日本の電力自給率は6パーセントで、主要国でいえば34位だそうである。消費は5位だそうである。
消費を減らせそうなもの。
第一位。清涼飲料水の自動販売機。せめて距離制限すべき。
第二位。東京圏の電車運転本数。せめて日中は減らすべき。
第三位。スーパー・コンビニなどの冷凍庫・冷蔵庫。オープンにしないで。
第四位。駅の日中の照明。こまめに消したらいいのに。
こんなことで改善するわけでも無いのでしょうが、自給率6パーセントの国民としては、つつましやかに消費しなければならないのかと思います。
バイト収入6パーセント。親からの補助94パーセントの息子(こういうヤツがいた)としたら、むやみやたらに、無計画に、お金を使うのではなく、謙虚に、つつましやかに、消費生活をしてほしいと思うのは、だれがみても当然の理窟ではないでしょうか。
こういう時に大ナタを振るい、果敢断行する為政者がほしい所です。
暑い中、クーラーかけて、
2017年7月31日月曜日
2017年7月29日土曜日
忍岡中学のさくら
鶯谷駅北口の道路むこうに忍岡中学がある。道路沿いには、桜が並んでいる。いつも、その一番端っこの桜の下を通過して、鶯谷書院に向かうのだが、なぜか、桜のにおいがしないのである。よこしまな心が、においを遮断しているのかも知れない。
稀に桜のにおいがすることがある。たいていの桜はにおいを八方に放散しているが、この桜は細い帯状ににおいを放散しているらしく、その帯を通過する一瞬だけ桜のにおいがする。なんともナイーブな桜である。よこしまな心が無くて、さらに運がよければ、年に数回、桜のにおいにありつける。
現在住んでいるところは、40年前に、田圃を埋め立てた新興住宅地である。そのためか、旅行をしてしばらくぶりに家に帰ると、東川口駅から家にむかう途中で田圃のにおいがする。普段のときは、田圃のにおいはしないが、しばらくぶりだと田圃のにおいがする。
町歩きも、目ばかり酷使しないで、鼻、耳、皮膚も活用すると面白いですよ。コツは。見ようとしないで見る、聞こうとしないで聞く、嗅ごうとしないで嗅ぐこと。よこしまな心は(何かを考えたら)、邪魔になります。
稀に桜のにおいがすることがある。たいていの桜はにおいを八方に放散しているが、この桜は細い帯状ににおいを放散しているらしく、その帯を通過する一瞬だけ桜のにおいがする。なんともナイーブな桜である。よこしまな心が無くて、さらに運がよければ、年に数回、桜のにおいにありつける。
現在住んでいるところは、40年前に、田圃を埋め立てた新興住宅地である。そのためか、旅行をしてしばらくぶりに家に帰ると、東川口駅から家にむかう途中で田圃のにおいがする。普段のときは、田圃のにおいはしないが、しばらくぶりだと田圃のにおいがする。
町歩きも、目ばかり酷使しないで、鼻、耳、皮膚も活用すると面白いですよ。コツは。見ようとしないで見る、聞こうとしないで聞く、嗅ごうとしないで嗅ぐこと。よこしまな心は(何かを考えたら)、邪魔になります。
2017年7月24日月曜日
『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司著
『論語』公冶長に、孔子が弟子3人を評価して、子路は千乗の国(大藩)を治める能力はあるが、「其の仁なるを知らず」といい、子有は百乗の国(小藩)を治める能力はあるが、「其の仁なるを知らず」といい、子華は、外務大臣を務められる能力はあるが、「其の仁なるを知らず」という。政治的な能力と、仁者(仁徳者)である能力を、別々に評価しているのが気になっていたのですが・・・
ミャンマーには瞑想センターという施設が多くあって(僧侶がトップを務める寺院であるが)、出家・在家を問わず希望者を受け入れて瞑想の指導をしてくれらしい。本書の著者が訪れたとき、そこに7年異常も滞在している日本人僧侶がいて、開口一番に「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と言ったそうである。同著によれば、日本では大乗仏教の影響で、悟りは円満な人格完成者としての仏の悟りのイメージが強いので、解脱・涅槃を得た人は、同時に人格者のように思う傾向があるらしい。
なるほど。ぼくは、僧侶に限らず、優れた技能者にも、人格者であるのを期待していたかもしれない。人間国宝ともなれば、自動的に人格者ときめつけているかもしれないし、優れた鍼灸人も、人格者だと思いこんでいる節がある。人物の評価は、冷静に行い、思い込みやえこひいき、偏りがあってはならないとわかっていても、習性といおうか、なんとなくまるっと評価してしまっている。
そういう意味で、孔子が「其の仁なるを知らず」といったのは(都合5回も使われる)、相当に重い意味を持っている。ということを、仏教の本を読んで分かった(気がする)。
ミャンマーには瞑想センターという施設が多くあって(僧侶がトップを務める寺院であるが)、出家・在家を問わず希望者を受け入れて瞑想の指導をしてくれらしい。本書の著者が訪れたとき、そこに7年異常も滞在している日本人僧侶がいて、開口一番に「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と言ったそうである。同著によれば、日本では大乗仏教の影響で、悟りは円満な人格完成者としての仏の悟りのイメージが強いので、解脱・涅槃を得た人は、同時に人格者のように思う傾向があるらしい。
