業、シャープやら、東芝やら、あるいは潮目の読み違いだったかも知れない。あるいは、潮目を読まなかったのかも知れない。経営が順調で、慢心していれば、行け行けどんどん、潮目なんぞ読んでいなかったかも。

 清涼飲料水の自動販売機があちこちにあるけれど、そんな国は他には無いらしい。一時ののどごしのために、膨大なエネルギーを捨てているのだから、気が狂っているとしかいいようがない。そういうことを反省しないで、行け行けどんどん、邁進しているようでは、危ういのではないか。

 『霊枢』の天年篇には、人生の潮目が書いてある。100歳を天年(自然の寿命)とし、前半の50年が「実」の人生で、後半の50年が「虚」の人生だという。すこしずつ増えていく人生と、少しずつ失っていく人生に分けられる。増えるのが良い、減るのが悪いというのではなく、ごく当たり前のこととして、増える・減るのであるから、それをきちんと認識して人生を送るべし、という風に解釈できる。

 50歳が潮目だとすれば、「日なたの人生」から「日かげの人生」に変わったことになる。動から静へ行き方を変えるべきなのかも知れない。たしかに、50歳代は、40歳代と同じように仕事ができるけれど、疲労回復が遅い分、身体へのダメージは大きいような気がする。という意味で、仕事量を減らしたり、悩み・苦労の量を減らしたりして、後半戦に余力を残しておくべきなのかも知れない。50歳代は、むずかしい年代である。

 一昨年、自分が思っている以上に、身体が蝕まれていたので、日本伝統鍼灸学会の副会長職を辞した。人生の潮目という意味では良かったと思っている。『内経』を読んで天年を知っているのであれば、何はさておいて、天年を全うするのが勤めであろう。

 

 

 


2016年6月6日月曜日

想定外

 北海道で、7歳の男児が行方不明になっていたが、6日ぶりに発見された。しつけという意味で、父親と同じようなことをしたかも知れないと思うと冷や汗がでてくる。捜査にかかわっていなかった自衛員が、演習場内にいるところを偶然に発見したので、最悪の事態が回避された。

 夕刊には「先入観で捜査範囲を狭ばめる?」という見出しがついていた。10キロ離れたところに7歳がいるはずがないと誰しもが思い、現場周辺だけを集中的に捜査したのだが、見つからなかった。 

 人智による想定は、当てになると思っていたが、意外にあてにならないものらしい。よくかんがえれば、人智の及ぶ範囲はたかがしれているのだから、非人智をも想定していないと安心できないのではないか。

 7歳の男児の常識的な行動を予測する。その他に、まるっきり見当はずれの行動の予測もしておき、両方をあわせ持てば、もっと早くに見つかったのかも知れない。

 昨日の温灸セミナーは、「選ぶツボ」と「探すツボ」を説明し、両方備えておくべきだと説いたが、おなじ構造のような気がする。「ツボを選ぶ」のは、人智である。しかし、万事その通りに行かないこともあるので(想定外)、裏の手として、非人智の「ツボを探す」すべも備えておきたいところである。
 

2016年6月2日木曜日

出石の町

 4月30日に登った有子山から撮った出石の町の写真です。この写真の右端中央あたりが、宗鏡寺です。森の中で見えませんが。ごくごく小振りの町です。









2016年5月28日土曜日

温灸実践セミナー

 6月5日に講師をつとめる「温灸実践セミナー」は、午前・午後、定員が埋まったようで、ひと安心です。

 わがままを言わせてもらえば、東北の片田舎の出身者ですから、静かに目立たない人生を願っています。ただ、頼まれれば断れないという性格のために、みずからの願い虚しく講壇に立ってしまっています。

 お話することは、おもに知熱灸と灸頭鍼で、どちらも島田先生から教わった方法です。あらたに工夫したのは、小知熱灸くらいです。ぼくの努めは、この方法を後輩に伝えていくことだと思っています。教わったというより、視て覚えたものですから、コツさえわかれば応用可能です。それほど難しい技術ではないのですから。ただ必要なのは、こころの純粋さ、だろうと思います。

