2017年12月28日木曜日

養生を語る

 灸法臨床研究会の主催で、来年の3月25日に、養生の講習会を持つことになりました。興味のあるかたは、ご参加下さい。灸法臨床研究会のHPから申し込んで下さい。

 場所:東京医療専門学校(中央区八丁堀1-11-11)
 日時:3月25日 12:45~16:45
 参加費:学生4000円/一般5000円

 東洋鍼灸専門学校で、東洋医学概論の2年目として「養生」を10コマ担当したのに始まり、その後、鶯谷で拡大発展させ、近年、『老子』『荘子』を読んで、ようやく腑に落ちるようになったので、養生灸と併せて、報告しようと思った次第です。あちこち回り道し、休み休み勉強したので、結局10年くらいかかりました。もっと要領よくすれば、短期間でまとまったのかも知れませんが、回り道は、視野が広がったり、思わぬ拾いものをしたりして、悪くはないものです。

 学生向けの事前予約ですでに半分埋まり、正月から一般申し込みを開始するとのこと。その前にブログを読んでくださる皆さんにご案内いたしました。


2017年12月25日月曜日

ペットのわんちゃん

 2017年のわんちゃんは892万頭だそうです。昨年から100万頭減り、10年前から400万頭くらい減っているようです。減っているのは、新規に飼うわんちゃんで、「手間がかかる」「十分に世話ができない」というのが理由だそうです。半分くらいは、7才以上の高齢犬らしいので、あと10年もして、その高齢犬の多くが死亡すると、一気に半減して450万頭、新規に飼うのも減っているのですから、10年後には300万頭くらいになるのでしょうね。20年間で4分の1以下に縮小していくようです。

 動物病院の経営。ペット関連のお店。ペットフードのメーカー。いずれも、あと10年後には、縮小せざるを得ないのが目に見えているので、それぞれに腐心しているのではないでしょうか。

「十分に世話ができない」というのは、わんちゃんの老後ではないでしょうか。いろいろ手が掛かるようですし、病院に連れて行ったりしてお金もかかるようです。そういう事情がわかったので、新規に飼う人が尻込みしているのだとおもいます。

「かわいい」という気分で飼ったけど、いろいろ大変なことがわかって、冷静になったというところでしょうか。気が先走れば危うい。と沢庵さんも言ってました(医説)。わたし達も、冷静になって、わたし達の医学をみつめなおす良い機会かなと思いました。


 

2017年12月22日金曜日

わが家の日没

 今日は冬至。東京で、日の入りが4時30分だというのに、わが家の日の入りは1時30分。3時間もはやく、日没だ。
 
 それは、西側にできた、11階建ての、壁のようなマンションのせい。写真は、わが家の後ろ姿(前の姿は、HPでごらんください)。その向こうに、そのマンションがそびえる。

 左隣に4階建ての建物があるので、日の出も遅い。準商業地域だから文句はいえないが。写真手前の駐車場が唯一の解放したところで、ここにマンションが建てば、万事休す。すり鉢の底になってしまいます。

 30年前は、右隣もなく、壁のようなマンションもなく、左隣は植木畑で、開放的だったのです。まあ、人が増えているのだから、それは「良い」としなきゃ。

 



2017年12月20日水曜日

金沢の雪男

 12月17日は、金沢で、東方会北陸支部の講演でした。なんと雪でした。11月19日の札幌も雪でした。もしかしたら、雪男かもしれません。雨男とはいうものの雪男とはいいません。足元の靴は、こちら用の靴で、まるっきり役に立ちません。よくすべります。

 金沢には、あと3回、『素問』の講義がつづきます。古典を読む時の心構えと、漢和辞典の使い方をはなしてきました。

 古典は、読み終わるまで年月がかかるのですから、最後の最後まで信用しつくし、少しの疑いももたずに読まなければ、本当のことはわからないと思います。役に立つとか立たないとか、諸説紛々で信じられないとか、そのような目で見たら、それ以上先には進めません。中途で脱落したら、面白みは半減、面白み末梢ではないでしょうか。

 伊藤仁斎の『童子問』
「近道によってただちに最高の真理に到達する方法がありはしないでしょうか」
「そうではない。学問は正しく行われることが必要であるし、仕事はじっくりなされなければならない。特殊なことを喜んではいけないし、近道しようとすることは許されぬ。水が満ちてくれば、おのずと舟はただよい、花が散ったあとにみを結ぶように、自然にできあがるのがよい」

 最後の「自然にできあがる」は、まったく同感です。どうせ、遠い道、回り道を選んだのだから、覚悟をきめて読むしかないのです。コツコツ自然に。

 島田先生とプレーすることを望んで、テニスを始めて20年近くになるが、いっこうに上達しない。上達したいと思いながらコツコツと努力し、その結果「自然に上達する」と思いこんで、がんばっているところです。島田先生とは彼岸のコートで。


