2014年12月29日月曜日

お墓まいり(2)

 二条駅から嵯峨野駅にいき、そこからトロッコ嵐山駅に向かう。

 駅員さんに、トロッコ電車では一駅だし、風光明媚な保津峡を見て欲しいと説得されて、往復して、帰りにトロッコ嵐山駅に降りることにする。

 トロッコ電車は楽しくて、がたんごとん、ときにがちゃこんと、今にも壊れるのではないかという荒武者ぶり。新幹線のご紳士ぶりとは対極にある。紅葉の名残が5パーセントくらいあり、それでも十分に楽しめました。終点まで行って、そのまま折り返して、トロッコ嵐山駅におりました。

 さすが京都です。こんな町外れでも、田舎びたところが無く、京都の気配を失っていません。歩いて15分くらい、二尊院がありました。ネットで検索してみた映像と同じなのだが、雰囲気が独特。墓地があるせいかもしれません。西の外れで、太陽が山陰に在ったからかも知れません。

 寺のパンフレットには「二条家、鷹司家、三条家、四条家、香道の創始者でもある三条西家や、角倉家など豪家の菩提寺」とある。都内にある墓地とは違って、厳かな雰囲気がある。

 さっそく、後藤艮山の墓を探し、ついで香川修庵の墓を探す。修庵は幸せだったでしょう。師匠のお墓の近くに眠って。かつて、池袋の洞雲寺に参ったとき、小曽戸先生は、隅っこでもいいから、森立之のお墓の近くに眠りたいといってました。同じような気持ちが、修庵にあったのだと思います。

 帰りは、嵯峨嵐山駅まで歩く。途中に、清涼寺あり。中に絹製の蔵府が収まっている釈迦如来立像(国宝)があるので有名。今から20年ほど前に、『史記』扁倉伝の研究をしているときに、幻雲の注釈の中に蔵府図があって、それを調べていた時に知ったことで、図らず寄り道する機会を得た。

 ところで、京都観光は、とくに広い寺院の境内は歩くざるを得ないから、足腰がしっかりしているうちに行かねばならない。たくさん歩いて、仏教が大歓迎されていた時代に思いをはせる。

2014年12月24日水曜日

第52回丹塾

 1月4日(日)の第52回丹塾は、小生が担当して「江戸期の鍼灸」の話をします。篠原孝市先生や、長野仁さんや、大浦慈観さんが、すでに詳細な研究をしていますので、これらを整理してお話する予定です。みなさんも、ご参加ください。(詳しくは丹塾ブログをみてください。)

 鍼灸の世界では、知っているつもりがたくさんあります。江戸期の鍼灸が日本鍼灸のルーツみたいなことをいいますが、研究はまだ不十分で、わかっていないことのほうが多いかも知れません。そのわかっていないことを、わかってもらうことがまず出発点だと思います。

 仏教のお葬式も、よく調べてみると、お釈迦様とは無関係の儀式になっているようです。戒名とか位牌とかお墓とか、仏教の本質とは無関係なのですが、私たちが一番気にしているところなのです。一番気にしているところが、まったく本質とは無関係なのが、歯がゆいではありませんか。

 鍼灸も、私たちは、どうでもいいようなことを、つっついているような気がします。重箱のすみをちくちくと。枝葉末節ではなく、もっと本質的な、核心をついた論争が必要なのですが、知っているつもりなので、まったく先にすすみません。根に着いた研究が進んでいません。そういうところに気づいてもらいたいと思います。

2014年12月22日月曜日

お墓参り

12月15日(月)はお墓参り。
 後藤艮山のお墓のある上品蓮台寺。香川修庵、伊藤仁齋のお墓のある二尊院に行ってきました。

 上品蓮台寺(じょうぼれんだいじ)は、千本北大路交差点の南方200メートルくらい。墓地はお寺の向かいにあり、後藤艮山のお墓を探す。全体の3割くらいは古いお墓で、お参りする人もいない様子。帰る頃に、般若心経を唱えている方がおひとり。

