2015年12月23日水曜日

『老子』

『老子』第一章に「道、可道、非常道」とあり、これにより『老子』の命題が「道」であり、「常」であることがわかる。続いて「名、可名、非常名」とあり、つづく命題は「名」であり、その「名」は人為を指していて、非人為の「道」と対になっている。実に良くできた構成である。

 この第一章が『老子』の大綱領であり、第二章以下は、それの縷々たる説明にすぎない。全部で八一章あるが、普通には、陽数九の二乗であると言われているが、『老子』がそんな作為をするわけがないから、仮に八一章だったとしても、偶然の数字である。(森共之先生の説)

『老子』の命題が「道」であることは有名であるが、「常」であるのはあまり言われていない。第五章に「虚而不屈」とあり、道は虚であるが、尽きない。第六章に「綿綿若存」とあり、連綿と存続する。第七章に「天長地久」とあり、天地はとこしえである。というような記述があちこちにあり、『老子』の本意は「常」にあるのだと想像できる。

 老子は、持続可能な社会をめざして、「常」の実現に力点をおいたのだと思う。養生をして「常」をめざし(長寿)、小国寡民を為して「常」の国を維持し、自然と一体になることにより持続可能な社会を目指したのではないか。第三十章に「大軍之後、必有凶年」とあるのが、大いな憂いなのではないだろうか。

 養生の語は、『老子』に見えないが、同義語の「摂生」は見えるし、「益生」「長久」などの語が見えるから、養生説の祖は、老子だと言っても良いだろう。その「養生」は、単に個人の健康、長寿のためではなく、家族のためであり、子孫のためであり、地域社会のためであり、自然を大切にすることでもある。いずれにも隔てを作らないことが大切で、いずれも持続可能な社会に貢献することなのである。養生は個人のものではないのである。

 養生が個人の幸せのためだとすれば、老子が嫌うところの「有欲」の極みである。養生をして「個」が独立するのでなく、養生の結果、「個」が廻りと一体になり、道と一体になることが、老子の目指したところである。

 このように「常」を理解すれば、ようやく養生学を始めることができそうである。養生書を読んだり、貝原益軒の『養生訓』をよむことが養生だと思っていたが、おおいに反省しているところである。

2015年12月14日月曜日

老者には之を安んじ

 久方ぶりに、『サライ』の論語特集号(2007年3号)を開いたら、野末陳平さんのページに至る。

 そこには、『論語』公冶長篇の「老者には之を安んじ、朋友には之を信じ、少者には之を懐けんと。」が引用してありました。

 「老人には一緒にいて安心される存在であり、年下も含む友人には真心で接して信頼され、若者には慕われる」という意味です。この文章は、ちょうど土曜日に読んだところ。

 孔子が顏回と子路に対して、お前達の志(こころざし)を言ってみなさいといい、最後に自分の志を「老者には~~」と述べたくだりである。

 野末陳平さんは、最後に 「しみじみ、いい言葉だと感じています。この境地が今の人生目標といっても過言ではありません」と結んでいる。実に、渋い選択だなあと感心しました。野末さんは、『論語』に関する著作があるほどの勉強家で、その上で「老舎には」を選んだところに、熟達者の味わいがある。

 孔子が唱えた「仁」の、より具体的な、そして日常的な、到達点が、「老者には」なのかも知れません。礼だとか、義だとか、信だとか、孝だとか、弟だとか、こまごました科目があるのだけど、ひらたく言えば「老者には」ということになるのだと思う。「仁」の最終目標は、平和な社会であり、その到達の現れが、老者、友人、若者と和やかに融け合うことなのだ、と静かに語ったのだと思う。

 子路は、私物の車やコートを友達に貸して、壊されても不満を言わない、破られても憾まないといい、顏回は、良いことをしても誇らしげにしない、手柄をたてても威張らないと言いました。二人は自分のことを言ったまでのことで、「老者には」と言って、自分のことではなく、「社会の調和」がわれわれゴールなのだ、と教育的に指導したのでしょう。きっと。

六不治


 『史記』扁鵲倉公列伝は、扁鵲の段と倉公の段に二別されるが、扁鵲の段の末に「六不治」とういう一章がある。有名なのだが、「不治」に対して誤解されているので、一言。 「不治」は、「治らない」と訳されることが多いのですが、「治らない」のは「不已」「不愈」とあらわします。「不治」というのは、「治療を加えない」という意味です。
 
 なので「六不治」とは治らないケースではなく、扁鵲が治療したくないケースです。たとえば第一の不治は「驕恣にして、理を論(さと)らず」といい、おごり高ぶって、自分勝手で、道理を理解しないようなヤツです。実際、こんなヤツでも病気は治りますから、やはり治らない理由ではなくて、手を出したくない理由なのです。
 
君有疾、在腠理、不治將深」
 扁鵲が斉国の桓侯に対して言ったことばです。貴方には病気があります。病気は腠理にあります。治療しなければ(治せずんば)、病気は深く隠れてしまうだろう(将に深(かく)るらん)。実際には桓侯の治療はしていませんので、「治らなければ」とは読めません。『内経』にも死不治」という句が出てきますが、「死が近い、なので治療しません」という意味です。「死が近い、治りません」という意味ではありません。

「治る」という意味では、倉公の2番目のカルテに一日氣下、二日能食、三日即病愈、」とあります。服薬して3日目で病気が治癒したとあります。3番目のカルテも「三飮而疾愈」とあります。また、5番目のカルテには「一飮即前後溲、再飮病已」とあります。「愈」と「已」は同音で、通用し、「いえる」という意味です。
 
 折角ですから、扁鵲先生が治療を断る6つのケースをみておきましょう。
   
 驕恣不論於理(おごりたかぶって、自分勝手で、道理を理解しようとしないヤツ。)
 
 輕身重財(身体よりも、金銭を大事にするヤツ。)
 
 衣食不能適(衣の適度さをコントロールできないヤツ、食の適度を守れないヤツ。)
 
 陰陽并、藏氣不定(陰気と陽気が交戦し、蔵気が不安定なとき。陰陽并は『霊枢』玉版篇によれば悪性腫瘍ができている状態。)
 
 形羸不能服藥(身体がやせ、薬も飲み込めない状況のとき。)
 
 信巫不信醫(お祓いを信じ、医者を信じないヤツ。)
 
 有此一者則重難治也(このうち一つでもあれば、私には重荷。加療しがたい。)
 
 最後の「重」は、「重ねて」とも読めるが、「有此一」とあるので「重ねて」とは読めず、「重くして」とも読めるが、「軽身重財」が必ずしも重病とは限らないので、いろいろ考えてみると、このような人たちの治療は僕には「重荷」だ、というのが一番落ち着くところである。

 

2015年12月11日金曜日

愛読書は『老子』

 10月21日(水)のNHKのあさイチという番組(8:15~9:54)は哲学を特集し、その場にいた6人のうち2名が、『老子』が愛読書だという。単純にいって三分の一。学校の授業の初めに、聞いてみようかな。『老子』を読んだことがあるか、と。

 一人は有働アナウンサー、もう一人はゲストの柳沢アナ。原点に戻れる古典があるというのは、一つの幸せでもあります。古典でなくても良いのですが、原点に戻ることができるのは、貴重なことです。『論語』もしかり。

 『内経』も貴重な原点です。帰る、家がある、故郷があるような、ほっとする書物でもあります。入門の時は、読まなきゃ、中身を知らなきゃ、というような強迫感があり、不幸感がありましたが、今は読むのが幸せでもあります。その中から、何を見つけられるのか、何がとびだしてくるのか、とてもわくわくしています。

 18日の基礎講座に、オリエント組のK君が飛び入り参加してくれました。彼が所持する『霊枢』は、だいぶ読み込んだらしい風格がありました。羨ましい限りです。『論語』の「一隅を挙げて、三隅をもって反す」がごとき、気配を感じました。

 第2日曜日は日曜講座ですが、古参のTさんは、実際に三隅で返す悦びを得たらしく、『内経』を読むのが楽しそうです。

 いずれにしても、帰る古典があることは、なにより幸いであります。

2015年12月7日月曜日

恬淡虚無とお灸

 11月29日の講演は、恬淡虚無とお灸の関係を、すこしばかり話してきました。題材は、森共之編の『意中玄奥』の、一部分です。

①「無にして刺し、無にして出す」と云こと、凡そ此の道理に通達せざるものは鍼工と云に足らず。又た病を治することかたかるべし。無とは無心也。補写に心ろなかれと也。是れ則ち補写の極秘にして文字にあらはさぬこと也。幾ばくの門人ありといへども、此の補写の伝を得たるもの無し。

 冒頭の「無にして刺し、無にして出す」、無は無心で、恬淡虚無と同意で、心静かに、無心に、鍼を操作することが森流の極意で、その境地に到達した弟子は居ないという。


②それ灸法に虚実寒熱を問わずして、概して之れを灸すれども、しかも虚する者をば元陽を助け、実する者をば之れを発散し、寒する者をば之れを温め、熱する者をば外に発す。此れ神効あることいかんとなれば、灸にはたくみはかる処なく、補写の心もとよりなきゆへに、能く補ひ、能く瀉す。よつて虚実寒熱を問はず、之を治す。人為の私意手術に非ざれば也。


 灸術は、虚実も寒熱も区別しないで、おなじように施灸するが、それで妙効をあらわすのは、お灸が、一旦火を付けてしまえば、「たくみはかるところの人為」が介入しないので、自然に治ってしまうという。

 鍼術が難しいのは、鍼に気持ちを込めてしまう「私意」が介入して不自然になり、不自然な治療なので、自然に治る力をダメにしてしまうのである。だから、鍼術に上達したい人は、私意を介入させないで、恬淡虚無にならねばならない。これが森流の極意の「無にして刺し、無にして出す」である。

 この文章を読むと、鍼単独の技術は、相当に難しい。そもそも「恬淡虚無の修行」が確立されていないし、「恬淡虚無」の境地に至るまでの道のりも遠そうである。

 そこで、灸術ならば、技術として私意が介入しないのであるから、治療家が未熟でも、恬淡虚無に未達でも、他力的に治してくれるわけである。②のところをよく読んでいただければ、納得いただけると思う。お灸を積極的に治療に取り入れたほうが治癒率は高まるとつくづく思う次第。