 『論語』に、孔子は「一隅を挙げて、三偶をもつて反(かえ)さざれば、復(ふたた)びせず」といって、一つのヒントを挙げて、三つの答えが返って来ないようであれば、再びヒントをあげることはしなかったらしい(述而篇)。

 伊藤仁斎は、「教えをうけ入れる素地がないときには、まるで種を不毛の地にまくようなものである。季節に合った雨が降っても、芽を出さないのは何ともしようがない」という。

 仁斎のいう素地とは、能力が低いことではなく、こころの純粋さである(に違いない)。それは、『論語』に「思い、邪(よこしま)無し」とあるように、一通した哲学である。仁(忠恕)とは言うものの、こころの純粋さがなければ、仁は発揮されない。『論語』は「仁」がテーマになっているらしいが、「純粋」で読んだほうが核心なのでは無いか。

 三つの答えが出ないのは、不純だからで、先生に気に入られたい、嫌われたくない、自分が優れていることを示したいなど、いろいろ考えているからなのです。かくいう樸も、セミナーでは、良い所をみせたいという不純なこころを持っています。せめて、本番は、素(す)で臨みたいと願っています。(願っているのも、不純なのですが。)
 


2016年5月16日月曜日

同じ電車に乗っていても

 山手線の先頭車両に乗っていると、スピードを落とさず、ホームに滑り込みます。まるで、通過するみたいに。思わず「山手に、快速あったかな?」と、自分をうたがうほです。それでも、減速し、ホームの先頭に、ちゃんと止まります。同じ電車でも、最後尾にのっていると、やんわりホームに到着します。

 同じ電車に乗っていても、景色は大分違います。同じ電車だから、同じ景色というわけではないようです。

 数日前の新聞に、

 急須で飲むタイプのお茶を精算してきた静岡は、ペットボトルや飲料の多様化による緑茶離れなど、新しい消費動向への変化に付いていくことができませんでした。結果として、年々、栽培をあきらめる生産者が多くなり、茶をつくる工場も次々と閉鎖を余儀なくされています。

 とありました。

 世の中のニーズに対応できないと、自分は生き残るつもりでも、生き残れないということでしょう。個人がニーズに対応するのか、業界が対応するのか。判断がわかれるところだが、余儀なくされているところをみると、個人は、業界が何とかしてくれると楽観していたのだとおもいます。業界は、個人の苦境を知らないか、目をつぶっているか、結果としては何もしていなかったのかも知れません。

 おなじ構図が、仏教界にあるようです。末端では、葬儀離れ、お墓離れ、お坊さん離れがすすんでいるのに、中央の宗門は、現状を知らないか、目をつむっているか、何も対策をしていないようです。お寺は、末端から、すこしずつ衰退していくのでしょう。

 人ごとと思っているけど、わが業界も同じようかも知れません。おなじ業界にいても、みる景色は異なっているようです。

 僕はお灸は危機的と思っていますが、ほかの人たちは危機とも思っていないし、楽観している人もいるでしょう。というわけで、ひとりで焦っているわけなのです。何を焦っているかというと、学校のお灸教育が、旧態然として、世の中のニーズとかけ離れているからです。ニーズに対応できるように、いろいろな灸法を教えてあげてほしいと思います。

 土手の蟻の巣が、河の氾濫の発端である。象牙の箸を買ったときが、金持ちが衰退するきっかけである。というような中国の話があるように、ちいさな見逃しが、鍼灸業界を消滅させるかもしれません。

 誰かが何とかしてくれる、と思いたいのですが、業界が対応してくれる、宗門が対応してくれるというのと同じように、実際は誰も何にもしてくれないようです。経験からすると、学校も、業団も、学会も、見ている景色が違うのですから、お灸が危機的とは思っていません。ですから、不満を言っても、何も変わりません。

 気がついた一人一人が立ち上がって、活動しないかぎり、ずるずる下降して行くのではないでしょうか。自分たち世代は良いとしても、何もせず、下降したまま、負の遺産を、後輩にわたすのは、やっぱり心苦しい。わたしたちの借金を、無責任に、子供や孫に押しつけようとしている、今の日本と同じでしょうか。歴史的にみれば、破廉恥かも知れません。








