2018年8月31日金曜日

てんよ

 ところてん(心太)は、東北地方では「てんよ」といいます。テングサを材料にしているので、「てん」はわかるのですが、「よ」は意味不明です。

 夏休みのおやつはてんよでした。しょうゆ+酢で味付けし、ときおりむせてました。また、この時期はトウモロコシもありました。方言で「トウキビ」、子供達は「トウミギ」と行ってました。

 母方の実家は、松島湾内の離島でしたので、海水浴がたのしみでした。泳ぐというより、水遊びでしたが。浜の堤防は、三陸津波で壊されて、いまは新しいのができています。

 やはり夏なのか、ガザミ(わたりがに)がおやつの時もありました。おいしいと言われますが、小さい手足をホジくるのが面倒だった記憶があります。大ざるに山盛りありました。

 いまから50年前のおやつは、ごく自然なもので、自然の豊かさがあふれていました。たった50年で、大部変わりました。

 今の好物は、ぼっちゃんかぼちゃを、まるごと蒸かしたもので、栗のような食感で、おいしいものです。外で、手の込んだ料理も良いですが、シンプルに煮炊きしたもののほうが、相性が良いようです。そのほうが、カラダも喜んでいるような気がします。また、コンニャクに、自家製味付け味噌をつけて食べるのも、おいしいものです。

 昨日も、体操女子で、パワハラ問題が生まれました。上に立つ人は昔の意識のままで、若い人達が変化しているのに気がつかないのだと思いますが、スポーツ界全体として、東京オリンピックまでに古い体質を一掃しようという力学がはたらいているのだと思います。

 鍼灸界も風が吹くと良いのですが・・・

2018年8月30日木曜日

肥前 名護屋城

 先週末、久留米市で研究発表ののち、唐津市で宿泊しました。翌日は、肥前名護屋城に行きました。写真でみて何となく知っていたつもりでしたが、自分の想像を遙かに超えて雄大なのにはとても驚きました。

 ガイドさんに案内して貰って、たいへん勉強になりました。自分も、『内経』のガイドさんになりたいと思いました。

 全国の大名が、秀吉のむちゃぶりにしたがって、名護屋に戦陣を張ったのですが、その資金は人民から搾取したものだと思うと、ふくざつな気分です。表に見えているのが1で、その裏には99がある。研究発表も、準備が99で、発表が1という割合です。スポーツでも、練習が99で、試合が1ではないでしょうか。この眼で、自分を振り返ると、中途半端に学んで、中途半端な治療をしていたことが、恥ずかしい。


 

アジア大会 柔道

 柔道男子73キロで、3分の試合で決着がつかず、ゴールデンスコア方式の、無制限一本勝負みたいな延長に入った。決まったのは、都合11分後。

 昔は、3分の試合が終わると、判定になっていたけど、主観的な判定よりは、延長戦で、決まるまで戦うというゴールデン方式は、すがすがしくて良し。試合後は、両選手とも、立ち上がるのがやっとの状態。ただし、選手生命という点では、課題があるかも知れません。

 人間による判定では、忖度がまじったり、奈良判定とか、あまりいい印象はない。今後は、人間による判定に、ビデオを活用する方法が、加味されるのではないでしょうか。

2018年8月23日木曜日

「一」

金谷治『中国思想を考える』からの引用。

「実際、日本人は、選択好きなようです。日本人は、何でも比べたがって、どちらが良いどちらが悪いということをすぐ言いたがる。」
 
「(中国人は)まずは両方をそのままに認めます。両方がそれぞれに違ったあり方をしているのは、あるいは対立しているのは、~~一時的な現象だけで簡単に比べられるものではありません。」

 4月29日、日本内経医学会30周年集会で、黄龍祥先生が、『内経』のキーワードは気血だとお話されたが、会場から、「気と血どちらが大事なんですか?」という質問があったが、これが日本人の質問なのだなあと思い出しました。9月26日は、久留米の気血研究会で発表。テーマは、「東西医学の気」だそうです。なんでもかんでも「気」に帰一してしまうのは、どうなんでしょう。

 気だけでなく、一つの鍼法だけ。補法だけ。虚は陰経だけ。ということをよくききます。日本人は、淡泊に「一」にしているのでしょうが、老子がいう「一」は、「二」という区別をせず無にして「一」にしているもので、同じ「一」でもまるっきり違います。同じ「一」なので、同列のようですが、かたや浅く、かたや奥深い。

 どうせ「一」にするなら、奥深いのも欲しいところ。

 

2018年8月22日水曜日

陰陽虚実

 金谷治『中国思想を考える』(中公新書)の第三章に「対待」によれば、陰陽だとか、有無だとか、虚実もそうでしょうが、「ものごとを一面的にみないで両面を見、そのプロポーションを全体的に見ようとするゆき方です」を「対待」というそうです。両面思考ともいいます。