 ところで、『意中玄奥』が欲しい人は、ご一報ください。正価でおわけします。

2015年11月30日月曜日

千金方・千金翼方のデータ販売

 鶯谷書院の主な活動は、古典のテキストデータ作成です。古典研究に大いに役立つツールだと思います。

 『千金方』、『千金翼方』は、人民衛生出版社から影印本がでていますが、個人的には、印刷した本の時は全く興味を覚えなかったのですが、PCの画面にテキストが表示できるようになり、いろいろ検索できるようになって、『千金方』、『千金翼方』を利用する機会が増えてきました。

 ただし、いままで利用していたデータは、誤りが多かったので、このたび校正を加えて、より忠実なテキストデータを作りましたので、みなさんにお分けしたいと考えました。

 ご希望のかたは、鶯谷書院のHPの「CDの申し込み」にお入りください。代金はデータの代金というよりは、鶯谷書院の活動へのカンパと思ってください。こんご、整備されたデータをリリースする予定ですので、ときどき「CDの申し込み」を覗いてください。

 『千金方』、『千金翼方』は、唐の孫思ばくの編集した総合医学書です。鍼灸のみならず、漢方薬、養生も含んでいます。巻一の「大医習業」「大医精誠」は、医者になるための訓辞で、教育的なものも含まれています。

 この中で大事なのは、養生に関する論篇です。これは『内経』にも、『難経』にも、『傷寒論』にも入っていない内容で、まとまった形では『千金方』、『翼方』がはじめての医学書だと思います。全30巻のうち、第28巻が養生巻です。

 現在、学校でも、研究会でも、東洋医学的養生は教えていないと思います。養生は、東洋医学が発信したものですから、わたしたちは養生学を広めなければならない立場にあります。それなのに、誰も関わっていないというのは、とても寂しいかぎりです。

 古典の役割は、現在の東洋医学を、正しく見直すところにあると思います。誤解されて伝えられていないか、積み残しはないか、もっと優れた医論があるのではないか。その批判を始めて取り組んだのが、江戸時代の古方派の医者です。別の枠組みを作ったのではなく、積み残しされた優れた医論を活用しただけのことです。

 古典を読めば読むほど、優れた医論が誇りをかぶり、放置されているなあ、と痛感します。今ある東洋医学は、かつての東洋医学の一部分なのです。実は、わたしたちは一部を全部と勘違いしているのです。北京に行って、中国を見てきたつもりになっているのと、まったく同じです。そろそろ東洋医学を見直すべきではないでしょうか。







2015年11月16日月曜日

文質彬彬

 『論語』に、「文質彬彬、然後君子」という一句があって、文(スマートさ)と質朴(ドロクサさ)は、彬彬(半々)が望ましく、それでこそ君子(ゼントルマン)なり、という意味だが、奥深い意味が込められている。孔子塾では、仁を基本に、礼、孝、文などの完成を目標としたが、それだけであれば優秀で、計算高く、弁が立つ生徒が、ゴールに一番近いことになる。

 しかし、孔子は、文質彬彬と言い、半分は質朴さ、ドロクサさが必要なことをいう。それは、別のところでも、「先進の礼楽におけるや、野人なり」といって、初期の弟子達は、野人的で、質朴であることをいい、「もし之を用いば、吾れは先進にしたがわん」といって、もし選び用いるならば、野人的である弟子達を選ぶと言っている。

 始皇帝が全国を統一したのが39歳で、52歳で亡くなるまで、地方巡視を5回くりかえし、総移動距離は15000キロになるという。驚異的な行動力である。泥臭い人物の極みかも知れない。権力に安座して、ふんぞり返っていても良いのである。やはり、それなりの人は、泥臭さが濃い。

 サッカー日本代表では、岡崎選手は、どろくさいはたらきで、評価が高く、信頼度も高い。ちかごろ、わが業界、この泥臭さが足りないような気がする。「身銭を切る」といって、お金を供出するような意味にとっているが、「身を切る」のと「金を切る」のと、ふたつの意味が込められているような気がする。その「身を切る」ということが、足りないのだと思う。身を切るは、ある程度、自己利益は捨てないとできない。

 「古典を読んで役に立つのか」と思ったことは、自分に利益になるかならないかを考えたことであり、思った段階で「身を切っていない」ことになる。 孔子に、「今、なんじは画(かぎ)れり」と指弾された冉求が良い例で、「画れり」は「自分自身を見限っている」と訳されているが、「いま、おまえは、自分に有利か、不利かを、考えただろう」と個人的には解釈している。孔子的には、黙って俺に就いてこい、なのである。古典を損得の目でみた時に、その門戸は閉ざされる、と思っています。

いずれにしても、身銭を切って東洋医学に奉仕する人が、にょきにょき出ているのを、ねがっています。

 

2015年11月7日土曜日

宗鏡寺(すきょうじ)

 1日の大阪(オリエントセミナー)から足をのばして、出石(兵庫県豊岡市)に行ってきました。ここは、沢庵和尚の出身地です。一時、宗鏡寺に「投淵軒」なる庵を構えていたというので、是非とも行きたいと思った次第。

 出石町は、2005年の平成の大合併によって豊岡市に併合されましたが、それまでは人口1万人余りの小さな町だったようです。鉄道の駅がなく、豊岡駅ほか、バスで20~30分ほど。そのためか、昭和の雰囲気がたくさん残っていました。

 行ったその日は「お城まつり」に当たり、町はとてもにぎやかになっていました。小学生数校と中学生1校の鼓笛隊のパレードがあって、とても懐かしく(今でも鼓笛隊というんでしょうか)、出石城の城下町なのですがさほど広くはないので、素朴な町がにぎやかになって、華がさいたみたいでした。

 出石皿そばが有名らしく、10センチくらいの皿にすこしばかりのおそばが乗っていて、それを次々と平らげるのだが、わんこそばよりは少し多めなので、皿数は増やせませんでした。多い人では150枚のつわ者がいるそうです。夏に、島根の出雲そば、山口の瓦そばに続いて、地元そばが続きました。お味は、関東のそばと同じで、食べ方に少しの特徴がある程度でした。

 町は、東、北、南と山に囲まれ、西は川が流れ、田んぼが広がっています。 宗鏡寺は町の東側、山の麓にありました。日が出るのがとても遅いようです。投淵軒は、さらにその奥、うっそうとした木に囲まれていました。冬は50センチくらい積雪があるといいますし、日の出るのが遅いので、沢庵さん相当に寒かったでしょう。

 小ぶりで、交通が不便で、歴史もあって文化性を感じさせる、素朴な町でした。

 

2015年11月4日水曜日

三城めぐり

 11月1日のオリエントセミナーは、阻滯の一つである硬結の話をしました。硬結は、本来は無いもので、発生すると体が不調になります。その硬結は、皮下にあり、筋肉にあり、関節にあります.
どのように探るか、その方法を話してきました。参考にした文献は、宮脇仲策『鍼学発蒙訓』と奥田意伯編『鍼道秘訣集』でした。それらの硬結からどのような病気が生まれるか。よくよく説いてあります。つまり、硬結を解除することを治療とし、その結果、硬結から生まれた病気が治るのであります。硬結がなぜ生じたか、両書はそれについては触れていませんので、こんごの課題でもあります。

 その後、丹波篠山城、竹田城、但馬城の、兵庫県の3城をめぐってきました。先月の岡城とあわせて4城。ふりかえってみれば、石垣の石の積み方(野面積み)が共通していました。四角の石をきれいに積むのとは違って、丸く、大小さまざまの石を積み上げる方法です。野面積みの野性味を帯びた力強さに圧倒されてきました。素朴で、しかも強靱で、さらに美を備えている。野面積みに惹かれて4城めぐりしたのかも知れません。

 野面積みを行う石工を穴太衆(あのうしゅう)というのだが、現在も十四代が後を継いで、各地の石垣を修理しているらしい。早く知っておれば、伝統の学術大会で講演してもらったのに。かえすがえすも残念。

 孔子先生も、文質彬彬と言っているように、きれいに整った鍼灸システムだけでなく、素朴な鍼灸も確立されなければならないでしょう。野面なる鍼灸を。

2015年10月29日木曜日

東京セミナー

 11月27日(火)は、大森の東京衛生学園で、外国人対象の「日本鍼灸セミナー」を担当してきました。9時から5時まで。フランクな先生方だったので、さほど疲れませんでした。気むずかしい先生だったら、へとへとだったでしょう。外国人はいいねえ、隔てがなくて。セミナーはやりやすかったですよ。

 普段おしえていることが、外人の先生方に通じるのか、理解してもらえるのか、そういう楽しみもありました。ところが大受けで、単純明快だったようです。実際に治療してみて、変化を確認してもらいましたが、隔てが無いせいか、めぐりが良いようで、変化も早いようです。日本人のようにめぐりが悪いのは、心の問題なのかなあと、何となくの手応えでした。

 その日のうちに、来年もお願いしますといわれて、日にちを決められました。これまた、遠慮が無いというか、隔てが無いですね。1年後のことだけど、次のネタはどうしようかと、今から案じておかねばなりません。

 男性は、大抵はのぼせてました。『素問』逆調論篇の「怒すれば気上る」という状況で、イライラするストレスを持っているのかも知れません。刺絡したら、ばっちり効きそう。速効で、驚くでしょうね。しかし、刺絡は、拒否されるでしょう。アメリカに刺絡を輸出できたら、全米を席巻できるでしょう。実に、惜しい。

 女性は、割と健康的な人が多いようでした。それでも、下寒上熱の人は、男女問わず多いようです。都内でも、半袖の欧米人が多いですが、あれは体温が高いだけではなく、下寒上熱の表れのようです。なんでも思いこみはいけないですね。つぶさに見なければ、一面的に見れば失礼です。

 いずれにしても、隔ての無さに、感心しました。

 参加者17名(アメリカ11名、スイス2名、インドネシア2名、イギリス1名、オストラリア1名)、そして主催者の田中さん。衛生学園の後藤園長が覗きにきました。

2015年10月25日日曜日

第43回日本伝統鍼灸学会学術大会(その2)

 10月24日、25日の両日に行われた学術大会は、盛況の中でおわりました。2日間缶詰になってましたから、会場を出て「これが娑婆~」とほっとしました。外の空気のありがたさを思いました。

