2019年9月30日月曜日

シラク元大統領国葬

フランスのシラク元大統領の国葬が行われました。

日本の総理大臣は、夫人に親書を送っただけみたいです。検索したら、つぎのような文面がでてきました(一部)。かけがえのない友人というからには、万難を排して、葬儀に参加したほうが良かったのでは、と思います。すこし残念。忙しいのでしょうけど。この「万難を排して」というのが、無心無私に相当するのだと思います。

死んだとて道の世界に帰るのだから、悲しくもないし、わざとらしい葬儀なんぞいらない、と老子は言うだろうと予想されるけど、生身の老子はきっと葬儀に行ったに違いない。万難を排して。

目を閉じれば、シラク大統領の優しさと知性にあふれた笑顔がまぶたに思い起こされます。ありし日のジャックの姿を偲びつつ、偉大な政治家、そしてかけがえのない友人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
令和元年9月26日
日本国内閣総理大臣 安倍 晋三

むくどり

 外が騒がしとおもって窓を開けてみたら、電線にむくどりの大群。電車が来たので、一斉に飛び立ちました。写真は、まさにその瞬間。治療室の裏窓から撮りました。

 昔は農作物に害をおよぼす虫をたべるとて益鳥でしたが、いまや街中に住むようになり騒音・賁害のために害鳥となっている。人間の都合なのですが。

 東川口駅前のケヤキはねぐららしく、夜に帰宅すると、にぎやかなこと。どんなおしゃべりをしているのでしょうか。

2019年9月26日木曜日

伊藤仁斎『論語古義』


 全5日間の旅程の間に、伊藤仁斎の『論語古義』読破を試みましたが、3分の1くらいまでしか進みませんでした。しかし、得るものは多大でした。

 老子がいう無心無私は、抽象的な概念で、具体的にはどのようなことをすべきなのか、皆目見当がつきません。社会生活において、なにを為せばいいのか、模索してました。

「今の世間で(孔子の)道を知らない人は、きっと目さきの効果をあげるのに急で、喪をていねいにすることを馬鹿にする。末世の風俗のぞんざいさになれて遠祖を忘れる。こんな人は自分の行いぶりがすでに薄っぺらである。」

 自分の身の回りの無心無私はもちろん必要なのだろうけど、祖霊を祀ることや、先人を顕彰することなどをきちんと実行することが、きっと老子のいう無心の一端なのであると確信したしだい。

 一個人の無心無私であれば、家に閉じこもっていればいいのであり、一治療院の長であればいいのであるが、そこから出なければ本当の無心無私とは言わないのだろうとおもう。むしろ、社会の中の無心無私が第一義なのかもしれません。

 というようなことを、3分の1で考えたのです。

 

上海で感心したこと

 9月23日 南京中医薬大学と学術交流。

 行きと帰りに上海泊。写真の通達のように、上海市では、ホテルでは、歯ブラシ、ひげそり、くし、靴磨きなどは、部屋に備え付けないことに決まったそうです。必要なひとは、フロントに取りにいけ、とのこと。

 はなしに寄れば、上海市では先行的に行っているだけで、来年は、全国のホテルに徹底されるそうです。

 これが中国のエコの始まりだとすれば、おいおい、生活全般に及ぶのかもしれません。こういうこと、資源の無い日本が率先してやるべきだと思うのですが・・・

 

2019年9月18日水曜日

本末転倒

 お釈迦さまの教えが、大乗仏教と上座部仏教にわかれ、大乗仏教が中国仏教に発展し、中国仏教が日本仏教に伝えられました。移動の間に、本来性が薄れ、いろいろなおまけがついて、日本に滞在している間にも、いろいろな俗習が加味されました。

 仏壇のお作法、お葬式のルール、お焼香のやりかた、お墓の立て方、お布施の額、これらのことをいくら突き詰めたところで、お釈迦さまの教えに到達しないのですが、私たちは、これが仏教の一面だと思っています。アメリカでは、人口の1パーセントが仏教徒といわれ、仏壇も、お墓とは無関係に、仏教の教えに目覚めることを求めています。

 私たちが思っている仏教は、本末転倒しているのが明らかです。こうしたことは、鍼灸業界も同じで、鍼の意義、灸の役割をきちんと理解しないで、補法はどう、瀉法はどうと、無用な時間つぶしが昭和から平成にかけて行われてきました。長い時間をかけても、結論はでませんでした。つまり、末をいくら突き詰めても、本に到達しないのです。

 いい加減に、目覚めなければ。とつくづく思った、先週の日曜・月曜でした。

 私たちの医療の本質は、未病治療です。出てくる病気の対処法を探し求めるのは、近代医学とおなじことですから、本質とはいえないでしょう。道具が鍼と灸というのがちがうだけです。