 陰陽、虚実、寒熱などで、この見方は身にしみているのですが、これに縛られたくないなあ、と思います。

 善悪:分ければ善悪の2者になりますが、たいていはルールをまもり、法律をまもって生きているのだから、いつもは善、まれに悪が行われるとかんがえると、善と非善と考えたほうがよいでしょう

 動静:生きている活動でいえば、大いに動く(動)、静かに動く(静)。寝ているのは、止まっている訳ではなくて、静かに動いている。という意味では、動と、非動とみなした方がよい。

 虚実:有余を実、不足を虚とするが、有余は大いに充実している(実)、不足は欠如ではなくて、充実がたりないという意味とすれば、充実と非充実ということば使いのほうが良いと思われる。虚実補写といえば、固定的に考え勝ちだが、一歩進んで、柔軟に考えてみたいものです。

 陰陽:易の陰陽では、必ずどちらかが存在することになるが、陽だけ、陰だけとも考えれる。たとえば、日向が陽で、日陰が陰。つまり太陽を陽として、日向が陽、日陰が非陽ということになる。昼と夜というが、昼目線でいえば、夜は非昼なのです。

 思想、思考方法は、たくさんあって、いろいろ学んで柔軟に対応したいのです。一つの考え方で固定し、それで強引に押し通すのは、力づくではないでしょうか。そういう意味で、陰陽五行盲信派には、つよい違和感をおぼえる。

2018年8月18日土曜日

山口・2歳児発見

 3日間行方不明だった2歳児を、大分からのボランティア男性が見つけ出した。それも、30分ほどでだ。
 
 それまで、県警、消防で、90人、140人、150人と、体勢を強化して捜索していたのに、男性がたった1人で、わずか30分で見つけ出したのだ。

 記憶にあるところでは、北海道七飯町で7歳の男児が偶然に発見されたのがだ、6日間のべ900人を投入してもみつからなかったことがある。

 今年の4月の愛媛の脱走囚は23日間みつからなかったし、最近では、8月17日大阪の富田林署から脱走したのも、まだ見つかっていない。

  能力の高い人材を投入し、人海戦術で捜索しているのに見つからないのは、どこかに落とし穴があるに違いない。 
 
① 捜索になれていない。主な業務は捜索ではない。ごく希な業務である。捜索感が無い。しらみつぶしに探せば見つかるだろう、という甘さ。

② ボランティア男性は、捜索になれている。感が強い。強い意志。見返りをもとめない純心さ。

 こういう所の差だろうと思う。いま、『医道の日本』で連載しているが、聖人というのは、ボランティア男性のような人を指すのだろうなと思った次第。

森進一

 今日のNHKで、森進一(70)が「おふくろさん」を歌っていた。森の目が小さくなっていて、母が晩年に「目が小さくなった」と嘆いていたのを思い出しました。しぼんでしまうのでしょうね。

 そんな森進一を見たら、父の顔に似ているのに気がつきました。あんな感じだったなと。

 大正6年生まれは、丸山昌朗先生と同じ。享年は68で、島田先生と同じ。40歳すぎて、仙台の赤門に入学した、当時としては奇人。五体満足な壮年の仕事ではないので、どういう理由で、この世界に飛び込んだのか。聞かずじまいでした。

 兄の名前は宏基、弟の名前は寛三です。今でこそ、似たような名前はあるでしょうが、当時は、~男、~雄が標準でしたから、珍しい名前でした。ちょっと、世間とはズレている父親だったのでしょう。

 わが家の長男は医師、長女と次男は鍼灸師となりました。この辺りは父親の遺伝子なのでしょう。この3人は、奇人では無いので、この辺りは受け継がなかったようです。これからどうなるかわかりませんが・・・

2018年8月14日火曜日

傍目のこごと

 当事者より、そばで見て居る人のほうが、冷静な判断ができるようで、当事者は廻りが見えないのでばたばたするばかりです。

 沢庵和尚も、禅僧なのですが、医学をよく勉強しています。しかし、医学どっぷりではないので、冷静で、客観的な指摘にあふれています。米国のT氏も、臨床家ではないのですが、なかなか正鵠を得た見方をします。ありがたいことです。

 素人の視点で恐縮ですが、日本鍼灸の大きな特徴であり、また弱点でもあるのは、「医術(=芸術)」であって「医学(=科学)」ではないことにあるのではと感じています。

 かつて、技術は、師弟制度で伝承されてきましたが、現在は学校制度になっていますので、師弟制度ほどには伝承されていません。なので、みなさん、勝手気ままに自己流を発揮しています。勝手気ままな治療は、社会的に信用されるでしょうか? 