 参加者は、768名。懇親会は151名。たくさんの人が参加してくれました。たくさんの学生も参加してくれ(345名)、伝統的鍼灸を受け継いでもらうための格好の機会になったかとおもいます。机の上の一万字よりも、五感で体験することが、何よりです。

 満員の大ホールで、しんと静まりかえり、講演者と聴衆が一体になった、あの空気は、近年にない感動でした。今までとは違う空気が充満していました。潮目がきたか。

 小曽戸先生も、長野先生も、本当に力がある人は、やっぱり違いますね。藤本先生の講演も良かったですね。オーラを感じました。ホワイエで雑談していたときは感じませんでしたが、ステージに上がるとスイッチが入るのでしょう。きっと。

 今回は、課題発表が新しい企画です。若手の発表を誘ったのですが、なかなかの力作発表で、期待を超えていました。6題の中から優秀賞を選びましたが、わが日本内経学会の小宮山君が受賞しました。表彰状をみやかわが授与しましたので、感慨深いものがありました。

 学生セミナーも若手に委ね、3教室に別れて、触診をテーマとしました。各教室あふれんばかりの熱気で、こちらも大成功でした。若手といっても中年組ですが、なかなか実力者揃いでした。

 懇親会は150名を超える参加者で、こちらも大盛況でした。一芸発表会では、飛び入り含め6題が参加しました。その中から表彰が行われ、みやかわの「大根おどり」が一等賞、日本内経医学会の「すずめおどり」が二等賞、やわら会の「太極拳」が三等賞でした。自分で企画して、受賞してしまって申し訳ないのですが、ありがたく頂戴いたしました。
 
 簡単でありますが、報告いたしました。ご参加いただいたみなさん、ありがとうございました。

 

2015年10月12日月曜日

第43回日本伝統鍼灸学会学術大会

 もうすぐ、伝統鍼灸学会の学術大会。会頭をおおせつかり、奮闘中です。実行委員は、東洋鍼灸専門学校の元教員で構成。同窓会的な雰囲気で、1年半、準備を練ってきました。

 江戸時代の鍼灸を知る、ことをテーマとしました。事前予約がよく集まり、おそらく過去最大規模の参加者になりそうです。相当にぎやかになると思われます。

 懇親会も、過去最大規模で、ぎゅうぎゅうです。一発芸企画が良かったのではないでしょうか。何かやらかしてくれそうな、そういう雰囲気を持ってます。主催者としても楽しみです。印象に残る懇親会になるのではないでしょうか。

 先日、授業で、和田東郭先生の「医則」を読んでみましたが、いま、和田先生の年令に近づいていますが、「医則」が書けるかと自問してみると、足元にも及ばないということに気がつきました。みなさんはどうか知りませんが、上から目線で、江戸時代を参考にしてやろうか、と思っていませんか? 江戸時代が横綱・大関とすると、私たちは幕下にも至っていないほどの、力の差があるように思います。江戸時代を参考にするなぞ、実際できません。

 昨日、講座で紹介した、中西深斎先生は、30年間、『傷寒論』を勉強して、『傷寒論弁正』を書いたのですが、その30年は、診療所を閉鎖して、もくもくと『傷寒論』を勉強したものであり、臨床の片手間の作品では無いのです。その30年を、気軽に、お知恵拝見というような魂胆では、読み切れないでしょう。

 『意仲玄奥』をまとめた森共之先生も、30年以上も『老子』を勉強し、『老子経国字解』をあらわした。文庫本で安直に読み飛ばしている者が近づけない、深さ、透明さがあります。なにしろ真剣なのです。目の前のハエを追っている場合じゃないですよ。

 江戸時代のひとつひとつが、なにしろ奥深い。横綱に立ち向かう気持ちがないと、江戸時代には入り込めないと、つくづく思います。43回が、日本鍼灸の、変化のきっかけになることをねがっています。

2015年10月7日水曜日

これからの講演

 10月24日(日曜)は、第43回日本伝統鍼灸学会学術大会。会頭講演で「陷下について」を発表。30分の短いものですが、参加者は700名を超えますから、いささか緊張します。『内経』には「陷下のツボはを視て探せ」とあるので、なんとか目で見えるように写真を撮って発表する予定です。

 10月27日(火曜)は、第6回日本鍼灸国際セミナー(バークレイ鍼・統合医療専門職大学院主催)で、朝9時から夕5時までの丸1日。首藤先生の代打です。任は重いので、気も重いのですが、今まで鶯谷書院で培ってきた成果が試されるときかなと前向きに考えています。学校から解放されて、鶯谷書院を立ち上げて、とても良かったと思います。 

 11月1日(日曜)は、大阪のオリエントさんの講演。6月に続いて、今年2回目。3月の北京での臨時のセミナーと合わせれば3回目。オリエントさんの講演は、常連さんが多いので、毎回新しい内容にしています。だんだんネタ切れになってきました。10時から4時。 

 11月29日(日曜)は、三景さん主催の講座で、昨年に続いて2回目。1時から4時。「恬淡虚無とお灸」にしようかと思っています。

2015年9月30日水曜日

白水ダム

 白水ダムといっても、ため池の堤防です。ため池の余ったみずが、堤防を流れくだるさまが、白のカーテンのようで、なんともきれいなものでした。連れて行ってくれた方は、進入禁止の前からしか見たことがないと言ってましたけど、行ったときには、何人も乗り越えて、ダムの真下まで行っていたので、私たちも行くことにしました。

 遠くから眺めるのと、真下で見るのとは大違いで、なんとも迫力のある水のカーテンでした。水のにおい、空気の流れ、音、恐怖感。連れて行ってくれた人も、興奮気味で、右に登り、左にかけ上がり、あらゆる角度から堪能していました。土木屋の小宮山さんがみたら喜ぶだろうな、と思いながら、ぼくも堪能しました。

 名水のわき出るところで、お水をいただきました。町に戻ると、名水の里ですといって、お水を出してくれるのですが、それは水道水のようでした。カルキの臭いがしましたから。名水をのまなければ、水道水でもおいしいのでしょうけど。町の人は、無料の名水を汲みに来ていました。ごく当たり前に飲む水が、名水であるのは、なんと幸せなことでしょうか。東京に旅行にきたら、まずい水で、辟易するでしょうね。

 やはり、文化は、気候風土から生まれると思います。してみると、鍼灸医学は、どういう気候風土から生まれたのか。とても、気になります。何となくわかっているのは、九鍼は南方起源であること、経脈説は南方由来であること。さて、その、南方とは、どの当たりのことなのか。どんな、気候風土なのか。来春に学術交流に行くところの南京市は、南方に属するだろうから、この意味でも楽しみなのであります。

2015年9月28日月曜日

岡城

 弦躋塾セミナーの後は、大分県竹田市に足を伸ばしました。別府から大分、大分から豊肥線にのり、約2時間で、豊後竹田駅。一両だけの黄色い車両で、ディーゼル車。マッチ箱みたいで、キュートでした。

 車窓からみえる田んぼは、休耕田はきわめて少なく、一枚一枚が大切に管理されていて、きれいな風景でした。農家のかたの清らかな心持ちがうかがわれて、さわやかな気持ちになりました。山間の田んぼなので、直線で区切られていず、緩やかな曲線で囲われた、大小さまざまの田んぼ、それらを丁寧に管理しているようでした。豊後の文化なのかも知れません。

 宿泊は、豊後竹田駅の近くにとったので、徒歩1分で到着。この宿のご主人は、翌日、仲良しになったお茶屋さんの三男の方と同級生で、50歳くらいで亡くなって、それ以降は、味が落ちたそうです。おいしくいただきましたけど。

 目的は、岡城(正式には岡城址)観光で、地図をみたら町外れにあり、徒歩で1時間以上とおもいきや、20分くらいでした。延々の上り坂を、てくてくと行くと無事到着(写真は検索してください)。途中、町のみなさんが、こんにちはと挨拶してくれるので、田んぼのこととを思い合わせて、この地方の文化の高さを感じました。故郷の松島町では、このように挨拶することは無いと思います。

 岡城の城下町は竹田市で、市街は狭く、江戸時代の建物が残っていたり、戦前の建物が残っていました。市民には、旧の商業地であり、観光客がいないときは、閑散としているとのことでした。マーケットは郊外に建てられて、にぎにぎしていました。

 名水の里らしくて、お茶屋さんの店頭で、無料で提供していたので、ご馳走になりました。ご馳走になったので、お茶を買ったら、店頭のおじさんが、白水ダムに連れて行ってあげると言うので、甘えさせてもらいました。車で20分くらいの山奥にありました(写真は検索してください)。その帰りに、湧水群も案内してくれました。なんだかんだと1時間くらい、お世話になりました。この人は、お茶屋さんの三男で、福岡でおつとめで、帰省中だったとのこと。年齢が近かったので、いろいろな話をしました。

 良い町でした。竹田市。藩主の中川氏の治政がいまでも影響があるのか、この地の風土なのかわかりませんが、山間の地で、人口1万7千人ながら、文化レベルの高さを感じました。

 

2015年9月23日水曜日

弦躋塾終わる

 9月20日・21日と、第31回の弦躋塾に参加してきました。去年あたりから、31回で弦躋塾は閉じると、首藤先生が仰っていたので、「長い間、ご苦労さま」という気持ちを込めて、参加してきました。おん歳83だそうです。

 弦躋とは、首藤先生の字(あざな)で、文字通り首藤先生の塾なのですが、もし「其の人」がいたならば、まだまだ続けられたのではないかと思いました。後継者がいないのでは、「伝統医学」にはなりえないのではないかと、少しばかりの危惧をいだいてきました。

 弦躋塾は、首藤先生の講義・実演がメインで、外来講師の講義・実技をサブとし、ほぼレクチャーで終わります。レクチャーは、教育効果があがらないとされていますが、100名を超える参加者に、手取り足取りの実技指導は、なかなか難しいところです。首藤先生の実演が、スクリーンに映し出されますので、「見て学ぶ」きわめて貴重な機会なのです。

 「見て学ぶ」側が、単なる観客でおわるか、技術をぬすみとる者になるかは、大きな分かれ目です。話を聞いたことが、単なるお話でおわるか、自らの訓えに昇華させるかは、大きな分かれ目です。講座講演の機会が多いほど、見ることに慣れ、聞くことに馴れてしまい、収穫は少なくなるような気がします。有り難みがすくなくなるというか。