 養生をきっちりやらないとなあ、と目覚めました。

 

2019年9月17日火曜日

来世の養生

 8月に久留米で死生観を話しして、気が付いたのですが・・・

 今までは、養生は、現世だけを考えてました。が、もし、来世があるとすれば、来世に向かった現世の養生があってもいいのです。来世のための現世だとすれば、どのように生きていくか、そのためにはどのような養生がふさわしいのか、考えなければならないかと。深慮しています。

 来世はあるのでしょうか。それはあの世でしょうか。極楽浄土でしょうか。いずれもないのでしょうか。

 儒教では、あの世は、子孫を見守る善鬼として存在するとみなしています。したがって、現世では、その祖先の霊魂を大切にまつります。結局は、親に尽くし、子供を産み育て、祖先の霊魂を篤く祀る、そのための人生なのだといえます。その上で、養生が形成されるのです。

 遺伝子レベルでいえば、あの世は、子孫の肉体として、存在します。自分も、前世の両親の遺伝子を受け継いでいますから、前世、現世、来世は、存在するといえます。

 こんな風に、現世の自分だけの養生と思っていたら、来世に向けての養生という発想も必要ではないかと思い始めました。

 養生=何かをする という図式は、もはや幼稚にすぎるかも。



ライターこだわり

 お灸をする先生のライターこだわり。
 9月15日は、大宮で、越石まつえ先生。使い捨てライターは、子供が誤用しないようにと、火をつけるのに指の力が余計に必要になったので、越石先生は、改良される前のを大量に買い付けたそう。死ぬまでの分だそうです。

 9月16日は、杉山神社で、藤井正道先生。先生は棒灸を多用するので、たーぼライターを使用しているとのこと。太い棒灸だと、ガスボンベ+バーナーを使うとのこと。

 僕は、BIC(フランス)の、使い捨てライターを使っています。
 少し高いけど、
 着火が安定している
 *品質が悪いと、突然、着火しなくなり、ちょっとイラっと。 
 ボディは着色されているのでガスが見えない
 *品質が悪いと、残り半分で、着火しなくなる。少しイラっと。
 *BICは、見えない分、イラっとしない。

 こんな理由で、BICにしています。
 お灸の先生には、またお線香のこだわりもあるでしょう。いつか、お聞きしたいものです。

2019年9月15日日曜日

『論語』と無心

 森共之の「意仲玄奥」に、無心に鍼を刺すことが極意であるようなことが書かれている。その無心を追いかけているが、仏教の無心、老子の無心とあり、どうも孔子にも無心があるよう。現時点では、以下のように分けています。

 仏教の無心は、徹底的な無心
 老子の無心は、意図的でないさま
 孔子の無心は、私心がないこと

 仏教の無心は、出家を条件として、究極的。『論語』に無心とは書いていないけど、行間を読むと書いてある。老子の無心は、両方を兼ねているような気がします。なので、老子と孔子は似ているし、老子と仏教も似ているところがあるわけです。

 孔子は、仁(思いやり)を提唱するのですが、無私の裏付けがないと、仁は実行されません。わかっているけど、行動に移せない。行動が伴わないのは、孔子が批難するところ。

 『論語』雍也篇で、孔子が冉求に対して、「なんじは、かぎれり」と言ったところは、冉求ができないと言ったことを指弾しているのですが、線引きすることが私心に相当します。ここでは、できる・できないの線引きです。線引きして、行動に移さないことを、指弾しています。

 私心、無私という下地で『論語』を読むと、真意をよくくみ取れるのです。



2019年9月14日土曜日

『霊枢』を読んで

 会で、『霊枢』を担当するようになったのは、島田先生没後の2001年4月からです。そこから読み始め、第79篇が終わりました。現在は、成立をイメージしながら読んでいます。

 池田知久先生は、『老子』は、最初からあった篇、あとで追加した篇、最終的に追加した篇の、3ステップに分けています。そうしないと、篇ごとに主張が微妙にことなるので、解釈にこまり、場合によってはこじつけするようになります。沢庵は1章から81章まで通貫しているとみなしていますが、どうもそうではないようです。

 たとえば、『霊枢』経脈篇の冒頭で『霊枢』禁服篇を引用しているので、禁服篇が古く経脈篇が新しい、と黄龍祥は言うのだけど、冒頭部分はあとからつけた序文だとみなせば、黄龍祥の説はうたがわしくなる。そういう意味では、経脈篇の中の段落上の新旧を、確定させたいところでもあります。今までの注釈は、篇の新旧のみならず、段落の新旧について言及していないので、今後の課題として需要になると思われます。19年間読んでみて、思ったことでした。
 