2016年5月9日月曜日

『千金方』灸例

 『千金方』巻29に「灸例」という文章がある。施灸の凡例というタイトルだが、ツボの意義、ツボの取り方、艾炷の大きさ、施灸の時間帯、施灸の順番、灸の生熟法など、面白いことがたくさん書いてある。

 施灸家の必読文献だと思って、解説を書いて、その下書きを編集長に見せたら、面白いというので、昨年のお盆休みに一気にまとめて、『医道の日本』に投稿した。

 掲載するかどうか編集会議にかけますので、待ってくださいと連絡あったきり、音沙汰無し。4月末になって、他の原稿依頼のメールがきた時に、『千金方』灸例は機会を見てご相談しましょう、ということで、非掲載になったらしい。

 非掲載になったことより、編集会議の結果の報告が無かったのが残念。非掲載は、『医道の日本』は、古典に距離を置いているようなので、落胆するまでもないが、段取りが悪いのが、何とも気持ち悪い。

 気持ち悪いので、他の原稿依頼も、断ったのだけれども、ここで『医道の日本』と縁が切れると、古典を広くアナウンスする場が無くなるのが問題。

 そこで、老子が出て来て、「聖人は争わず」と。気を取り直して、『千金方』灸例原稿を、再投稿しようかと思った次第。

 灸の生熟法というのは、現今には無い概念。材料としては、生艾は粗製艾、熟艾は精製艾。灸法として、さっと熱を通すのが生法、じっくり熱を通すのが熟法。知熱灸生法で、灸頭鍼は熟法。本来の意義は、知熱灸はさっと熱を通し、灸頭鍼はじっくり熱を通すということが理解できていれば、、活用・運用が上手になるのに・・・・・

 施灸の時間帯は、午前は適せず、午後が適しているという。施灸の順番は、頭から足へ、左から右へ、という。

 艾炷をつくるのは表であり、施灸の考え方などが裏にあり、表裏一体となって施灸が完成するのに、表ばかりじゃ、ダメですよね。どう考えたって。こうなったのは、お灸は、鍼の代用、代替と見なされているからなのです。日陰の道を歩んでます。負けるな、お灸。
 

 

2016年5月4日水曜日

鼻水に頭皮マッサージ

 『外台秘要方』の体裁作業は、2週間ばかりかかりきりで、ようやっと終了。校正のためにプリントアウトしたら、A4版で、なんと1000ページでした。入力してくださった方、感謝いたします。謹んで校正させていただきます。

 『外台秘要方』の巻22に、はなみずの治療で、「以摩囟上、佳」「並摩頂」というのが、拾えました。囟とは大泉門のことで、ツボでいえば顖会。頂は頭頂部のことで、ツボでいえば前頂、百会あたり。この辺りを撫でるとはなみずを治すことできるという。撫でるといっても、マッサージすることでしょう。
 
 そのばあい、頭皮が固いことが条件になるかもしれない。鍼ならば、横刺が良いでしょう。固くない場合は、この撫でる方法は不適応。

 その固さを確認するには、両拇指で、左右から挟み、絞るようにするとよくわかります。頭皮を上から押しのでは、ただ固いだけで、病的な固さとの違いがわかりません。こういうのはコツがあって、文字で説明しきれません。

 『鍼道秘訣集』の跋文に、「世俗の諺に、秘事は睫の如しとて、仮令(かりそめ)の事にも秘伝、習い有ることなり。此の習い、知ると知らざると天地の違いあり」とあるように、ちょっとしたコツを知っているかいないかで、結果に大きな違いがあると言うのは、至言ではないでしょうか。秘事とは奥義秘伝、睫のごとしとは目の前に有りながらみえないこと。手品も、目の前でトリックがあるのだが、睫のごとし。

 ちょっとしたコツというのは、ちょっとしたモノなので、見逃しやすい。しかし、ちょっとしたコツに気がつかないと、何年経っても向上しないのかも知れません。日頃の問題意識があれば、どこがコツなのか気がつきやすいかも知れません。