 そういう意味では、いつでも餌が用意されているのではなく、餌を探し求めるハングリーさが、必要ではないか。『荘子』養生主篇の「野性のキジは、鳥かごに飼われるのを求めていない。餌が十分で精神は安定しているが、こころ楽しくないからだ。」という一節が降りてきた。餌を食べることも学ぶことだが、自由に餌を探し求めることも学びである。前者はレクチャーだとして、後者は体験型の教育になろうか。
 
 やはり、国試一本やりの教育は、まずいなあ。
 


 

2015年9月17日木曜日

迅雷、風烈には、必ず変ず

『老子』13章に「わたしに大きな災禍が降りかかるのは、わが身に執着しているためだ。わたしがわが身に執着しないならば、なんの災禍が降りかかろうか」(蜂屋邦夫訳)とありました。


 これを読んで、天災を悪者にしていた自分に気がつきました。天は、ただ無心に、雨を降らして、風を起こしただけなのに。そよ風は善で、強風は悪、小雨は善で、大雨は悪、と決めてしまっていました。自分に被害があれば、天災とうらんでいました。天にたいして、なんと傲慢だったのでしょう。


孔子は、迅雷(突然の雷)、風烈(暴風)のときは、居ずまいを整えた(『論語』郷党篇)、そうです。自然現象に対する、いいかえれば天に対する敬虔さをよくあらわした一言かと思います。


 老子、孔子ともに、よく出来た人で、たんに人間社会の生き方を指導するだけでなく、自然に対する心構えも教えてくれる。人体が自然の一部と考えれば、老子、孔子に、学ぶことが多いのではないでしょうか。『内経』が中国医学の原典であるけれど、『老子』は天地の中の人体のとらえ方、『論語』は天の下の人体のとらえ方を学ぶ古典として、役割は大きい。かくして、伝統鍼灸大学の基礎科目に、『老子』講読、『論語』講読の2科目が確定しました。


 『老子』の「なんの災禍が降りかかろうか」というのは、実際に災害に遭っているのだけど、それを災害と思わなければ、実際の災害は災害ではないという意味で、「仕方ないねえ、自然にはかなわないね」と、すっきりした顔でテレビのインタビューに答えていましたが、そういうことではないでしょうか。


 阿蘇山は何度も噴火しているけど、その麓に住んでいる人、鹿児島市の人たちは、きっと阿蘇山の噴火を災害と思っていないのでしょう。自然とともに生きるというのは、自然から与えられる益だけでなく、自然から与えられる損というのも、どちらも受け入れること、つまり損益の区別をしないことなのだと、理解できました。
 
 損益、善悪にわけないこと。
 天災と言うのは、慢心であること。
 自然に対する敬虔さが欠如していた。

2015年9月14日月曜日

きゅうくつと天災

 先週の日曜日に、勉強会に行くために、新宿駅で乗り換えたら、人の多さに気押されて、息苦しくなりました。強迫されるような感じで、生きた心地がしませんでした。2~3分のことでしたが。

 毎月一回、新宿駅で乗り換えて、同じような人混みに混じるわけだけど、今回が初めてそうなりました。いつの間にかですが、狭いところ、狭い感じ、ひいては「何時いつまでに」という締め切り感に、窮屈さを感じ、苦しくなっているようです。田舎育ちなので、都会生活がだんだん困難になってきているのだと思います。「つま立つものは、立たず」というがごとし。

 もうひとつ押し寄せているのが、天災。わが家は、もと田んぼだった住宅地に立てたので、床上冠水を何度か経験しています。軽かったので、被害軽少でありましたが、鬼怒川の氾濫のようになれば、同じようになると覚悟しています。その、大水がいつくるのか、それも強迫的でもあります。怖いわけでもなく、悲観しているわけでもなく、覚悟はしているのですが、それでも見えない強迫として、わずかばかりあります。

 鬼怒川が氾濫したと思ったら、阿蘇山が噴火しました。首都直下の地震もありました。三陸津波を経験し(身内が経験したので間接的ですが)、大雨の被害に遭っていると、天災が人ごとではなくなり、なんとなく息苦しくなります。おおかたの人は、のど元過ぎれば忘れてしまうのでしょうが、これだけ頻繁だと、心構えしておいたほうが良いのではないでしょうか。
 
 他の国とはちがって、天災が多い国なのだから、日本人は、個々人がしっかり天災と向きあわなければならないと思います。国がなんとかしてくれる、自治体が助けてくれる、と安穏している場合ではないでしょう。自分には天災が降りかかってこない、とのんびりしている場合ではないでしょう。

 日本人が呑気になってしまって心配ですね。ボーとしている間に・・・・。万事、後手後手に回ってしまうのは、この辺りが原因なのだと思います。ひとは、自分が被害にあわないと、天災がくるのとは思わないので、しかたないのかも知れません。

 実は、鍼灸界も、呑気になってまして、天災がきそうなのを誰も心配していません。安づくりな医学なのですから、一旦事が起きれば、あっというまに消し飛んでしまうのです。先生方は、酒吞んで浮かれている場合じゃなくて、次の世代のために、足場固めの一策を講じなければならないと思います。

2015年9月7日月曜日

聖人たれ②

 道家では、聖人は目標人である。この流れを受けて、上古天真論篇でも聖人は目標人である。

 聖人は、天地自然に合体し(というより天地自然にすべてを委ね)、天寿を全うし、心静かで無欲なる人である。この人こそが、鍼灸師に最適なる人で、天寿を全うし、世の見本になり、心静かで無欲なために、病者の苦悩が、病因病機が、明鏡に映し出すように見えるのである。すべてお見通しなのである。
 
 もし、心が騒がしく、欲まみれだと、「欲に目がくらむ」というように、病者の苦悩も、病因病機もなにも見えないのである。なにも見えないので治療しているのである。だから、怪しく、疑わしい治療を、何食わぬ顔で行っているのが、今の私たちなのである。それでも、世の中から許されているのだから、鍼灸師はぬるま湯に漬かっているとしか言いようがない。

 みなさん、冷静に考えてみてください。調子にのって酒吞んでいる場合じゃないし、ちゃらちゃらしている場合じゃないのです。昔はそれで良かったのですが、今は違います。昔の建物と同じく、耐震構造が無いのです。そのことに気がついて、補強工事をしておかないと、一気に瓦解するに違い在りません。
 
 儒家では、聖人は理想人であり、目標人は君子である。古代の尭舜禹、周公などが聖人で、どのように努力しても、近づくこともできない。なので、君子を設定して、修徳にはげみ、世の中に役立つ人になることを目標とした。鍼灸師も社会の中の一員であるから、君子をめざして、修己治身することは、当然なのです。

 鍼灸師は、社会人として君子をめざし、治療人として聖人をめざさねばならないのですから、安直にできる仕事ではないのです。このことは江戸時代の鍼灸書で、しばしば警鐘が鳴らされています。そろそろ、めざめないと。

2015年8月17日月曜日

鍼灸師は聖人たれ!

 『素問』上古天真論篇を読み直すと、この篇は養生篇ではなく、理想的な鍼灸師としての聖人の道を述べたものだとわかった。聖人は、恬憺虚無の人であり、天寿を全うした人であり、そして鍼灸師なのです。恬憺虚無が共通項で、天寿を全うする極意であり、治療の極意でもあるのです。

 治療に当たっては、虚心になり、雑念をはらうことであれば、先輩鍼灸師、だれでもがおっしゃるところで、毎日実行していることでしょう。ある程度の人ができること。

 そうではなくて、恬憺虚無になって、天寿を全うすることが本来で、鍼灸治療をするのが、その延長線上の余技である、ということが大事なところですから、どれだけ理想的な治療したとしても、理想の鍼灸師ではないわけです。なにしろ、普段から恬憺虚無であることが大事なことなのです。
 
 恬憺とはこころ静かで無欲なこと。虚無とは無為とおなじで、分別の判断をしりぞけること。『針道秘訣集』では、三毒(怒り、むさぼり、愚か)をしりぞけて、こころが清浄になること。こんな風に書いても、実際にはなかなか実行できないのですから、恬憺虚無は一生修行しなければならないのです。このことを、『針道秘訣集』では、「よく心がけ工夫を成すことは、心持ちで一番大事なところである」と言っています。

 鍛錬、修練を続けることを工夫といいます。治療中だけ三毒が無ければ良いのではなく、行住坐臥、いつでもどこでも、死ぬまで続けることが必要なのです。

 最近、電車が遅れることがしばしばあり、イラっとしますが、そのときも反省。人にいやなことを言われて、いやな気がしますが、反省。調子にのって食べ過ぎて、反省。寝過ぎて、反省。反省ばかりで、なかなかこころ静かを達成できませんが、すこしずつ進歩していると思っています。

 いずれにしても、恬憺虚無になって天寿を全うし、恬憺虚無になって治療の極意を得る、これが鍼灸の本道なのだと『素問』上古天真論が述べているのでした。


 


普段、めちゃくちゃな生活をしていても、理想的な鍼灸師となる。毎日浴びるように酒をのみ、不健康な生活をしていても、治療の場では無為であればいいのだろうか。
 
 聖人で大事なのは天寿を全うすることである。100歳まで生きることである。上古天真論篇は、無為自然になり、道と一体になれば、自然に天寿を全うできるという。

2015年8月10日月曜日

教員セミナー

 8月8日・9日、北里研究所東洋医学研究所主催の「教員のためのセミナー」が無事おわりました。今年は第10回。全回で講師をやりました。今回は、「内経聖人考」を発表しました。昨年の内経医学会の正月の発表を再考したものです。

 正月の発表では、『内経』に36見する聖人を、①治療家、②過去の偉大な政治家、③優れた養生家、と分類しました。

 その後、『呂氏春秋』を読んでみると、その道家に属する6篇にも聖人が10見していました。

 その聖人は、優れた養生家であり、その余技として政治家になる人でした。政治家を目指して政治家になるのではなく、まず優れた養生家になって、そのうえで政治家になるべきだと言っています。

 この流れからすると、『内経』の聖人は、優れた養生家であるが、実は治療家でもあるのです。治療家が目指すのは、治療家ではなくて、優れた養生家である、というところに奥深さがあります。それを一言でいえば「聖人」なのです。

