2024年4月26日金曜日

お灸の学校9

  毎年恒例の「お灸の学校」を、杉山神社本殿でおこないます、5月5日・6日、両日を担当します。学生さんから、いろいろ話しを聞いてみると、学校の授業では、透熱灸は一生懸命やるけど、温灸類はほとんどやっていないらしい。ということで、温灸の講座を二日間でやります。オンラインはなく、対面だけです。「灸法臨床研究会」のHPをごらんください。

 ついでに、医学古典に基づく鍼灸臨床シリーズの先頭として「『内経』は面白い-臨床の謎が解けていく」を、5月26日に、オンラインはなく、対面でやります。場所は、新宿区江戸川橋です。「日本伝統医学総合研究所」のHPをごらんください。

 どちらの会場も広くないので、興味があったらお早めにお申し込みください。

 

2024年4月25日木曜日

上方落語入門者低調

 桂吉弥さんのインタビュー記事で、上方落語の入門者が昨年度は2名、その前も2名だったそう。コロナを境に潮目が変わったという。

 鍼灸専門学校も、入学者激減、夜間部を廃止したという話を聞くから、この業界も潮目が変わっているらしい。学校も、いままで通りのことをこなしているだけでは、先細りになるのだから、入学希望者を増やすことを考えればならない。

 人口戦略会議は、消滅可能自治体として774の自治体名を発表した。それは、20歳~39歳の若年女性人口における減少率が高い自治体、である。この年齢は、落語入門者、鍼灸学校入学希望者と同じである。

 要するに、20歳~39歳が、やってみたい、面白そう、楽しそう、と思えるような学校、あるいは業界にすれば、先は明るそう。これはおじさんが考えてもダメで、20歳~39歳の人に考えてもらうのが良いのではないでしょうか。



2024年4月22日月曜日

雪舟展

  4月20日、小曽戸洋先生の講演を聞きに行きました(大阪)。国宝級の医学古典の展示もありましたので、眼の保養もしてきました。家にこもってばかりだと、心がこもってしまうので、養心のために出かけました。

 翌日は雨模様だったので、京都博物館に眼の保養に行ってきました。雪舟展でした。国宝「慧可断臂図」に出会えたのが、収穫でした。

 しかし、雪舟ばっかりみていると、あまり浮き浮きしない。どうも、自分は、絵画が好きでないらしい。ミュージアムショップの陶器の絵はがきは見飽きなかったから、あるいは城の石垣が好きだから、どうも、鉱物系が好きなのかも知れない。


2024年4月4日木曜日

「モナリザ」は高脂血症

  視覚を用いた診察を視診という。視覚を用いた診察に望診というのもある。少し離れて、ボーと見るので望診といいます。じっと視ようとしたら、みえてこないこともあるのです。

 昔は、『芸術新潮』を購読していました。なぜか、1999年9月号1冊だけ残っていて、その中に「ドクター・シノダの人物画診断」がという連載記事がありました。ダビンチの「モナリザ」、その左目と鼻すじの間にいぼのようなものがあり、それは高脂血症から生じた黄色腫であると言っています。絵画も、医学的にみることができる、という面白さがあります。それをまとめたのが篠田達明著『モナリザは高脂血症だった』(新潮新書)で、このたび買いました。

 レンブラントの「バテシバ」の女性モデルは、左腋下に窪みがあるので乳がん。豊臣秀吉は、多指症で、高台寺蔵「秀吉像」は、手を異常に小さく書かれているのは、目立たないようにしているから。「まいまいつぶろ」の9代将軍徳川家重の肖像もあり、アテトーゼ型の脳性麻痺だそう。

 など、合計29枚の肖像画の視診が記録されています。こういうことを中国医学からも展開したら、おもしろそう。

公冶長

 『論語』公冶長篇に、公冶長という若者が登場し、鳥の会話がわかる者らしい。鳥が「あそこに死者がいる」と話ししているのを聞いて、交番に死者がいることを届けたら、死者の発見者=殺人者と見なされて投獄されるが、孔子は冤罪だと看破し(この若者の素性を知っていたのでしょう)、ついには自分の娘を公冶長の嫁にした。

