2013年1月24日木曜日

二つの故郷 喪えり

 何を隠そう(何もかくしてませんが・・切り口の語として)、僕は、農民と漁民のハーフである。父方は農民で、実家は、梨栽培、養豚、養鶏をなりわいとしていたが、20年以上もまえに破綻したらしく、、家屋敷ともに農協に持って行かれたらしい。子供のころ遊びにいったあの風景は、風の雲を吹くがごとく、跡形もないらしい(一度、行ってみたいが、行っても無いのであれば、何をみに行けばいいのだろう)。

 母方は漁民で、松島湾の浦戸諸島、その中の野々島という離島に実家があった。実家があったというのは、3・11の津波で、波の砂をさらうがごとく、今は跡形も無くなっているからである。被災状況を、実際に見にいったので、喪失感がとても強い(父方の実家は見ていないので、喪失感は無いに等しい)。どちらかと言えば、母方の実家の方への思いこみが強いので、さらに一層。

 昨年の暮れ、母が亡くなった。高齢だった(八八歳)こともあって、喪失感はさほどないはずなのに、なぜか喪失感が強い。おそらく、母が亡くなったことによって、野々島への最後の糸筋が完全に切れたためだろう。子供のころの原風景が無惨なすがたになってしまったことが、意外にも、尾を引いていたようだ。

 喪失感というのは、頭が虚(うつろ)の状態で、よく「こころの整理がつかない」というのは、まさにその通りで、何かに没頭していれば、その間は頭に力がはいるのですが、それから離れるとポヤ~ンとしてしまいますから、こころの整理をする時がありません。3・11の直接の被災者でなくてこんな状態ですから、直接の被災者は不可測です。

 
 野々島は、震災直前は人口は160名ほど。今は、若い人は島を出ているから少なめですが、50年ほど前は、50戸~60戸は有ったので、200人は超えていたと思う。その頃は、電気もない、水道もない、自給自足に近い島でした。貧乏だったのだろうけど、老子のいう「小国寡民」に近いユートピアだったとおもいます。実家が野々島だったのは、誇りです。一度、居住してみたかったなあ。

 という経験をふまえ、東洋医学では、こうした悩める者をどのようにして救済するのだろうか、東洋医学では、こころの問題をどのように考えているのだろうか。また、新しいテーマがみつかって、わくわくしているところであります。



 

2013年1月6日日曜日

ただ変のみ。


 ふたたび、和田東郭先生。『蕉窓雑話』の冒頭に「医則」が附録されている。先生の遺稿から抄録したものだという。前回の「用方簡者、其術日精」も「医則」にある。

今回は、「医之所用心者、其唯変乎。揣変於未変、而以非変待変。此之謂能応変也。」である。この文章の意味がわかったのはごく最近で、読み始めて10年ほど経っている。原文には返り点がついているので、読める。読めることと、わかることは、雲泥の差がある。そのわかるまでの道程が、古典をよむことの醍醐味であろう。

新幹線で仙台まで、2時間もあれば到着する。歩で歩けば、10日以上はかかる。仙台に到着したことはおなじでも、その道のりは全く違う。新幹線では古典はわからない。地道をあるくに如かず。苦労した分、よろこびが多い。

 医者が心を用いるのは、(患者の)「変」だけである。「変」を「未変」に推し測り、(医者の)「非変」の状態で「変」を待つ。このことを「能く変に応ずる」という。

 変の対は常である。平常である。医者の非変の状態とは、平常心を指す。どのような患者が来ても、症状にとらわれることなく、こころを動揺させることなく、平常心で対応せよ、という意味である。その平常心でなければ、患者の変を見抜けないし、未変を推し測ることができなくて、ただうろたえるだけである。

 患者の変とは、平常と異なる何か(症状であったり、仕草であったり、身体の反応であったり)であり、変が明確になる前に見つけ出して対処すべきであることをいう。

  まりは、澄明なこころで、静かに、患者さんに対応せよ、言い換えることができるかも知れない。『針道秘訣集』の「三つの清浄」に相通じるところがある。

その脈をたどれば、『老子』第一章の「故常無欲以觀其妙」(いつも無欲であれば、微妙・精妙をみることができる)に到達する。

10年を要したのは、『老子』を読んでいなかったからである。
 
二三子に告ぐ。東洋医学の古典を読むならば、『老子』『荘子』『論語』を併せ読むべきだ。平成25年の年頭に、原点に回帰を唱う。