 したがって、昨年の正月での分類は、①治療家、②過去の偉大な政治家、③優れた養生家、でしたが、改めまして、①優れた養生家(兼治療家)、②過去の偉大な政治家、ということになります。

 ①の聖人は、到達可能な人物で、修行に取り組むための理想像です。
 ②の聖人は、過去の優れた政治家で、完成された理想的人物で、到達は不可能です。

 聖人といえば、みな、到達不可能の空想の人物として、自分とは無関係の人と思われ、修行を放擲してしまいます。しかし、『内経』の聖人は、毎日の修行によって、到達可能なる人です。ここが大事なところです。毎日の修行とは、たとえば、『針道秘訣集』がいうところの三つの清浄の工夫ですし、沢庵の『不動智神妙録』に書いてあることを、理解実践することなのです。

 かくして、江戸時代の至言と、『黄帝内経』が一本につながったわけです。あな、めでたし。





2015年7月20日月曜日

オリエント研修その4








 森共之先生が、30年以上も臨床に従事し、おなじ位の時間『老子』を読んで、「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所なり。医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」と書いたのは、生半可な思いでもないし、中途半端な技術でもないのは、間違いありません。


「相い忘れ」は単なる手先の技ではなく、日頃の鍛錬も踏まえたものであり、また老子の思想を踏まえた人生観を土台とした「相い忘れ」なのです。


 「相い忘れ」が、バッターボックスに立った打者の境地だとして、おそらく「来たボールを打つだけ」と言い換えることができるでしょう。ヒットになるか、空振りになるか、そんなことを考えている時間もないし、勝つとか、負けるとか考えている隙間もないでしょう。そうすると、「相い忘れ」の打撃をするためには、毎日の練習が欠かせないし、さらに野球選手としての人生哲学がなければ、おそらく打席で「相い忘れ」を表現できないでしょう。


 お相撲だってそうでしょう。土俵に立ったら、「相い忘れ」にならないと、勝とうとか、こんちくしょうとか、思った時点で、負けるかも知れません。印象的なのは、白鳳で、天敵である稀勢の里との対戦のときは、顔つきがかわり、相撲もばたばたして、負けることが多いようです。きっと、心の中が揺らいでいるんだとおもいます。かつての負け相撲を忘れていないし、目の前の稀勢の里も忘れていないので、負けることがあるのだと思います。


 こうしてみると、腹診という技術も、手先の技術として普段の鍛錬が欠かせないし、こころの鍛錬としても「相い忘れ」、つまり無心無欲になる工夫も欠かせないということになります。しかし、無心無欲といっても抽象的で理解しにくいのです。無心無欲を提案したのは老子であり、その系譜の荘子も唱えましたが、具体的な工夫の仕方は、何も教えていません。個人的な感想ですが、それを具体化したのが、禅宗ではないかと思います。沢庵の『不動智神妙録』が、とてもわかり易い。無心無欲とは、「こころを止めないこと」に置きかえても良いかと思います。千手観音の千本の手は、千本自由自在に使うためには、どの手にこころを止めてはならない、ことを教えているのだ、とかいう例えがあって、とてもわかり易いです。


 沢庵の『不動智神妙録』をよくよんで、無心無欲を工夫し、「相い忘れ」に到達する。これが、腹診の始めと終りです。その上で、各流派の腹診法を学ぶべきだ。と、今回のオリエント研修で、再確認しました。


 いきなり講演をふってくれる野瀬社長は、良い機会を与えてもらって、感謝に堪えません。また、熱心に聞いてくれる皆さんがいるのも、ありがたいことです。



2015年7月13日月曜日

オリエント研修その3

k
 第二の「相い忘れ」は、医者の技術でもある。ただ、撫でていればいいわけではない。

 診察なのだから、圧痛なり、硬結なり、冷えなり、火照りなり、陥下なりを、淡々とみつけること。それが、自然にできることが、治療者側の「忘れ」である。腹診を意識しないで、こころ静かに、虚無の状態で腹診することが「忘れ」である。

 病人にとっては、完全にお任せして、心地よい状態で異常所見を見つけてもらえるならば、診察されていることを「忘れ」ている。完全にお任せして、自分を「忘れ」ているのである。

 「医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れ」というのは、単に物理的なことだけいうのではなく、お互いのこころが「忘れ」た状態の診察も、「相い忘れ」に相当する。

 つまり、腹診とは、病人からいえば、柔らかく温かい手指で、ほどよい力で、こころ静かに、適切に所見を探し出してくれることである。
 
 医者の、◎◎流、◎◎方式などという腹診は、それは医者側の満足であり、病人に寄りそったものではない。

 ということを考えると、腹診は、まず病人の立場から出発しなければならない。その基礎の上で、医者の立場の腹診を提唱していかねばならない、と考える。よって、◎◎流、◎◎方式を学ぶより以前に、柔らかで温かな手を造る工夫こそが、腹診の第一歩だと考える。


 



2015年7月8日水曜日

オリエント研修その2

 森共之先生が、『意仲玄奥』に書き入れた「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所な。医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」という一文は、これこそ真髄ではないか。

「忘れ」は、『荘子』外篇・達生篇のエピソードがわかり易い。
「足のあることを忘れておれるのは、履き物が足にぴったり合って快適だからである。腰のあることを忘れておれるのは、結んだ帯が腰にぴったり合って、快適だからである。善し悪しの判断を忘れておれるのは、心と対象とぴったり一つになって快適だからである。内面の動揺がなく外に流されることもないのは、どんな出来事にもうまく適合して快適だからである。心にかなった快適さにもとづいて、どんな場合にも快適でおれるというのは、快適を忘れて意識しな快適にいるからである」(金谷治訳)

「相い忘れ」とは、医者の手指と、病人の皮膚がぴったり合って、快適なことだといえる。別な言い方をすれば、「一体になった」ということである。


 鍼灸は、診察にしろ、治療にしろ、病人の皮膚に直接触れる治療法である。この意味では、とても特殊な治療法である。やはり、柔らかで、温かな手が、是非ほしいところである。

 タオルを隔てて触れるのならば、手が冷たくても、手が荒れていても、手汗をかいていても、病人に不快がないだろうが、皮膚に直接触れるのであれば、病人は不快だろうと思う。ましてや、腹部はナイーブなところだから、一層に不快だろうと思う。

 そうしてみると、鍼灸にしろ、腹診にしろ、技術以前に、手指を整えることが、「相い忘れ」の第一歩ではないだろうか。なにしろ、イヤがられたら、腹診はできませんから。手指を整えるには、毎日、空いた時間に自分の肌を撫でる、気がついたら撫でる。そういう工夫が必要である。他にも、工夫法があると思うが、どんな方法でも良いから、続けなければならない。

 なので、オリエント研修では、「手指を整える」ことを、第一声にした。少なくとも、自分の手の平をこすりあわせ、滑らかな手の平を作ることを、繰り返し教えた。あとは、受講生の工夫だけが、頼りである。

 ツボが正確にとることができるとか、反応を正確に拾うことができるというのは、その次である。あくまで、初めから、病人の皮膚に拒否されないように、手指を調整しておかねばならない。それが、「相い忘れ」の第一歩だと思う次第。


 










 


2015年6月24日水曜日

6月28日オリエント研修

 6月28日は、オリエント研修で、大阪へ。受講生は、学生さんと常連さんと、半々でしょうか。一番難しいシチュエーションです。常連さんには、話がかぶらないようにしないといけないし、学生さんには難しくしてはいけないし。ようするに、ネタ切れになるのですが、ネタは自然にわいてくるので、何とかなっています。

 今回のテーマは腹診です。腹診は、何十年もやっていて、いまさらの話題がないと思いきや、前に紹介した、森共之先生の「相い忘れ」というところを、今回は取り上げたいと思います。

 配付資料は無しです。去年か、一昨年、配付資料を造ったら、主催者に怒られました。パワーポイントもありません。ホワイトボードとベットのみの、シンプルなセッテングです。ちょっと、落語に近いでしょうか。

 午前2時間、午後2時間とのことですが(たぶん)、去年の夏は、午前3時間、午後3時間でしたから、肉体的には負担が少ないかと。短いから楽ちんということはありません。どんなに短くても、たいへんなんですから。

 だいたいは2週間以上も前から、話す内容をメモ書きしておきます。原稿的には、準備万端なのですが、原稿を読まないので、準備した内容はほとんど使わずに、その場のアドリブになってしまてます。会場の雰囲気と、第一声で、方向性が決まっているようです。

 「相い忘れ」については、次回、報告いたします。


 


2015年6月22日月曜日

治療その3

 自療とは、自分で治療することである。

 自分で治療するとは、治療行為を、自分にほどこすことです。たとえば、自鍼、自灸、ひとりあん摩など。薬局で市販薬を買って、早めに治しているのもでしょう。かぜを引きそうだから葛根湯。自分に合っているクスリで早めに治すことができるならば、漢方薬でなくても自療といえます。ざっといえば、軽度で、早期ならば、自療である程度対処できそうです。そうでなくても、湯治に行ったり、断食をして、重い病気を治す人もいますが。

 また、ただ、毎日の生活を見直し、自然な生活に戻ることも、自療といえるでしょう。食べ過ぎたり、飲み過ぎたり、夜遅くまで起きていたり、そういう不自然な生活を改め、自然に沿った生活をすることも、自療といえるでしょう。食べ過ぎ、飲み過ぎ、遊び過ぎ、生活をあらためるだけで治る病気もあるのではないでしょうか。

 自分で治療するといえば、範囲が狭そうですが、ひろく考えるとなかなか奥深いところがありそうです。さて、自分で治療するといっても、大いなる存在を見逃してはならないかと。神さま、仏さまのお力もあるだろうから、自療に関しては、信心も大きな役割をすると考えらます。

 大いなる存在としては、「自然の力」を忘れてはなりません。これは、老子が提案したもので、自然治癒、自然良能などといわれる「自然」です。わざとらしいことをしない、小賢しいことをしないで、自然の力に委ねて自療すれば、自然の力が荷担してくれ、自然治癒力が増してきます。

 湯治は、小賢しいことを考えずに行えば、自然治癒が増すけど、小賢しいことを考えてしまえば、不自然となり、返って良くないかもしれない。食事療法も、小賢しいことを考えなければ、自然治癒力も高まるだろうが、小賢しいことを考えるならば、返って良くないかも知れない。