 
 

2016年5月2日月曜日

ふたたびの出石町

 4月29日は、大阪で講演があったので、その足で、再び、沢庵宗の出生地の兵庫県出石町を尋ねてきました。

 その足でといっても、大阪から電車で、約3時間。帰りは、京都を経由して、家に帰るまで7~8時間。遠いといえば遠いのだが、徒歩で歩いた時代を考えれば、相当に近い。

 そこから沢庵は京都に行き、時には江戸に行き、山形県に流されたこともあり、いずれも徒歩なのだから、なかなかの脚力である。大阪の堺にもしばしば通っている。行雲流水とはいうけれど、本当に、あちこち歩き回っている。

 出石町は、現在は豊岡市になっているが、合併前は、人口1万人の小さな町である。基本的には、ビルというのが無い。無いわけではないが、市街地から外れてホテルがあり、高校がある。しかし、街中は、黒い瓦の木造二階建てばかりで、簡素で雑然さがない。あとは、田んぼと山である。静かで、落ち着いた街。こういう街も、今や珍しいのではないか。

 今回は、有子山城跡に上ってきました。標高321メートル。徒歩で1時間40分(案内板にそう書いてあった)。半分はわりと急な上り坂。半分は遊歩道。半分の上り坂で、志が折れそうになって、何度、中止しようかと迷いましたが、天候も良いことだし、この次があるとも限らないし、がんばって登り切りました。そのご褒美なのか、とっても良い眺めでした。眼下に、出石の街並みが見え、遠くにはきれいな山並みが見え、夢ごこちでした。あとから、月1回はのぼるという中年が上ってきて、しばらく雑談しました。

 沢庵寺といわれる宗鏡寺も、また行きました。切符売りのおばさんが覚えていてくれて、やはり雑談してきました。この寺には、沢庵が、48歳の時に、1年ほど静かにしていた「投淵軒」があります。小さな庵です。淵(水の底)ようなところで、静かにして居たい、という意味が込められています。武将に人気があったので、あちこちから声がかかり(いかざるを得ない)。心がせわしい時は、淵に身を投じて、静かにしていたかったのだろうと思います。

 また行くかも知れません。

 

2016年4月27日水曜日

木香薔薇

 家の前は、県道で、歩道と自転車道があって、近代的な道路でもある。ある程度人通りがあるので、みなさんに楽しんでもらおうと、家の前を花壇をもうけています。

 いま、ひとしきり咲いているのは、木香薔薇。庇の様に、幅4メートルくらい、咲いています。26日(火)に来院した患者さんに、「いい香りがしてますね」といわれて、ハッとしました。「そうですね」と相づちを打ったものの、まったく気がつきませんでした。

 自然に香っているのに、雑念で埋まっている僕はわからない。純粋不雑な人は、なんの苦労もなく、よい香りを受け入れられるのに、妄念が埋まっている僕は、いかに努力しても、香りがわからない。

 このようなことを、無欲無心とは、言うのだろう、と少し目覚めた次第。

2016年4月17日日曜日

外台秘要方

 唐代の王燾の『外台秘要方』の校正のために、文字データの体裁を整え中です。元データは、小林健二さんが用意してくれたもので、おそら中国人が入力したものでしょう。不自然な改行や、句読があったり無かったり、それを校正しやすいように体裁を整える作業を、現在、鋭意進行中です。なにしろ、A4版で、360ページもあるので、なかなか進みません。空いている時間に、こつこつと作業しています。作業しているのは、ときに辛くおもいますが、無心なる時間でもあるので、無心の修行のつもりでもいます。そう考えると、こういう作業は悪くないのです。イヤだなあと思うと、とてもイヤなのですが、無心の修行と思うと、とてもありがたい機会と感謝しています。

 作業をしながら、文面を少しばかり読んでいるので、意外に勉強をしています。それにしても、王燾でも孫思邈でも、資料集めのしつこさは、驚異的です。その資料が在ったその当時の医学も、かなり広く深いことに思い知らされます。日本人は、その中の一部分を、さらに簡素にして、中国医学を利用していますが、元の姿をよく知っておくべきと思います。その資料として、『千金方』や『外台秘要方』などは、とてもよい史料でしょう。