 患者さんに借りて『まいまいつぶろ』(幻冬舎)を読んでいたら、第九代将軍家重の小姓(身の周りの雑用を務める役)の大岡忠光も鳥の会話がわかると書いてあった。

「鳥は、人が思いもよらぬことを鳴き交わしております。もうすぐ風が強まる。雨雲が近づいている。危ないゆえ離れよと、互いに知らせ合うております」

 聴覚を使った診察に、聴診(意識的に聴こうとする)、聞診(意識的に聴こうとしないで、自然に聞こえてくる)がある(そもそも聴診と聞診は異なるもの)。このほかに、公冶長や忠光のような、超人的な診察をしている人がいるかも知れない。



2024年4月3日水曜日

進級(テニス)

  習っているテニス、68歳の誕生日直前に、一番上のクラスに進級しました。この年になっても、成長するもんですね。(われながら恐ろしい)

「養心のすすめ」を書いて、養心を心がけているものの、養形(身体を鍛えること)もおこたらず。そして、ある程度、享楽もしています。型にはまらない養生というのもあるのです。貝原益軒『養生訓』は、他者養生と自己養生(養心・養形・順天)を組み合わせています。

 


2024年3月21日木曜日

夢(空想)

  短い夢だと、今度、来年、10年後。中ぐらいの夢だと、老いるまで。その次は、死ぬまで。その次は、来世にも続く。

 中ぐらいの夢で、家庭を持ち、家を建て、自動車を買えば、老後の夢がなくなってしまう。燃え尽きてしまう。しかたないから次の夢を、孫に託したり、ペットに託したり。

 そういう意味で、不老不死という夢は死ぬまで続き、天寿を全うしたいという夢も死ぬまで続くから、なかなか良い夢である。

 来世に続くという夢とは、永遠と生き続ける転生、極楽浄土、子孫を見まもる霊となりたいなどは、さらに良い夢である。

 たとえば「来週は遠足だ」「再来週はデートだ」というのも、実現するとは限らないから、夢である。夢は、達成するその日までは幸福感一杯なのである。多少、いやなことがあっても、幸福感一杯である。

 それが死ぬまで続き、さらにその先まで続くとしたら、転生する、極楽浄土に行く、子孫を見まもるという夢は、幸福感に満たされた人生となるのである。すばらしい。

 来世につながる夢をもった人は、目がキラキラしているんでしょうね。

 

2024年3月18日月曜日

『老子』第20章

 『老子』第20章は「わたしは愚かものの心の持ち主、のろのろと間がぬけている。道を知ろうとしない世間の人々は、はきはきと知恵がよくまわるのに引き替え、わたしだけはどんより暗くよどんでいるかのようだ。世間の人々はてきぱきと敏腕を振るうのに対して、わたしだけはもたもたしている」とある。いじけた人物の、いじけたさまの羅列で、なぜ『老子』にあるのか解らないでいたが、冒頭の「学を絶つ」がキーワードで、学を絶つとは人為を絶つことで、つまり無為のことを言っている。いじけた人物は、無為であり、自然であり、実は楽しんで、愉快なのである。ああ、いじけた人物、いじけたさまと見た自分がうらめしい。

 

2024年3月17日日曜日

澤木興道全集第二巻

 澤木興道(1880~1965)は、曹洞宗の僧侶。定住の寺を持たなかったので「宿なし興道」と呼ばれたらしい。まさに行雲流水を実践したひと。

『全集』は全18巻で、別巻1冊。その第2巻が「禅談」で、講話を文字に起こしたもの(なぜか第2巻だけが家にある)。宗教的談話を、文字に起こす人はよほどの教養の持ち主である。澤木の話は、仏教くさくなく、たとえ話しが豊富で、とても面白い。

 この中に「少欲と知足」という章がある。お釈迦さまの最後の説法をおさめる『遺教経』が出処という。『老子』にも、十九章に「寡欲」、三十三章・四十四章に「知足」とあり、仏教と道家は、この辺りで通じていると思われる。ちなみに、得る前の欲を戒めたのが「少欲」で、得た後の欲を戒めたのが「知足」という。