 要は、自療といっても、自分勝手に行うのではなくて、自然の摂理に法ることが大切で、その場合は、思いこみや、固定概念、社会の常識、流行、うわさなどが障害になり、医学的にこうだ、あれがいいらしい、みんなそうしている、というのも妨げになりそうです。そうではなくて、小賢しいことを考えずに、ごく自然に、自療をおこなうのが望ましいと考えています。

2015年6月20日土曜日

治療その2

 矢野忠先生の最近のレポートによれば、鍼灸の受療率は低下しているそうです。学校がふえて、生徒がふえて、資格所有者がふえているのに、世間のニーズは落ちているようです。

 単純にいえば、鍼灸は世間に期待されていないのだとおもいます。それは鍼灸のせいではなく、鍼灸師の責任です。

 ラーメン業界は、作り手の力で、期待される業界になりました。かつては、ほうれんそう、なると、シナチクをトッピングして、ほそぼそと生きつないでいました。今から40年ほど前の話です。この40年間で、変貌をとげました。ラーメンが変貌したばかりではなく、世間の評価も大いに高まりました。それは、作り手が、おいしさをもとめて工夫し、店舗をきれいにし、魅力的な業種に仕立てたからです。

 美容業界もがんばっています。美容師は、いまや先生とよばれるほどに、世間の評価も高まっています。むかしは、パーマ屋さんといって、パーマをかけるでしたが、現在は、女性の美を担う大切な仕事になりましたから、先生とよばれて当然かもしれません。おなじく、美を追究し、店舗をきれいにし、魅力的な業種に仕立て上げたゆえです。

 ところが、鍼灸業界は、旧態然として、目がさめるようなことを何もしていませんから、閉塞感が漂い、それが社会の興味を惹起できない状態にいます。

 なにが旧態然かといえば、専門用語です。日本語化されていないので、世間にアピールできないところが壁になっていると思います。ここで取り上げた治療ということばも、自分たちの目線で、独善的な思いこみで使っています。もうすこし、患者さん目線で、わかりやすく説明し、理解して貰わない、鍼灸の普及にはならないし、世間のニーズも高まらないとおもいます。

 きのうも、臨床実習で、「膀胱経が~~」と生徒にいったら、患者さんに「私、膀胱が悪いんですか?」と質問されました。誤解しやすい、わかりにくい、こういう状況は、早く解消したいところです。

 以上のような意味で、治療を自療と他療に分けて、もともと鍼灸がもっていた自療という治療法を取り戻さねばと思います。そのうえで社会にアピールし、その延長線上に養生をすえるならば、鍼灸医学の役割はとても大きなものではないでしょうか。

 現代医学に歩調を合わせながらも、同時並行的に独自性を確立する活動をしなければ、鍼灸はおいおい消滅するような気がします。

2015年6月15日月曜日

治療ということば

 治療ということばは、自療と他療に分けることができる。
 他療とは、他人による治療ということで、私たちが治療といっている行為である。
 自療とは、自分による治療ということで、たとえば自宅施灸(これを自灸という)はその典型で、湯治、食治なども自療に属す。江戸時代の矢野白成先生は、患者さんに自分で鍼治療するように進めていて、これは自鍼といえる。自療には養生も含まれる。

 つまり、昔は、自療の余地がたくさんあったのを、現代の医療は自療を奪って、他療だけにしてしまったのである。鍼灸といえども、例外ではなく、同罪である。自分も、同罪である。

 現在は、マッサージは他療であるが、むかしは白隠禅師が提唱したひとりあん摩のように、自療の部分もあったのである。いつのまにか、他療だけになってしまって、他療なしではマッサージはできないと固定されてしまった。調子が悪ければ病院、なんでもかんでも病院というのは、その延長線上にある。

 誰かにやってもらう。食事も誰かに作ってもらう。何でも誰かにやってもらう。これは、現代日本の大きな風潮であるから、治療を誰かに委ねるという傾向はどんどん進むでしょう。これは、きっと、頭のいい人が、産業を作り出すために仕組んだもので、大衆はまんまとわなにはまったのである。誰かにやってもらえば、お金がかかる。お金を吸い上げるシステムを、頭のいい人が造ったのだとおもう。

 しかし、人の健康を、商売のタネにしてもらっては、困る。自分の健康は、自分で確保する、そういう風に意識改革する運動をはじめませんか、鍼灸師のみなさん。

 本来の姿を失い、健康産業に堕した鍼灸を憂う。
 
 自分の健康は自分で確保する(つまり養生ですが)、そのコツが『素問』上古天真論篇に書いてあります。自療こそが、本当の治療で、本人を解放し、自由にする最善のものです。みなさんも、自療について考えてみてはいかがでしょうか。
 
 


2015年6月1日月曜日

5月31日丹塾古典部

 5月31日の丹塾古典部は、午前は後藤艮山の「師説筆記」、午後は「平人・病人」を読みました。参加されなかった人のために、報告しましょう。

 というのは、4月に気がついたのです。発見したのです。上古天真論は、養生を書い「てあるのですが、患者さん向けではなく、治療家むけに書いてあるのだ、と。「そーだったのか。」

 このことがわかって、とてもすがすがしくなりました。やっと、今まで学んできたことがつながりました。夢分流も、後藤流も、宮脇流も。そして養生の位置づけも。というわけで、自分の中では、今まで最も納得した丹塾古典部ではないかと思っています。何かの都合があって参加できなかった人は残念でした。このブログで、そのさわりを伝えましょう。

 なぜわかったかというと、4月は『呂氏春秋』を読んでいたからです。上古天真論篇をよむ迷いが消えました。たとえば先己篇に、湯王が伊尹に天下を取る方法を質問し、伊尹は「まず自分自身をお治めになることです」(およそ事の本は、必ず先ず身を治めよ。)と答えています。政治にしろ、治療家にしろ、まずは自分自身を治めるべきということで、そのためには養生をして、心を治め、体を治めるべきだ。というようなことが書いてあります。その方法が、上古天真論篇に書いてあるわけです。

 まえに、森共之先生が、脈診と腹診のコツが晩年にわかったと書きました。「医者の手指と病人の皮膚と、相忘れて、しかるのち吉凶死生を診得すべし」と。共之先生に及ばないながら、うれしいものです。かくして、「恬憺虚無なれば、真気これに従う」も、ようやっと合点しました。

 

2015年5月25日月曜日

お灸のイロイロ

 昨日は、全日本鍼灸学会のランチョンセミナーで「お灸のイロイロ」を講演してきました。200名くらいの参加で、見知った人も大部いました。見知った人がいると、やりにくいのです。なぜやりにくいかというと、以前に同じような話をきいた人がいて、ネタがばれているからです。落語や漫才とおなじように、おなじネタでも聞かせる、そのような話芸があれば別なのですが。

 ランチョンセミナーは、自分の空腹をガマンして、美味しそうに食べている人の前で講演するので、少しばかり悔しいもので、出来るならば避けたい状況なのですが、「おきゅうのふきゅう」を考えれば、イヤがっている場合ではありません。

 お灸が生き延びた理由は、時代の要請を受けて、大艾炷から小艾炷へ、烈灸から温灸へと、自在に対応できたところにあります。その生き延びたお灸は、日本の鍼灸のおおきな特色なのですから、積極的に活用していきたいところです。「世界文化遺産」にも値すると思います。鍼灸のみなさんは、そこに気がついていない、のが残念なのです。第2の世界文化遺産候補の「養生」とあわせて、「養生灸」の復活なども、今後の課題でもあります。

 

 

2015年5月11日月曜日

厩やけたり

厩舎が火事になった。孔子が、朝廷から戻ってきて、「けが人はいなかったか」とお聞きになり、馬のことは尋ねませんでした。

という話が、『論語』郷党篇にある。このエピソード自体、教訓めいたところがなく、『論語』に採録された意味も不明である。

 朱子は、けが人を心配していたから、すぐさま質問したのだ、という。人は、迷いがあると、ためらいがあり、ためらいがあるとタイムラグが生まれる。すぐさま質問したのだから、迷いはなく、ためらいが無かったといえる。間髪を入れない生き方の教訓として、この事柄が掲載されたのだと思います。

 何かを判断したとき、即断即決したときは迷いがなく、とても良い判断ができるものですが、時間がかかるほど後悔するような判断になるようです。なぜ、後悔するのかといえば、判断に迷ったときは、自分に有利な判断をしてしまうからだそうです。欲をかいて、よこしまなこころを起こしてしまいますから、悪い結果になるか、悔いが残ることになるのだそうです。

 「ぼくは、老人には安心してもらい、友達には信頼があり、子供にはなついてもらいたい。」というのは孔子の夢です(、『論語』公冶長篇)。共通するのは、孔子と、老人と、友達と、子供との間に、へだてが無いと言うことです。人なつっこく子供達が寄ってくる孔子を思い浮かべると、渾然と一体になっているほほえましい情景が浮かんできます。

 時間に隔てがない即断即決、、隔てのない人付き合い、さらに天道さんとも隔てがない、つまり「隔てなし」こそが、孔子が目指したことなのではないでしょうか。道徳だとか、孝ていだとか、忠恕だとか、そういうのは「隔てがない」ことの延長線上に存在するのだとすれば、実にすっきりします。

 


 

2015年4月29日水曜日

有楽井戸

 有楽井戸とは、織田有楽斎が所持していた井戸茶碗のことで、東京国立博物館に所蔵されています。10年くらい前に、一度見たきりで、その後、何度か同館に行ってますが、見ることができませんでした。


 4月25日、26日は、大阪で日本医史学会があり、参加してきました。もらったパンフレットに大阪市立東洋陶磁美術館があったので、行ってきました。そしたら、有楽井戸が展示されていたのです。なんと。うれしかったですね。ご自宅に行ってもなかなか会えないのに、お友達の家に行ったら偶然お会いしたようなもので、「おお、ここに居たんですか」と思わず、声を出してしまいました。


 同館で有名なのは、国宝の油滴天目、重文の木の葉天目で、「はっ」と目を奪われました。ついでに、心も奪われました。究極の美術ではないでしょうか。制作者の美を備えた目、というか技量には、敬服するほかありません。よくぞ、作ったものだ。これを、大切に保存してきた、日本人にも敬服します。なくさず、壊さず、きれいなままで、何百年も伝えてきたのです。作るひとと、伝えるひとがいなければ、あの場に無かったわけで、そう思うと感動が深まりました。