 校正作業では、『千金方』と『千金翼方』は、データを頒布中です。隋の巣元方の『諸病源候論』も、校正作業は終わっていますが、修正入力をして、それから句読を付けて、体裁を整える作業が残っているので、これまた時間がかかる作業が残っています。しかし、作業しながら読んでいると、こういう大切な古典が一顧だにされないのは、不遜の極みだと思いました。漢文だけなので、読みたくないのは山々なのですが、古典を受容することに感情を入れてはならないと反省しました。

 元データは、中国の人が入力してくれたもので、精度は高いといえませんが、データ入力をしてみると、入力作業は相当たいへんな作業です。時間も体力も必要な作業を中国の人がしてくれ、それが日本で精度を高めていくと考えれば、日中共同の作業といえます。あるていどまとまったら、中国の人にお礼として進呈したいところです。

2016年4月11日月曜日

中国の料理

 南京では、何回かの食事がありましたが、同じ料理は有りませんでした(有ったかも知れませんが、無いにちかい印象でした)。手が混んだ、食材を替えた、たいへんよく工夫された料理が、次から次へと出てきました。南京中医大学では、薬膳料理を提供してもらいました。北京でも、いろいろな料理がありました。羊の肉の料理や、西方のスパイスを使った料理が出て来て、広い国土を感じました。

 空気が悪い、人柄がどうだ、というのは中国の一面ですが、文化の深さも大事な一面ではないでしょうか。ただ一面で判断して、大切な一面を見逃すのは、同時代を生きている者として、もったいないと思います。また、一面で決めつけて、申し訳ないと思います。私たちは、もう少し度量を大きく持ちたいところです。

 度量といえば、南京博物院も、北京の国家博物院も、国民も外国人も、入場料無料でした。とても立派な施設で、見る物がたくさんあって、心が満たされる空間が、無料なのです。建物を開放しているのではなく、自国の文化の広さと深さと豊かさを、無料開放することによって、広く内外に示しているのに違いありません。間口を広く開けておく、その度量に感じいりました。

 中国医学の母国である中国を訪れることは、観光でも、交流でもなくて、個人的には「敬い」だと思っています。中国から学ぶという姿勢は、いつまでも継続しておきたいと思っています。今回の中国行きでは、やっぱり「隔て」は作らないほうが良いと思いました。国と国の隔てだけでなく、個人の偏見による隔ても。

 入場料も隔てなのかも知れません。そういう意味では、(仮)日本伝統鍼灸大学は、入学金無料、学費無料というのも、考えておきましょう。

2016年4月8日金曜日

張士傑(その2)

 張先生の治療費は高いほうです。治療時間も数分ですから、鍼数とか、時間を考えたら、非常に高価な治療費です。中国では、治ることが第一ですから、鍼数とか治療時間はさほど重視しないと思われます。
 
 日本の場合は、リラクゼーション的な意味も含めているので、治療時間も長く、場合によっては鍼数が多いかも知れません。このあたり、両国の立ち位置が違うので、良い悪いと簡単に決められません。

 ただ、治療現場としての中国の鍼事情は、なかなか興味深いものがあります。(仮)日本伝統鍼灸大学では、中国の治療現場の見学・中国の鍼の体験をカリキュラムに入れましょう。日中両方を見て、はじめて日本の良さが見えてくるはずですし、中国の良さも見えてくるはずです。中国にも行かずに批判して、日本の鍼は良いとかいっているのは、大人の態度ではありません。

 中国では、午前中の診療で100人程度は当たり前のようです。四診を精細にしている時間もなく、弁証論治している間もなく、流れ作業のように治療して、ようやっとこなせる人数でしょう。こういう状況なので、治療が定型的であったり、あまり丁寧でなかったりします。反対に、刺鍼のなめらかな一連の技術はすばらしい。迷い無い選穴や運鍼は、ほれぼれするほどです。迷っている時間もないし、もたもたしている無駄もない。まさに、「止まらないこころ」と「止まらない手先」。