 後藤艮山のお墓は、やや傾き、風化し、寂しいかぎり。それでも、松尾芭蕉が、昔の歌枕で読まれた名勝旧跡は跡かた無いが、「壺の碑」は1000年経って、目の前に残っている。それを見ることができたのは、「行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労をわすれて、泪も落つるばかりなり」(『奥の細道』壺の碑)と言っているのを読めば、艮山のお墓に参じることが出来ただけで、良かったのか。

 近そうな大徳寺まで歩く。京都は寒かったらしいが、歩いてばかりいたので、寒さ知らず。大徳寺は22の塔頭が属する大寺院。国宝「喜左衛門井戸」を所蔵する孤篷庵がある。正門に全体の地図があって、西のはずれに孤篷庵があったので、すぐ近くだと思っていたが、だいぶ歩きました。上野公園の南から、東京国立博物館までの距離はあったのではないか。なにしろ京都のお寺は大きい。どのお寺も立派。その昔、京都に来た大名は、その高度な文化にキモをつぶし、かくして自藩にも似たようなお寺を造ったのだろう。

 大徳寺の門前で、大徳寺納豆を買う。名のみ知る納豆で、お店に入るとご主人が出てくる。ご主人みずから腰を低くし対応してくれる当たりに、懐のおおきさ、中庸を感じる。

 商品は、大徳寺納豆のみ。大中小の3種類。大きく構えているお店と対照的。納豆は中国から将来されたもので、大徳寺納豆はその古態を保っているのだろう。味噌と、しょう油をまぜたような味で、真っ黒だから、何年も寝かせて作ると考えられる。枯淡なる味か。

  だいぶ歩いて孤篷庵に到着したが、拝観謝絶とのこと。「喜左衛門井戸」が展示してあって、ガラス越しに見るのを想定していたので、まことに残念でした。お寺の奥さん?が郵便物を取りにきたけど、「話しかけないでね」オーラで、尻込み。

 収穫は、艮山のお墓と、大徳寺納豆(ご主人も含めて)。


2014年12月17日水曜日

草喰(そうじき)なかひがし



 草喰(そうじき)は、お店の料理の方針で、野菜料理を出すお店。なかひがしは、店長の名字(中東)。

 銀閣寺交番の真向かい。小さなお店です。カウンタ12~3人というところでしょうか。二階にも座敷があるらしのですが。カウンター内には、朱のかまど(おくどさん)さんが設置してあってご飯を炊き、連なって炭床があり、魚を焼いてました。

 野菜料理とご飯がメインで、京都だから上品なところかと思いきや、腹一杯に食わせるという荒技をくらいました。

 一つ一つの野菜、お魚は、そうとうなこだわりぶりで、食器も、100年前にできたお椀を使ったり、昭和に作られたグラスを使ったり、ご主人のこだわりが半端じゃありません。でも、珍しい食材、高級な食器を使うお店は、他にもあるだろうと思います。美味しいとか、貴重だとか、こんなところで感動している場合じゃありません。

 僕が感動したのは、自然の材料を自分の足で探していること、捨てるところなく全てを料理につかうこと、最低限の調理で最上級の料理に仕立て上げているところです。にんじんの葉っぱをデザートに使い、ヒゲ根を他の料理に使い、ちいさい内に摘んだミカン(農家が捨てるの)をもらって来て、ドレッシングにしたり。にわとりは平飼いで、昨年の5月から飼っていたものだといい、鯉は地下水で3ヶ月泳がせて泥くささをぬくという。コーヒーは水出しで、20日間ねかせたものだといってました。そのうえ、野や山をかけめぐって料理の材料を探しているようです。

 メインディッシュはご飯で、炊きあがって蒸す前にひとくち出され、むしあがって椀にもって供され、さらにおこげまで出てくる。最後に、たまごが入った料理の残り汁に、もったいないからと、ご飯を投入してみたり、これでもかと食べさせるのである。残るおだしを最後まで飲んでもらおうと小さな器を用意したり、その徹底ぶりにはおそれいります。 「野菜を捨てること無く使いきる」というのは聞いたことはあるが、お料理として出されたのははじめてで、もったいないの精神、というより野菜を差別しないという精神が、というよりすべてを差別しないという仏教精神がすみずみまで配慮されていて、感動的でもありました。