 学校制度になったのですから、知識教育に重点をおくべきなのです。が、その学問が未熟だし、教える方も未熟だし、教わる方も未熟だし。3未熟のせいで、もしかしたら、日本鍼灸は衰退するのではないでしょうか。今後、日本鍼灸術を維持しつつ、日本鍼灸学を確立せねばならないでしょう。

2018年8月11日土曜日

人は見た目によらない

 先生は普段何食べてます?
 なんでも食べますよ。朝はパンとコーヒーですね。
 パン食べるんですか? コーヒー飲むんですか?
 どんな風に思っていたんですか?
 玄米食べていると思ってました。洋風なもの絶対食べないと思ってました。

 僕の印象を、みなさん同じようなことを言います。
 
 料理はするんですか?
 しますよ。以前は、食事当番がありましたし。お魚もさばきますよ。
 ええ!
 子供のときから、母親の食事したくの手伝いしてましたので。
 
 アラカンが家事(料理、掃除、洗濯、育児)するのは、珍しいようです。ぼくは、何とも思わないのですが、家事は男子がするものじゃない、お説教する方もいます。

 料理といえば、以前は、注文した鮮魚が山形から月一で届きました。鮭一匹というのもありましたし、いわがきとアワビのセットもありました。ハタハタもありました。鱈一匹もありました。なので、出刃包丁と、小さいもの用のあじ切りと、刺身包丁ももっています。いまは、頼んでいないので、使うことはありません。包丁でいえば、中華包丁、なっ切り包丁、三徳包丁、牛刀、フルーツナイフ、パン切りナイフもあります。しかし、魚もさばきませんし、いろいろ料理もしないので、三徳包丁とパン切りナイフがあれば、日常で困ることはありません。

 そういえば、この図式、鍼の歴史と同じかもしれません。あらゆる病気に対応しようと九鍼が考え出された。のちに、生活が代わったのか、湯液が普及したためか、毫鍼で間にあう病気だけの治療になった。あるいは、毫鍼法が深化したともいえます。

 脱線しましたが、自分が思っている自分像と、他人が思っている像とは、大分違うのですから、他人の目を気にしたって、あんまり意味がないかなと。


 
 

2018年8月8日水曜日

天寿

 天寿とは、自然の寿命を言い、100歳を指します。天年ともいいます。天寿を全うするまで、あと38年。先はながい。

 わが家は建てて20数年。ここ1,2年で、壁をぬりかえ、クーラーを取り換え(1台)、トイレの水洗部品交換(2台)、台所の蛇口の取り換え。近い将来に、冷蔵庫の取り換え、クーラーの取り換えが、差し迫っている。

 20年後も同じような、取り換えラッシュになるものと思われる。この家に、あと38年住むならば、自分の身体だけでなく、家のメンテナンスは欠かせない。その他に、財布の養生も必要だし。

 と思うと、もっと冷静になって将来を考えるか、そんなこと投げ出して全く行き当たりばったりに生きるか。(と、台風上陸を前にして考えました。)

 

 

2018年8月5日日曜日

ルッキズム

 容貌(見た目)による差別を、ルッキズム、外見主義、外見至上主義というそうです。外に出れば、いつもルッキズムをしてます。ただ、声を出して言わないだけで。

 6月12日東京新聞の、精神科医の香山リカさんの記事ではじめてしりました。大学の授業で取り上げたそうです。学生は、たしかに、マイナスの評価はしないとして、プラスの評価ならいいじゃない? とあまり納得できないようだったとのこと。

 たしかにほめるならば悪いことなさそうですが、記事では、プラスであってもマイナスであっても、見た目の評価をしないようにしましょうとありました。

 かつて、娘が、(ほめたつもりで)欧米人に、鼻が高いですね、といったら、嫌みか?と言われたそうです。180センチの人に、背が高いですね。といっても、背が高い人はもっといるので、ご本人は背が高いと思っていなければ、ほめ言葉にもなっていない。

 美人さんは、どうしてもほめたくなるのですが、そう思っていない人には、迷惑なはなし。キムタクは、自分の鼻が電気ポットみたいな形なのでイヤなのだそうです。だから、美男子とほめても、複雑な心境になるのではないでしょうか。

 ほめられるのが、うれしい人がいるでしょうけど、迷惑な人もいるのです。やはり、外見の評価をしないほうが良いでしょう。ただ、評価は無意識にしているので、評価をしないというのは、なかなか難しい。

  こうした、高い・低い、美人・非美人の、区別をしないのが良いというのは、老子の考え。区別すれば、良いほうに気持ちがかたむきます。見方が偏るという意味で、偏見が生まれやすいのです。偏見差別をしていないと思っていても、身近な所で毎日たくさん偏見差別をしているのです。なので、『老子』48章は「日に損し」といって、捨て去ることを奨励しています。