2024年3月5日火曜日

嚢胞症その4

 上は2月初めの写真、下は3月2日の写真。ほぼ治りました。12月から、ぬか床汁をのみはじめて、3か月でこのような状況です。

 のむ回数を増やせば、もっと早く治ったかと思います。ぬか床汁が貯まったら飲んでましたが、どんどん生産して飲めばよかったかも知れません。どんどん生産すると、ぬか漬けをたくさん食べなければなりませんから、そのあたりが壁になります。治すために、ぬか漬けを捨てればよいのですが・・・


 

2024年3月3日日曜日

養心の証明

  昨年秋に出した『養心のすすめ』では、心を空っぽにすれば、健康を維持し、長寿を達成することができる、と説きました。今年からは、その証明の生活に入ります。そうでなければ、おおほらふき、と言われるでしょう。

 若い時から心を空っぽにすれば、100歳まで到達することができますが、今頃になっては、すでに遅し。それでもこれから努力すれば、80歳、90歳ぐらいは到達することができるはずです。

 というわけで、仕事量を減らす、我慢をしない、気を使わない、ということをコツコツ続けていこうかと思っています。丹塾古典部を閉じたのは、その一環です。昨年は、ほぼ毎週、講座か、講演をしていました(オンライン・対面)。その結果、掌蹠膿疱症になったのですから、そんな無茶はやめて、「養心」につとめることにしました。

 『老子』63章に「軽々しく諾するは、必ず信寡なし」(軽々しく安請け合いする者は、必ず信実に乏しいものである)とある。かつては「ためらいなく」請け合うのが『老子』的だと思っていたけど、いまは63章のいう通りだと思っている。養心のために、講演は安請け合いしない方針である。

 

 

丹塾古典部閉じる

  2011年9月から始めた丹塾古典部は、15年目で閉じました。いろいろな古典を読みました。最後は『難経』と『六診提要』でした。『六診提要』は2巡りしました。とてもよい診察の教科書です。丹塾古典部の仲間以外は、読んだことはないかと思います。

 『六診提要』があれば、読む。しかし、大抵の人はあっても、読まない。あることも知らない。でも、2巡りも読めたことは、つよい「縁」があったとしかいいようがない。江戸時代の先生方が残してくれた叡知は、きちんと受け継ぎたいとおもう。

 中国の先生方の叡知は、思想(陰陽五行説とか)が見え隠れして、なかなかなじめないが、江戸時代の先生方の叡知は合理的で、誠実で、とてもなじみやすい。

 以上、15年続いた丹塾古典部閉じる、という話題でした。

2024年2月20日火曜日

コンクリートのがら

 我が家は、たんぼを埋め立てたところに建っている。

 土地を造成するとき、いろいろな物を埋めたらしく、多いのがコンクリートのガラ。それが整地している裏の駐車場からも出てきています。少々の大きさでは驚かないですが、人の背丈以上のものが出てきたので、写真をとりました。奥のトラックと比べてみればよくわかります。

*次の朝、近くで撮ってみました。大きなお相撲さんのようでした。




2024年2月16日金曜日

六道輪廻

  死後、生まれ変わる6つの世界を六道といい、天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄である。死んでは生まれ変わるのを永遠に続くのが輪廻。

 子どものころは、六道輪廻は知らいけど、日常のことばに使われていました。

 修羅は、事故現場や泣き叫ぶ場面など修羅場といいます。テレビのニュースやドラマで流れてきます。以前は、テレビのニュースを見ながらご飯を食べてましたが、自分に修羅の心があるのに気がつき、修羅の心がエスカレートしないように、ニュースは見ないようにしています。

 餓鬼は、いつもお腹が空いて食べたがる子どもをガキといいますが、がつがつして満たされないようなことです。待てずに、立って食べたり、手づかみで食べたら、怒られました。餓鬼の心をたしなめられたのでしょう。

 畜生は、犬とか猫のことを言っていました。ペットではなく。相手をののしって「こんちくしょう」とか言います。

 日常に六道を使って教育していたのですね。仏教徒でなければ、気にする必要は無いでしょうが・・・


2024年2月13日火曜日

『老子』四章「和光同塵」

 池田知久は、「和光同塵」を「己の知恵の光を和らげて、塵のような渾沌たる世界と一つになった」と訳し、「自分の能力を包み隠して俗世間と交わる」という意味の処世訓として有名である。しかし、この理解は「和光同塵」の正しい意味を把えそこねた通俗的な解釈であるという。(池田知久『老子』講談社学術文庫