2017年12月11日月曜日

『鍼治枢要』

『鍼治枢要』は、矢野白成の著。1697年刊。京都大学附属図書館富士川文庫文庫所蔵。画像は公開されています。

 その巻の上の冒頭「鍼術」のなかに、「夫れ我が鍼術は、心の全体発して用を為す。故に心業と称す」、「蓋し体より用を為すときは、体用一源にして間(へだて)無し」というような表現があります。「全体」「体」用」は朱子学由来のようですから、矢野先生は朱子学を学んだ鍼立(鍼師)だろうと思います。

 矢野先生の治療法は腹部打鍼法です。矢野流を含めると、思想哲学を下地とした打鍼法には、少なくとも3流を見出すことができます。この3流に限っていえば、打鍼法は思想哲学が下地にあって成立する鍼法であり、ただまねをすれば良いというものではないようです。
  夢分流=仏教(禅)に基づく打鍼法。
  意斉流=老子に基づく打鍼法。
  矢野流=朱子学に基づく打鍼法。

 この体用については、伊藤仁斎先生は「この体(本質)用(適用)の理論は宋代の学者からはじまったももので、聖人(孔子)の学問にはもとよりこの理論はなかった。・・・それで体用で説明すると、体の方が重く、用の方は軽く、体が根本で用が末であるから、人はみな用をすてて体の方に走らざるを得ない。」と言っています(『論語古義』貝塚茂樹訳)。

 個人的には、本治法と標治法を、根本的な治療だから重視し、末梢的な治療だから軽視しているかもしれない。もともとそういう区別はないのだという視点でもういちど考え直してみたいと思います。本治法と標治法、できあがった方法を受け継ぐことも大事だけど、きちんと批判することも大切だな、と『論語古義』を読んで学びました。

 江戸時代の鍼灸に学べとはいうが、本当に理解するためには道はなかなか遠く深いようです。


2017年12月4日月曜日

フォアフット走法

 昨日の福岡国際マラソンで、大迫選手が好タイムで3着に入った。米国で、新しい走法を学んだという。それがフォアフット走法で、踵を着地しないで、つま先だけで走る走法らしい。フォアフット走法はアフリカの選手の走り方で、日本人には向いていないと言われていたが、その走法をマスターしたようである。大迫選手がいろんな壁を乗り越えたことから端を発して、こうして結実したのだと思っています。

 日本人になじんだやり方。これを否定するものでは無いが、頭打ちになってしまったら、その殻を破るしかない。そんなとき、世界中を見渡してみると、打開策が生まれそうである。日本式の鍼灸は、日本人になじんでいるけど、もっと画期的で、合理的なやり方が、世界中のどこかにありそう。中国でも、地方には、いるのではないか。

 日本には、江戸時代にはいたようです。古典を読むのは、視野が広がるという意味では、とても楽しい。辛気くさく古典に向き合うのは、ちょっと辛いが。江戸時代の彼らは、今のわたし達の鍼灸とは、だいぶ違ったことをやっている。そんな印象を持っています。

 

2017年12月1日金曜日

乱に及ばす

 孔子は、お酒が好きだったらしく、「ただ酒は量無し。乱に及ばず」(郷党篇)とあります。日常生活は厳格だったらしいけど、お酒には緩やかだったようです。「酒は量無し」は若い時のことか、晩年のことかは判りませんが、「七十にして心の欲する所に従うも、矩をこえず」(為政篇)とありますから、おそらく晩年のことだろうと思います。

 若い時は、飲酒して理性を失い、血気のままに行動して、失敗することもあるでしょう。若い時の孔子は、節制していたのだろうと思います。たとえば、何かしでかして、人に悪まれたりすれば、「年四十にしてにくまるるは、それ終わりなるのみ」(陽貨篇)というような発言はできないと思います。40才にもなって、人に悪まれたり、嫌がられるようでは、将来の見込みが無い。なんと強い発言でしょうか。

 日馬富士は、結局、引退しました。理性を失うほど飲酒しなければ、このような事件は無かっただろうと思います。かつて教わったことのあるテニスのコーチは、飲酒して階段からおち、足を骨折して、大きな大会に出られなくなったそうです。スクールも任せられているようですから、任せた方は怒り心頭に達しているでしょう。心を入れ替えて、出直すしかありません。それにしても彼のテニスの能力がもったいない。

 『素問』上古天真論にも、水のように酒を飲むことを命を縮める原因としています。飲酒を禁じているのではありません。適量を守るべきだと言っているのです。この適量を守ることは、養生の大原則なのです。

 このたびは、理性を失うほどの飲酒の事故2例で、養生教育の必要性を痛感しました。