なるほど。ぼくは、僧侶に限らず、優れた技能者にも、人格者であるのを期待していたかもしれない。人間国宝ともなれば、自動的に人格者ときめつけているかもしれないし、優れた鍼灸人も、人格者だと思いこんでいる節がある。人物の評価は、冷静に行い、思い込みやえこひいき、偏りがあってはならないとわかっていても、習性といおうか、なんとなくまるっと評価してしまっている。
そういう意味で、孔子が「其の仁なるを知らず」といったのは(都合5回も使われる)、相当に重い意味を持っている。ということを、仏教の本を読んで分かった(気がする)。
2017年7月20日木曜日
この試合のために
ウインブルドン3回線で、大坂なおみが、ウイリアムズ姉妹の姉のビーナスと対戦し、敗退した。
対戦前のコメントがふるっている。
「彼女たちがいなければテニスをしていなかった」
「自分の人生はこの試合のために準備してきた」
毎日の練習、意識、日常の全てが、「ウイリアムズとの対戦」で充満していて、対戦がかなってたのしみだったでしょう。
日常のすべてが「1本の鍼、1つまみのお灸に向かっている」というのも、なかなかに格好いい。よこしまなこころが無くて。純朴で。剛毅で。
孔子が「剛」なる者をみたことがない、と言ったので、弟子が申棖という者がいると言ったけど、孔子は申棖には欲があるので、剛に相当しないと答えた。ー『論語』公冶長
おそらく、私欲が入らないことを「日常のすべて」とはいい、そうでもしないと到達できない領域があるでしょう。日本語がたどたどしい大坂なおみだけれど、コメントを聞いて魂の強さを感じました。鍼灸界にも、こういう新星が現れるといいですねえ。
その前に、この漫画の監督のような人物が出てこないといけないかも知れません。私欲っている場合じゃない。
2017年7月10日月曜日
森共之のコメント(その2)
ふたたび、『老子国語解』72章から。
①食べ物が美味しい日本。魚介類が豊富な日本。それで十分ではないか。
②自分の口福のために肉食するのは、無益の殺生をするのは、深く戒めるべき。
③肉食者は、血を吐き、癰疔を生じやすく、癩病となることが多い。
今、欧米でビーガン(完全菜食主義者)が増えているそうですが、むやみに家畜を殺さない、動物を殺さない、という意味では共之先生に共通するところがあります(共之先生は魚介類は認めているので、共通していないといえば共通していない)。そこまでつきつめないにしても、自分の欲望のために過剰に肉食をするのは、③の病気予防という意味でも、やめたほうが良いと思う。
しかし、江戸時代には、結構肉食していたんですね(上の階級の人だけでしょうが)。そういえば、後藤艮山も、下手な補法よりも、肉を食った方が体力がつく、と言ってました。
又肉食を禁すること、神代の始めにはなきことなれども、日本は異国とちがひ、米穀も甚だ味厚美なる上、何国も海辺遠からずして。常に生鱗の魚類を食ひ。奉養満足せるに。脂らを多き獣類までを食ふときは。其の害少からず。今も肉食を好むもの。血を吐き。或いは癰疔を生じ。或いは癩病となること多し。第一、魚鳥品多なるからは。養奉は余り有り。ことに六畜は人を憑にして生を為し。人の労をたすくるものなるを。無益の口腹の欲のため殺さんこと、不仁の基たるべければ。俚俗愚昧なる者の為めに此の道理をば。のたまはずして。神前に憚り有りとて、肉食を禁じ死穢を悪ふとの深戒。遠く後代を虞り。切に人生を哀むの神慮、濬哲寛仁ありがたきことならずや。共之先生は肉食を制限せよという。
①食べ物が美味しい日本。魚介類が豊富な日本。それで十分ではないか。
②自分の口福のために肉食するのは、無益の殺生をするのは、深く戒めるべき。
③肉食者は、血を吐き、癰疔を生じやすく、癩病となることが多い。
今、欧米でビーガン(完全菜食主義者)が増えているそうですが、むやみに家畜を殺さない、動物を殺さない、という意味では共之先生に共通するところがあります(共之先生は魚介類は認めているので、共通していないといえば共通していない)。そこまでつきつめないにしても、自分の欲望のために過剰に肉食をするのは、③の病気予防という意味でも、やめたほうが良いと思う。
しかし、江戸時代には、結構肉食していたんですね(上の階級の人だけでしょうが)。そういえば、後藤艮山も、下手な補法よりも、肉を食った方が体力がつく、と言ってました。
2017年7月8日土曜日
森共之先生のコメント
何度か登場する(御薗意斎⇒森道和→森仲和→森愚然→)森共之は、家伝書の『意仲玄奥』をまとめただけでなく、30年もかけた『老子国語解』という研究書もあり、実力学識をそなえた第一級の鍼師だと思います。その72章に。
六十年来、世上を見聞くところ、天命を全ふし、夭横せざる者の、予が先考愚然、予が舅(母方のおぢ)の僧洞雲寺平石。此の外十有余人には過ぎず。此の外は悉く。疾病夭横の死にして、而して一人も天賦の命数を全うする者無し。さればこそ。其の終りに臨みて、七転八倒。堪え難き苦患を見る。未熟の菓蓏を。もぎ取るが如し。彼の天命を全して滅を取る者は、なにの病患もなく、生気の消全するに随ひ、従容坦然として息絶ゆ。成熟せる菓蓏の自然に地に墜が如し。ご本人は72歳。父の愚然は82歳。 老子の教えをよく実行し、長命を得ている。老子は、(無為自然の)道に委ねることよって天命を全うできる、と教える。老子を学び、その教えを実践し、そして結果をだす。ここに、鍼師森共之の矜持がある。柿が熟して、木から落ちたときに、悟ったのでしょうか。
2017年7月3日月曜日
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