 写真集も買ってきましたが、実物とはまったく異なるものでした。真(本当)を写すというけど、写していません。裸の女性の写真と、裸の女性が目の前にいるのとの違いでしょうか。今回は、ガラス越しに見ただけなので、目の前にあり、そして手で触れてみたい。以前のブログの、柳宗悦が喜左右衛門井戸とご対面した文章を思い出しました。


 医史学会は、発表は誌上発表になり、仕事は座長だけした。座長だけで大阪までいくなんて、時間とお金の無駄みたいだが、ぼくはそうは思わない。役に立つことばかり選んでも、役に立たないこともあるし、有利だとおもったけど、不利になることもあり、そう簡単にはいかないのが世の中ではないでしょうか。


 誰しもが金持ちになるべく、行く道を選択しているのでしょうけど、ほとんどの人は金持ちになれていない。そうすると、金持ちの道を選ぶよりも、好きな道を選んだ方が良いのではないでしょうか。(こう言ったのは、孔子なのです)。


 学会に行って役立つのか、損なのか得なのか、そういう受け身の選択は、あまり面白くない。美味、美食を追い求めなくとも、美味、美食はむこうからやってくる。そのことを、つくづく知ったのが、今回の医史学会でした。医史学会は、すばらしい。

2015年4月13日月曜日

羽柴秀吉氏没す

 今日の東京新聞夕刊に、青森県五所川原市在住の三上誠三さんが、肝硬変で、65歳で亡くなったと報じられていました。

 三上誠三さんでは知らないでしょうが、羽柴秀吉の名前で、全国、あちこちで立候補した人と言えば、思い出すでしょう。東京都知事選にもでましたし、大阪府知事選にも出たそうです。夕張市長選では、接戦を演じたそうです。一回も当選しなかったようです。

 選挙に立候補することが目的で、当選も落選も眼中にはなかったのでしょう。それにしても、負け続けの人生は、立派なものです。三上さんの人生で、実業の面では勝っていたのでしょうから、負けと勝ちとが、彬彬だったのだと思います。ほどほどに勝つのでもなく、ほどほどに負けるのでもなく、勝って、負けて、両方を抱えていた、そのところに三上さんに大人の風があったのではないだろうか思うのであります。

 一昨日、『論語』を読んでいて、文質彬彬に触れ、偶然にも三上誠三さんの訃報に接し、以上のような所感を得たのであります。文質彬彬こそが中庸なり。


 

2015年4月6日月曜日

尺中弱し

 少林武術学校の生徒さんの尺中(強し)が標準だとすれば、たいがいの人は尺中弱しということになる。尺中が両腎に相当するとみなせば、補腎の治療で、大谿や復溜を使う機会がぐんと増えてくる。中国の張志傑先生は大谿をよく使い、福岡の馬場白光先生は復溜をよく使っていました(著書に書いてありました)。

 江戸時代の腹治家(腹部だけの治療をする流派。無分流など)で共通するのは、なんといっても気海穴の重視である。鍼治療としては、『難経』をルーツとするのだが、房中と関連するとなればさらにさかのぼり、馬王堆医書、張家山医書にたどり着く。

 前漢時代よりさらに前。戦国時代から現在まで、ぶれないでいるのは、腎を重視することかも知れない。医論、医説、多岐にわたり、華やかなりしも、核心になるところは、このあたりではないでしょうか。

 3月の北京研修では、北京の張志傑先生の治療を受けてきました。大谿を重んずる老中医です。治療を受けながら、大谿とはなんぞやと考えて、上記のような結論にいたりました。

 せっかくですから、腹治を専門にする人・腹治をメインにする人著書を紹介しておきます。今まで、読んだものだけですが。

  奥田意伯『鍼道秘訣集』、矢野白成『鍼治枢要』
  森共之『意中玄奥』、宮脇仲策『鍼学発もう訓』
  

 

2015年4月2日木曜日

尺中強し

 北京研修の最終日に、少林武術学校の見学に行きました。そこでは、学生の模範演技をみせていただきました。演技をしてくれた学生は、選抜された優秀な学生ということでした。

 模範演技がおわった後に、その学生たちと会話する機会を得ました。学生達はほぼ20代でした。職業柄、体に触れたくなったので、許可をもらいました。5~6人に対して、手足の触診と脈診をしました。

 筋肉が柔らかで張りがあるのは予想通りでした。

 脈診で驚きました。全員、寸口が弱く、関上が中ぐらいで、尺中が強いという状態で、まさに上虚下実でした。たんなるスポーツ選手とは違って、丹田を鍛えながら、拳法を修得したのだと思います。

 尺中が、あのように強いのは、始めての経験です。さらに、あのように強いのが、理想の状態なのだと納得しました。あのように強いとは、太くて弾力がある強さです。これ以上は形容できないので、忘れないうちに東急ハンズにいって、同じような触感のモノを探してきます。薬指の記憶が消去しないうちに。

 今回の北京研修の最大の収穫は「尺中強し」でした。

 

2015年4月1日水曜日

反って其の快きを覚ゆ

「相忘る」の森共之先生のほかに、同じようなことを仰っている先生がいる。矢野白成先生で、その著『鍼治枢要』(1697刊)で、次のように言っている。

 凡そ学者、修練、精密、心を用いること、久しきときは、心に発し、手に応じ、手に得て、心に応ず。是において、心手合一、体用不二、内外・本末の分無し。思わずして中り、無為にして成る。真理を識得し、既に妙処に至るものなりと謂いつべし。その真に契(あ)うこと此のごとくときは、其の徳、腹内に通徹して跡無し。其の手久しく腹上に措(お)いて倦(や)まず。病者も亦た厭うこと無し。反って其の快きを覚ゆ。是れ乃ち心業と称する所以なり。

 心の修行をして、覚ったことを、「心に発し」という。その状態で触診をすれば、手にも応じ、心と手と一体になる。何を覚ったかというと、体用は一源で、間(へだて)が無いということ(体は心で、用は体)。または、人心と天地の心とが共に一理であることで、これまた間(へだて)が無いこと。
 
 心と手が一体になった状態で、腹診をすれば、腹内をよく通知し、長く腹診をしても疲れず、病者も嫌がることもなく、反対に気持ちよく感じる。これを心業というのである。

 鍼術は心術であり、鍼に効能があるのは心徳だからという。

 間(へだて)が無いとは、分(わけへだて)が無いことで、「無分」とおなじ。心と体が一体になり、診者と病者が一体になり、「相忘る」ことが、この道のゴールのようである。

 

2015年3月16日月曜日

あい忘る(2)

 

 2月9日のブログで、

 森共之編の『意仲玄奥』は、御園意斎(1557~1616)に師事した森家の秘伝書である。意斎には、初代の宗純と、その次男の仲和が師事しているが、とくに仲和は子供の時から師事していて、上工のほまれ高かったようである。その孫が共之で、仲和の弟子の大槻泰庵のノートを元に、自流について整備した秘伝書である。

 と書き、次の文章を、引き合いにだしました。

 「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所なり」「医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」
 この森家の四代目の森共之16701746先生は、実は『老子』の研究家だったようです。

 共之先生が講述したものの記録『老子経国字解』が、内藤記念くすり博物館に所蔵されています。明治二十三年の写本ですから、原本ではありません。

 そこには、「予、三十六歳の時、始て之を読む。文義をば弁せざるといえども、一向に好み読む。先生に就き、講説を聴き、それより六十余歳、憶誦すること一万遍。自然に通暁すること有るがごとし」とありました。

 『老子』を愛読し、鍼医をしていたことになります。つまり、森家に伝わる鍼術を理解するためには、『老子』が欠かせないと思っていたのにちがいありません。『老子』を読んで、臨床家としての宿題「相忘る」を生涯の課題とし、晩年になって「相忘る」の境地に達したということです。

 長年の臨床のすえに結果として「相忘る」に至ったのだと考えていましたが、そうではなく、課題として取り組みつつ「相忘る」に到達したのである。おそれいります。

 『意中玄奥』に「此の書、軽易に見了するべからず。只だ、意を用いて翫味せんことを要す」とあり、精読すべきことをいう。共之先生の『老子』に対する心構えとおなじい。

 『老子』から推測されることは、夢分流は、『老子』あるいは老荘思想ととても近しい医術であること。この基本がわからないと、いかに鍼術に長けていたとしても、未成、未明におわるのでないでしょうか。江戸時代の初期に大いに流行した夢分流が衰退した理由は、この当たりにあるのかも知れません。

 もし、夢分流を、現代に復活させるならば、『老子』『荘子』は必読書にしなけれならない。そこが欠けては、夢分流の復活は、成らぬのではないだろうか。






2015年3月2日月曜日

新内小唄(丹澤先生)

 昨日(3月1日)は、丹澤章八先生の、新内小唄の発表会に行きました。80代からの挑戦のようです。

 丹澤先生のみどころは、興味津津力と、その行動力である。興味がわいてきたときは、年齢とか、体調とかを忘れて、猪突猛進してしまうのだ。その壁の無さを、学んでいる。

 学問の方向性とか、生き方とか、おそらく違う道の先生なのだろうけど、その壁の無さを、ありがたく学ばせてもらっている。それだけでも余り有る。

 
 医師であり、成城学園在住であり、見た目、品性、知性、その個性と、面する者は劣等感が生まれ、尻込みし、距離を置くようになる。しかし、学ぶということにおいて、医師であることも、成城学園在住であることも、見た目も、なにも関係ない。そのなにも関係ないところを気にするので、みなさんは丹澤先生は近寄りがたいと言う。けど、「壁の無さ」を学ぶに、これほど良い先生はいないでしょう。

 「鈴木大拙全集」を持っている。これだけでも、なみなみならぬ人物であることは了知すべきである。不学のゆえに、有学者と一線を画するのではなく、有学者と和して、その薫風に浴するのも、ひとつのしあわせなのであります。