2019年9月7日土曜日

日本伝統鍼灸大学

 日本伝統鍼灸大学は、晩年の島田先生が力をいれて画策していましたが、道なかばにして、2000年に他界しました。

 その後、ある人が、民主党政権が国立の伝統鍼灸大学を作りたいと言っているが、成算は有るかと問われました。このとき、新しい鍼灸大学は可能だろうけど、伝統鍼灸大学は不可能だと答えました。何を教えるのか、教科書を用意できるのか、適任の教授はいるのか。総合的に考えたら、伝統鍼灸というのは、学問的には幼稚なだんかいで、大学にふさわしい内容を持っていないことに気がつきました。(いまなら、北辰会の教科書群がいちばん適任ではないかと思う。個人的には。)

 ということで、お流れになったわけですが、島田先生が存命であったら、別の展開になっていたかと思います。
 
 それでも、教える人物がいないので、伝統鍼灸大学はまだ先でしょう。教える人物を育成するところから始まるのですから、だいぶ先かもしれません。

実技供覧

 11月23日・24日に行われる日本伝統鍼灸学会学術大会での売りは実技供覧のようである。
 振り返ると、前身の日本経絡学会の時、実技供覧をするか、しないかで、実行委員会がもめていたことがありました。ただ見るだけなら、実技供覧は意味はない。その後に、その実技の意義についてシンポジウムするくらいでないと。という意見あり。実技供覧は参加者が見込める。という意見があり。20年くらい前の話です。

 其れ以来は、そういう話し合いは無くなり、人集めに実技供覧をするのが定番になってしまっています。その時はわからなかったけど、今となってはただの実技供覧は、やはり意義は少ないとおもう。20年前の意見のように、一つ一つの実技の意味合いを徹底的に話し合うのでなければ、ただ見ただけで、脳裏をさっとかすめて、消滅してしまうのではないでしょうか? 

 いま輪読している『アナトミートレイン』に、骨盤が前傾というけど、どの面に対して前傾していると言わないと、ただしい情報にならないとありました。水平面に対して前傾なのか、大腿骨に対して前傾なのかと、明記しなければならないとありました。

 腎虚(曖昧概念)も、どういう条件がそろったら腎虚というのか、それを補うということはどういうことなのか。日本語で説明できるようにしたいものであります。いかげん、本気にならないと。

2019年9月6日金曜日

大分県中津市

 北九州の講演の帰り、大分県中津市の観光。青の洞門、耶馬渓、羅漢寺、中津城、福沢諭吉の生家を巡ってきました。

 直下の道を行ったために、青の洞門、耶馬渓にいきなり到達。青の洞門はどこ? 耶馬渓はどこ? すぐにはわかりませんでした。いきなり本丸に行き、本丸をキョロキョロ探すような状況でした。直下の道ではなく、川向こうの道を行けば、すぐわかったのですが。

 そこで、白隠の座禅和讃を思い出しました。
衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。たとえば水の中に居て、渇を叫ぶがごとくなり」。目的地にいるのに、目的地をまだ探している。中津でよい勉強しました。

 羅漢寺は、ロープウェイで行きましたが、次回は、階段を使ってお参りしたいと思います。

死生観

 8月25日、久留米市で、死生観のはなしをしてきたのだが、その中で、仏教をとりあげたものの、北伝の大乗仏教からの死生観だけをとりあげましたが(とはいっても粗末なものですが)、同じ仏教でも、南伝の上座部仏教(小乗仏教)については、不勉強でしたので、とりあげませんでした。

 参考書は、大乗仏教モノは、多いのですが、上座部仏教モノは少なく、唯一手元にあるのが『仏教思想のゼロポイントー悟りとは何か』(新潮社)というもので、一旦は読んだのですが、いま再び読んでみると、頭には何も残っていないかのようでした。読んだけど、読んでない。マーカーも引いてあるのに・・

 この本は、2015年4月の発行ですが、1ヶ月後に3刷しています。よほど売れているようです。こういう難しい本が売れているのです。本は売れないというけど、必要なものは売れるのですね。
   
 先月、東京都中央図書館にいったら、仏教書の書架は5メートル2本くらいありました。いかに仏教が深耕されているか、愛されているか。うらやましい限りでした。

2019年9月3日火曜日

メール返信

 メール返信が速いと誉められるのですが、
 ①すぐ返信したほうが、返信をわすれなくてよい。
 ②すぐ返信したほうが、文面が短くてもよい。
 ③すぐ返信したほうが、しきいが低い。
 ④受信したことを忘れ、モヤモヤしたり、メールを探したりしている時間が、もったいない。
 
 というわけで、速いのです。「後で」と思ったことは、後には忘れているので、思ったら吉日、メールを開いたら即時。ということでしょうか。

 沢庵和尚の言う「こころを止めるな」という教えを、メールではよく守っているのです。