 「塵」を一般的には俗塵の意味にとるが、池田は「道」の渾沌の意味にとるところが異なる。出典の四章では「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」となっていて、「解其紛」と対になっている。「紛に解けこむ」「塵と一体になる」=紛・塵に解けこむ・一体になる、となり、この紛・塵が「道」の渾沌を表していることをいう。

 そもそも「包み隠して俗世間と交わる」とは、包み隠すことは人為であるから『老子』は言わない。やはり、小賢しい知恵を捨てて(人為を捨てて)、道と一体になる、が本意である。


 






2024年2月2日金曜日

嚢胞症その3

 

 上の写真が、12月初め。下の写真が、2月初め。2か月経過です。写真の撮り方が下手で申し訳ないですが、だいぶ良くなってきました。2か月前は、真皮層まで到達して、割れると痛いような状況でしたが、今は表皮層だけのようで、割れるようなことはありません。
 あと一か月で完治するのではないでしょうか。

 
 前に紹介した、藤平健先生の『百味箪笥』に、藤平先生が、機能性ディスペプシアに罹患したとき、自分で、湯液を処方したが、癒えず、友人の小倉重成先生から、縄跳びすると良いと教わって、せっせと縄跳びしたら完治したという話が載っていました。

 くすりでもない、はりきゅうでもない、何でもないというような治療が、あちこちにあるもんですねえ。

2024年1月30日火曜日

『老子』四十二章

 『老子』四十二章に「道生一、一生二、二生三、三生万物」とある。池田知久『老子』(東方書店)は云う。

 その「一」とは、まだ「一気」や「太極」のようなルーティーン化した具象的な思想概念とはなっていない。「道」が生じた漠然たる未分化な原初的な統一体とでもいうべきものである。

 「二」は「陰・陽」または「天・地」などに当て、「三」は「天・地・人」または「陰・陽・和気」または「形・気・質」などに当てる見解が多いが、漠然たる未分化な原初的な統一体が次第に分化していうプロセスを一般的に述べたものであって、そのような後代のルーティーン化した具象的な思想概念で把握するのは不適当ではないだろうか。

 どの注釈家も、「一」、「二」、「三」が、何に相当するかの解答を用意している(したがる)。が、池田は、後世の知識に当てはめるな、ただ一般的に述べたものだ、と大鉈を振り下ろしている。なんてすばらしい。


 



2024年1月27日土曜日

冥福をお祈りいたします

  死に際し、よく「冥福をお祈りいたします」という。

 「冥」は、冥土・冥途のことで、死者の世界である。死後、閻魔様の判定で、生前、善>悪であれば極楽に行き、善<悪であれば地獄に行くのである。「冥福を祈る」は、極楽に行けるように祈ることである。

 合否すれすれの人だから、極楽に行けるように祈る(祈願する・希望する)のであるから、その人は、まあまあの悪事をはたらいたことになる。

 ぼくは、死者の世界に行くのではなく、生き返ると信じている。そうであれば、やり直すことができるし、もっと良くもできるし、やり残したことをやることができる。そうであれば、死に際しては、「また、お会いしましょう」ということになる。

 お別れのことばは、死をどのように考えているかを、反映しているのです。

 

『死の講義』

  橋爪大三郎『死の講義』(ダイヤモンド社)は、世界の宗教・思想がどのように死を考えているかを説いた書で、イメージ的には小百科事典である。

 仏教でいえば、バラモン教→ヒンズー教→仏教→小乗仏教→大乗仏教→中国仏教→日本仏教という歴史があり(つまり仏教前と仏教後があり)、それぞれに死の考え方が違うことを説明している。中国・日本に至っては、さらに枝分かれていているから、こうしてマッピングしてもらうととても理解しやすい。小百科的な説明なので、専門家、宗教者からはクレームがつくかもしれないが、普及という意味では、とても良い本である。