 丹澤先生をみていると、育ちの違いを感じます。それは、丹澤先生が造りだしているのではなく、自然に出てくるものでしょう。つまり、作為ではない、自然のオーラなんですが、人によっては、近づきがたいかも知れません。成金のオーラも近づき難いのですが、それは人為的な、不自然なオーラです。自然のオーラに対しては、こちら側が不自然にならなければ、つまりこちら側が作為をもたなければいいのです。こういうことを、「自然法爾」というのであろう。「鈴木大拙全集」にも書いてあったそ。
 

2015年2月14日土曜日

鈴木大拙全集

 2月9日(月)、丹澤先生より、鈴木大拙全集40巻をいただいた。古書店に話したら、全部で500円と言われたそうだ。それならばとて、小生にお宝が廻ってきた。古書店、さまさまである。

 東洋医学が、東洋思想を背景とするならば、鍼灸学校の図書館に架蔵されるべきである、至高の全集である。吉川幸次郎全集も欲しい。鍼灸大学にはあるのかな。(鈴木大拙については、ウイキペデイアで調べてください。)

 さて、その40巻、どの順番で読もうか。作戦がきまらないまま、適当に取ったのが第26巻。さっそく、目次から、「東洋が西洋に教へるもの」を選ぶ。昭和34年の、電力中央研究所における講演録だそうである。

 東洋的境地というものが、「漢民族の文化が高潮に達した唐に出て来た。その後は北方から野蛮な人々が入って来て、漢民族を圧迫してしまったので、純粋の漢民族の文化としては、唐時代に於て最も現われているのであります。」

 中国医学の歴史も、もう一度、問い直す必要があろう。いま、中医学の根幹をなすのは、その野蛮な人々たちが形成した鍼灸医学なのである。それが悪いというのではなく、唐の医学と、雲泥の差があるかも知れない。おなじ延長線上にあると思っているのを、もう一度見直す必要があるかもしれない。

 というように、すぐに感化されるのである。目からウロコが落ちるのである。書院に架蔵しておくので、読んでみたい人は、お貸しします。完食せずも、短編のつまみ食いでも美味しいですよ。


 

 

2015年2月9日月曜日

あい忘る

 森共之編の『意仲玄奥』は、御園意斎(1557~1616)に師事した森家の秘伝書である。意斎には、初代の宗純と、その次男の仲和が師事しているが、とくに仲和は子供の時から師事していて、上工のほまれ高かったようである。その孫が共之で、仲和の弟子の大槻泰庵のノートを元に、自流について整備した秘伝書である。

 その中に、共之のメモとして、「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所なり」、と但し書きした上で、「医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」と書いている。

 このようなお言葉には、いろいろ古典を読んでいるが、遭遇したことがない。秘伝書ならではの、ちいさなメモである。大言壮語するわけではなく、日常の何でもないことばを、次の世代に伝えようとする、真摯な心持ちがよく現れている。

 長年の修行の上に、「相忘」の境地に達したという。『荘子』の「坐忘」「木鶏」を思う。診察せねば、診察せねば、という気持ちがすり減っていって、ごく自然に病気の核心をつかみとっている、そんな姿を想起する、今世紀至高の明言ではないでしょうか。

 「相」とは、医者と病人の双方、どちらも。「忘」とは、亡に通じ、無になること。医者は診察しようという気持ちを忘れ、身体の情報が自然に拾えること。病人は、診察されていることを意識しないこと。自然に、流れるように、なめらかに、有るようで、無いようで、そして自然に治療する。「相忘る」とは、なんと思いが深いことばではないでしょうか。

 みなさん、本は高いとか、古典は読まないとか、あれこれ言うけど、このような至言に巡り会った時のよろこびは、まさに千金に値します。本でも、古典でも無くても良いのですが、ぼくの場合は本であり、古典なのであります。

 

2015年2月1日日曜日

岩国(その2)

  小曽戸先生の『新版 漢方の歴史』の177ページに、
「独立性易(しょうえき・15961673)は、渡来中国人として江戸時代の医界に最も強い影響を与えた人物である。・・・・医術のほかに書画・詩文・篆刻にも長じ世に聞こえた。痘科に秀で、岩国で池田正直にその術を伝授。」
  とある。今回は、その舞台に行ったということになる。

 藩主の吉川広嘉が、病気治療のために、長崎から独立を呼び寄せて、その時に医学も広めたようである。広嘉は、この時、岩国城の前を流れる錦川の架橋に悩んでいたところ、独立にみせたもらった『西湖遊覧志』に、杭州の西湖に島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをヒントに5連の錦帯橋ができたと言われている。意外にも、東洋医学と錦帯橋は、つながっていたのでした。

 錦帯橋の弓形の橋を拱橋(きょうきょう)というらしいが、錦帯橋は五連の拱橋で構成されていて、「五橋」とも言われている。同名のお酒もあり、これは県外には出していない、地元限定のお酒だそう。

 木造で、巻金(まきがね)、鎹(かすがい)で補強し、釘などの金属で固定した、世界に類例のない貴重な橋のようです。その巻金、釘は、薬師寺や法隆寺の釘などを作っている鍛冶屋さんにお願いし、木材はすべて国産だそうです。

 今回、かろうじて、材料がそろい、人物もそろい、技術もそろったが、次の架け替えのときには、いずれも揃わないだろうと言われている。

 鍼灸の、材料、人物、技術を考えれば、鍼灸を受け継ぐことは、まあ安泰というところか。ただし、古い技術は、だんだん廃れそうである。打膿灸、、切り艾、九鍼。しまいにゃ、パイオで間に合い、台座灸で済むようになったら、すごいことになるかもしれない。いいのか、悪いのか・・・

 ところで、『漢方の歴史』は、1700円+税のところ、1500円(送料別)でおわけします。また、近著の『鍼灸の歴史』は、1800円+税のところ、1600円(送料別)でおわけします。希望者は、miyakawakouya@gmail.com に連絡してください。

2015年1月28日水曜日

岩国(その1)

 1月25日(日)は、岩国泊。元祖岩国寿司本店の三原屋さんに泊まりました。素泊まりで、四畳半5000円弱。90年前に建ったという。90年前の高級和風旅館です。四畳半とはいえ、柱と言い、小窓といい、よい作りでした。四畳半というのも、今や無いセッテイングです。

 ちなみに、京都のホワイトホテルも穴場です。京都駅に近くて、5000円くらいで泊まれます。学生だと2000円台のプランもあるようです。そのかわり、布団は自分で敷くのですが。
 

 お風呂は、なんと鉄製でした。深さ70センチ、幅80センチ、奥行き60センチくらいの、立派なお風呂でした。こちらは90年経っても、ゆるぎない存在感がありました。鉄製のお風呂は、50年前に、父方の実家の五右衛門風呂以来です。世の中、どんな経験が待っているか、楽しみでもあります。

 岩国寿司というのは押し寿司です。長崎にも大村寿司というのがあります。ちらし寿司を押したようなものです。三原屋さんがその元祖らしい。6代目の戸崎政男さんが勲章をもらったようで、立派な賞状がかかっていました。りりしいお姿の写真も。おそらく「とざきまさお」さんでしょうけど、どこかで聞いたような名前でした。

 日本三景松島の出身なので、観光産業がちと気になります。どこでも昔ながらのおみやげやさんは斜陽のようです。新しい工夫が必要なのかも知れません。若い人とバトンタッチして、新しい風をいれないと、昔ながらのおみやげ屋さんは無くなっていくのかも知れません。鍼灸は、山口県でも、若い人ががんばっているようで、たのもしい限りです。右から、左から、上から、下から、風が吹いて、風通しがよくなるのが、望ましい方向かも知れません。

 

 

2015年1月19日月曜日

錦帯橋

 あこがれの錦帯橋。小学校か、中学校の、社会科の教科書でみて以来ですから、40年か、それ以上の念願が、ようやく叶いそうです。実は、こどものころは建築家になりたかったのですが、赤緑色弱ゆえに、理工系に進学するのは不適応らしくて、断念しました。本当はどうなのか知りませんが。なので、建造物をみると、無性に、眺めたくなり、覗きたくなり、触りたくなります。特に、木や石は、触りまくります。錦帯橋、たのしみです。

 そのまえに、「講演会」というハードルがあります。山口県鍼灸師会の要請で、1月25日に岩国市中央公民館で、『温灸読本』を題材にして「シンプルな鍼灸法」という講演をします。

 後藤艮山先生がめざした「古方の鍼灸法」を考えてみたいと思います。古方とは、あとで加えられた陰陽五行説とか運気説とかを取り除いた初期の鍼灸法を指します。主な題材は、出土医書で、張家山の『引書』と『脈書』です。古方を唱えたのは、江戸時代の名古屋玄医、後藤艮山らです。この古方派は、灸法を重視し、刺絡を大いに活用しています。島田先生から教わった治療の枠組みは、実は古方だということに、最近きづきました。そういう意味でも、古方ということを明らかにしたいと思っています。

 

2015年1月5日月曜日

京都(その5)

 京都仏眼の最初の話は「文質彬彬」でした(記憶では)。文は、彩で、飾り気、いろどり。質は、質素、素朴で、飾り気の無さ。彬彬は、半々。君子(目指す人物)は、飾りの部分、飾らない部分、相反する要素を両方持ち合わせるべきだ(孔子の言)。いいかえれば、清濁併せのむ、繊細にして豪快。

 京都は、文の町で、粗野なところが無いような気がします。田舎の大名は、京都に来て、びっくりしたんでしょうね。その勢いで、京都を地元に再現しようと、桃山式の神社仏閣を造ったのでしょう。
銀座にあこがれた「~~銀座」があちこちにあるのと同じ理屈です。そういえば、銀座も文ですね。

 鍼灸の話題にうつせば、文は理論で、質は技術でしょうか。理論が多ければ、いろどりに富み、華々しい。質が多ければ、地味で、目立たない。いままでの鍼灸は、地味だったけど、今後は華々しさがほしいところ。そういう理由で、中医学に期待するところが大きい。また、古典の役割も大きい。ただ、やはり半々なので、文が過剰にならないように。
 

 こうしてみると、日本伝統鍼灸学会という団体は、本拠地を京都において、学術大会は京都で開催して、文を補強すべきと思う。たんに学問を積み上げるのではなく、文とはどういうものなのか、目で見て、口で味わい、皮膚で感じ、その上で、鍼灸の理論を補強すべきだ、と強く思った次第。

 かくして、今回の京都の講演は、機会を与えていただいた小林先生に、深く感謝するしだいであります。