 野菜を食べさせるお店という触れ込みからは想像できない、広さと奥深さのあるお店でした。このお店で、ご主人が仏教を説いたら、即刻即座にその真髄がわかるのではないでしょうか。ご主人は、『味の手帖』に連載をもっているほどの文人。お店では気さくな方ですが、相当に奥深い人のようです。

 次の日は、お墓参りしてきました。(つづく)
 
 

2014年12月16日火曜日

 京都仏眼鍼灸理療専門学校の小林校長のお招きで、12月14日、講演をしてきました。


 岐阜が雪模様というので、早めに出発し、少しばかり雪景色を視たくらいで、2分遅れで到着。三十三間堂の西側に学校があるので、京都駅から歩いて、鴨川を渡ってまもなくに学校があります。曲がり角に、町の和菓子屋さんがあったので、昼ご飯がわりに2ヶ購入。


 11時半に着いて、時間が余ったので、周辺を徘徊することにして、三十三間堂一周してきました。三十三間堂は2回拝観していますが、入り口は北側なので、南大門ははじめてみました。京都はどのお寺にいっても立派なのにはおどろかされます。それだけ、仏教が大歓迎された時代だったのだと思います。


 京都はどの道をあるいても、発見が多くて、町歩きには最高です。あちこちに小さなほこらがあり、古いお店があったり、知らないお寺があったり、歴史の看板があったり、歴史好きにはたまらないでしょう。


 講演は1時から5時。医道の日本社さんが、『温灸読本』を割り引き販売してくれて、講演終了後にサイン会することにしたので、20人くらいに、30分くらいサイン会しました。サインしている間、みなさんが話しかけてくれて、30秒くらいの間に、小さな会話をします。講演中は静かに聞いているけど、ちょこっと話しかけてくれるのは、うれしいものです。


 むかしならサイン会といえば、即座に断っていたでしょう。恥ずかしいから。今でも恥ずかしいのですが、その垣根が低くなっているので、せっかくのご厚意ですからとサイン会になったわけです。


 よるは、小林校長のご招待で、「草喰 なかひがし」に行ってきました。(つづく)

2014年12月3日水曜日

潮風

 11月23日は、母の三回忌で松島に帰りました。瑞巌寺の杉木立は、なんとも言えない香りに包まれていました。今までもその香りがあったのでしょうけど、この歳になってその香りを感じることができ、やっと大人の仲間入りしたのかと感無量でした。齢を重ねると、諸事に敏感・過敏になると聞いたことがありますが、マイナス面もあるらしいけど、新たに感動があるという意味ではおおいなるプラスではないでしょうか。

 翌日は、母の実家のあった湾内の離島、野々島に行ってきました。ここでは、潮風が感動的でした。懐かしい潮風ですが、皮膚の栄養になって活性化したような感じがしました。べたべたでからみつくような風ですが、それが懐かしく、うれしく思いました。

 歳とると田舎が恋しくなるとか、なかなか田舎から離れられないのは、こういうことを言うのではないでしょうか。三陸津波で故郷を離れ、原発で避難させられている方々は、ことばで言い表せない、表したとしても理解してもらえないもどかしさがあると思います。

 「鍼灸oosaka」という雑誌に、「補腎について」を寄稿しました。とくに、養生的な補腎を、『内経』を材料に考えてみました。冬、寒さ、腎は五行で関連があります。これを、ほどよい冬の寒さは腎を鍛え、冬なのに寒さから逃げると腎を弱めると考えました。ぼくらが子供のころは、たいした暖房もないのに、風邪を引くことはなく、インフルエンザの流行も無かったように思います。それは、適度に寒かったことによって補腎したのである。貝原益軒も、『和俗童子訓』で、子供の健康には「三分の飢と寒をお(帯)ぶべし」と言っています。

 このように、外界の気候は、適度であれば五蔵を養うし、過剰であれば五蔵を損なう。風も、暑さも、寒さも、身体の栄養になるということを、『内経』では提言していたのであります。