 鍼が太いだとか、手技が荒いだ、そういうところばかりみないで、もっと根本的なところに着眼して、どしどし吸収したいところです。


 

2016年4月4日月曜日

張士傑先生

 国家級老中医。1931年生まれ。御年85歳。


 今年も張士傑先生の4回の治療を受けてきました。朝の8:30~11:00までが診療時間ですが、朝一番に治療を受けて、そのまま居残って、診療の一部始終を見てきました。ずうずうしくも。患者さんは、ぼくが居ようとも、居ないがごとく、先生と話し、どんどん脱ぎだし、ベットに横たわり、治療を受けていました。日本だったら、「誰! この人」「出て行って欲しい」と言われるところ。ぼくはぼくで、何事も無かったように、居座って、カルテをみ、治療を見学しました。とっても貴重な体験でした。

 治療時間は、1分~2分くらいでしょうか。3分くらいか。治療は5分という日本の先生がいましたが、それを上回ってます。今回は、左右の、大谿、臨泣、大衝、足三里、陽陵泉、合谷、腕骨、外関、風池、太陽でした。使っている鍼は、30号鍼(10番)で、鍼体は30ミリくらいか。それを手でも足でも、迷い無く、得気を目標に、つぎつぎ刺していきます。刺す位置はアバウトですが、刺針転向法を使って的確に得気を得ています。鍼先で探しているような感じです。技芸は、年をとればとるほど味がでるといわれますが、目の前で展開されていたのは、きっと至芸というものなのでしょう。50、60はな垂れ小僧、まことにしかりです。日本の鍼灸師は、味が出る前に亡くなってしまう人が多いので、そのあたりが残念なところです。

 至芸だけでは、上手な先生に過ぎません。張先生のすごいところは、こころ構えです。僕に刺したツボは、他の患者さんとほぼ同じで、どのような病気であろうとも、ほぼ共通しています。言い換えれば、基本穴だけの治療ということになります。基本穴の治療だけです。日本で言えば本治法でしょうか。経絡治療の父たる八木下勝之助を彷彿とします。

 張先生のこころ構えとは、まさに「挽かぬ弓、放たぬ矢にて射るときは、中らず、しかもはずさざりけり」(『鍼道秘訣集』に書いてあります)。この文章の意味をやっと理解できるようになったのは、沢庵の『老子』のおかげ。治ると確信していれば、治療をしなくても(もちろん治療しても)必ず治る。つまり、治療する前に、結果が出ているのです。勝負がついたというか。そのこころ構えの盤石さが、張先生のすごさだと思います。きっと、同じ配穴をまねをしても、効果は出ないでしょう。

 技術だけでは不十分。こころ構えの修行が不可欠であることがわかってきました。やっぱりはな垂れ小僧でした。どのようにして、盤石になったのかは、わかりません。人格と、場数を踏むことと、勉強なのでしょうか。失敗の繰り返しかもしれない。『内経』との格闘かも知れません。

 去年は気がつかなかったことが、今年気がついたのは、はな垂れ小僧も進歩したなと思った次第。





 


2016年4月1日金曜日

南京と北京

 3月19日から31日まで、学術交流で南京へ、オリエント研修で北京に行ってきました。こんな長旅は、最初で最後でしょう。規則正しい生活をし、節度有る食事をすれば、さほど苦になりません。中国の食べ物はアブラ物が多いので、調子づいていると、あっというまに食傷になります。最初のころは、調子にのって食べていたので、食傷になっていました。今回は、みなさんも馴れてきたためか、食傷者はいませんでした。

 南京は長江のそばで、海も近いので、湿度が高いのだと思います。真夏に行けば、はっきりすると思います。同じ温度だとしても、南京のほうが肌寒い。寒さが染みこんでくるような。北京は表面的な寒さのような感じがしました。東京あたりと南京は、空気的には近いでしょう。風が、重い。風が重いで、思い出したけど、故郷の松島の海風は、塩分を含んで、もっと重い。マラソンで、記録が出やすいコースがあるけど、地形だけでなく、風の力と、風の質が、大きく影響するのだろう。