 鍼灸も、枝分かれが激しいので、お互いに意思疎通ができないし、ひいては世間に認知されにくいのであるが、『死の講義』のようなマッピングをすればよいかと思う。

 バラモン教は輪廻の考え方があり、お釈迦さまは輪廻を否定したそうである。しかし、小乗、大乗がまたぞろ輪廻を持ち出したから、のちの仏教も混乱してしまったようです。ふむふむ。

2024年1月20日土曜日

養生(生き方をケアする)

  拙著の『養心のすすめ』において、養生を分類しました。その養生は、生命をケアする(養)という意味ですが、生き方をケアするとみなせば、拙著のものだけでは足りません。

 拙著の養生の分類は、「現世に限る」ものであり、来世を考えたら、もっと他の生き方があります。たとえば、天国に行きたいならクリスチャンであらねばならず、地獄に落ちたくないなら悪業をしてはならないし、もし生まれ変わりを信じているなら、来世の自分をイメージして、現世の自分を生きなければならない。秦の始皇帝は、来世も皇帝になるつもりだったから、地下軍団を作ったのです。

 死者の霊は、きちんとお祭りすることによって善鬼になり、子孫に益をもたらし、お祭りをさぼれば悪鬼になり、子孫に災いをもたらすのです。子孫にちゃんとお祭りしてほしければ、現世でしっかり先祖をお祭りし両親に孝を尽くねばならないのです。

 こうしてみると、現世限りなのか、来世を考えるのかによって、生き方はだいぶ異なってきて、生き方をケアすることも必要になってくるのです。第二版では、追加したいところです。

2024年1月3日水曜日

掌蹠膿疱症 その三

 知っている人で、掌蹠膿疱症にかかり、お薬をもらいに遠くのお医者に行っていると聞きました。また、掌蹠膿疱症は、漢方薬でも治るようなことが、雑誌に発表されていました。あるいは、鍼灸の名人で治すひとがいるかもしれません。これらの場合、治療費はいくらかかったのか、治るまで幾日かかったのか。

 しかし、ぬか床の汁を飲んだだけで、1か月でこれだけの成果を上げることができるのですから、合理的に考えたら、一番良い治療法だと思います。理屈もそれなりに通っているし。

 夜尿症は、水分摂取の時間を変えるだけで、1日で治ります。飲んだ水分は、おおむね12時間後に小便になるのですから、午後の時間に水分を摂取しなければ良いのです。むやみに鍼したり、根拠のない治療費をかき集めるのなら、藤平先生にしかられるでしょう。

 合理的で、はやく、安価に治る方法を、現代医学、漢方、鍼灸、それ以外ににこだわらずに、探し求めることも、医療の義務だと思います。

2024年1月2日火曜日

治療上の三原則

 個人的な思わくでは、藤平健先生は漢方の先生である。しかし、その著書の『百味箪笥』(緑書房)は次のようにいい、漢方家ではなく、医者である。

私は、私なりの信条にしたがって、治療をすすめている。その信条というのは、現代医学と漢方との、いずれを用いた方が、この患者の病気を、より早く、より根治的に、そして安価に治すことができるかという、いわば私なりの治療上の三原則なのである。この原則にかなうならば、それが現代医学であろうと、漢方であろうと、いずれを用いてもかまわない。したがって私の毎日の治療は、手術もやれば、注射もやる。漢方だけ用いることもあれば、それらを併用することもある。

 つまり、藤平先生は、治療法にこだわらない医者なのである。それを「安価に治す」というのであるから、とてもスマートである。わたしも、おなじ信条を持って、これからも励みたい。

 暴利のような治療費を設定してイキがっているようでは、鍼灸界の雲行きはあやしい。謙虚さを失うと、みんなから嫌われるのは、自明のことなのに。

2024年1月1日月曜日

掌蹠膿疱症 第二報

 正月の一日に、第二報です。上の写真が12月6日。下の写真が1月1日。

 大分治ってきました。残すところ3割というところです。治療は、ぬか床の汁を飲むだけです。大根の季節ですので、ちょうど良いのです。

 心的ストレス→腸内細菌叢の乱れ→嚢胞症

 心的ストレスは無くなっても、嚢胞症は治らず。次の作戦として、腸内細菌叢の乱れを改善するためにぬか床汁を飲んでいるわけです。