 南京は長江の河口から約300キロ。中国では、臨海地区だそうです。日本で300キロだとすれば、本州を横断してしまいます。埼玉県は海無し県ですが、中国の人からは「海沿いや」と言われそうです。長野県だって、臨海地区です。日本の中からみる日本と、日本の外からみる日本と、ふたつの日本を見なければならないと痛感したところです。日本の鍼灸を見直すとき、もっとも重要なことです。中国にも行かずに、世界にも出ずに、日本の鍼灸を語っていたことを恥じています。僕は、何度も中国に行っていますが、そういう視点を持っていなかったので、行ったことにはならないでしょう。
 
 今回の中国行は、いくつかの気付きがありました。両面を見よ、ということです。ニュースでは日中は仲が悪そうですが、実際はみなさんとても親日。教科書の中医学は、実際の現場では運用されていないこと。なにしろ、押し寄せる患者との戦いで、四診合算・弁証論治をしている場合ではない。怒っているような人々、その内面は実や優しい。などなどです。

 そういう意味では、まだまだ固定的に見ていたのです。とても反省しています。また、体験しなければわからないのだけど、同時に何らかの視点やベクトルを持っていないと、体験したことにならないことがわかりました。よく「気づき」というけど、ぼやんとしてては得られず、なんらかの視点やベクトルが必要で、それは自分で学ぶか、教わるか。教わるとしたら、教える側はそれを先に示さないと教育効果が出ないと思う。少しばかり、教えるということがわかってきたような。

2016年3月7日月曜日

表裏一体

 十二経脈では、陰経脈と陽経脈が表裏になっている。その前段階の十一脈では、陰脈と陽脈は表裏になっていない。ただ、陰と陽に別れているだけである。

 ここから、表裏になる陰陽(分けられない陰陽)と、別れる陰陽があることが知れる。決定的な違いである。世界が全くちがう。これを、ごっちゃにしては、まずい。

 十一脈から十二経脈へ発展したというけれど、じつは、陰陽区別派から陰陽不別派に、担当者が替わったのである。

 十一脈が含まれる、馬王堆医書、張家山医書は、基本的には神仙思想の文献である。神仙思想とは、不老長寿を目標とする思想で、そのために食事法、服薬法、呼吸法などの長寿法の研究に余念がなく、その成果として十一脈の発見になった(と考えている)。長寿に益することを目標に、余計な思想をいれずに、直観した結果、十一脈が発見されたでしょう。したがって、十一脈は、素朴な観察として、きわめて貴重な情報である。

 余計な思想をいれて、一を増やして、十二になった。その余計な思想とは、陰陽不別の陰陽思想である。それは、誰の思想なのか。

 『老子』第二章に「 有無相生じ、難易相成り、長短相形はれ、高下相傾き、音声相和し、前後相随ふ」とあり。

 善と悪、有と無、難と易、長と短、高と下、音と声、双方が存在して始めて成り立つのである。分けられるものではない。ものの見方は、相対的で、表裏一体である。

 膀胱経と腎経は表裏。胃経と脾経は表裏。そんなことみんな知っている。知っているけど、表裏ということの真意を知っている人は少ない。真意を知らないと、本当の活用はできはしない。やっぱり『老子』を学ばないと。

 究極の一体は、天地と一体になること。その体験がなくて、真の表裏一体はわからないかも知れない。だから、『素問』上古天真論では「道に和す」「道に合同す」と言っているのでしょう。
 
 おそらく、陰陽不別は老子発ではないか。物事に表裏があって、表裏は一体であることを唱えたのが老子であり、その延長線上に陰陽不別派がうまれ出たと考える。陰陽不別派は、病気は表で、病気の素地を裏だと考え、さらに、病気の素地はこころで、病気になるのはからだだとも考えている(ようだ)。『霊枢』に経脈篇があるだけでなく、本神篇が用意されている、その理由がここにあるのではないか。

 この後に、余計な思想の第二弾として、陰陽五行思想が介入してくるのではないか。