2018年12月29日土曜日

吉川幸次郎『支那人の古典とその生活』

 文章を書くことに苦労していたとき、吉川幸次郎の文章が好きで、だいぶ読みました。島田先生がご存命の時ですから、20年以上も前のことです。

『支那人の古典とその生活』は、1度よんで、なるほどとおもったきりで、細かな印象は無かったのですが、今回、ふと手に取って読んでみたら、目からうろこがだいぶ落ちました。前回、うろこが落ちなかったのは、読み切れていなかったのでしょう。いい本は、何度も読まねばならないと思いました。

「支那人の生活は古典の制約を非常に強く受けている。」
「これは支那人の先天的な性癖に基づくものと考えます。」
「具体的な生活を古典に一致させようという欲求は、」
「支那人がその生活の法則を、常に先例の中に求めようとするのは、」
「生活の規範を古典に仰ぐ、五経に仰ぐ態度である。」

 これからすれば、『内経』を読むことや、迷いなく陰陽五行説を踏むことや、古典の補法・瀉法の記載を頑なに守ることなどは、中国人のDNAがなせる業であることがわかる。別の言い方では、たましいで古典を読み、仰いでいるのです。仰ぐ精神性は持っていない僕と、中国の研究者との距たりは、想像を超える溝になっているに違いない。

『内経』は読まず、陰陽五行は信用せず、補法や瀉法などお構いなしなのは、そのDNAを持たない日本人だからと言える。その人たちに、『内経』を読みましょうといっても、無理なのかもしれません。

 中国の人が古典を生活の規範にしているとしたら、現在の日本人は、何を規範にして生活をしているのだろうか。仏教でもなさそうだし。確からしいのは法律でしょうか。この本を読みながら、自問自答していました。


2018年12月15日土曜日

平塚神社

 毎週土曜日は、鶯谷に行く途中、毎回とはいかないのですが、王子駅でおりて、飛鳥山公園を通って、上中里駅ちかくの平塚神社をおまいりしています。今年は20回以上はお参りしたでしょうか。

 特別な縁があるわけではないですが、マイナーであること、境内にたくさんのケヤキがあることというような理由で、お参りしています。ほんのわずかの時間ですが、気持ちがせいせいするのが、いいです。

 入口に、和菓子のお店があって、空いているときだけ、買っています。たいていは混んでいるのです。地味なお店ですが、なかなか人気があります。

 神社から上中里駅にむかうところに、百亀楼という中華屋さんがあって、空いているときに寄ることがあります。大抵は、混んでいます。地味なお店ですが、人気があるのです。食べるのは、決まってタンメンです。650円です。

 ごく当たり前の、いつもの日常が極楽浄土なのかもしれません。

2018年12月11日火曜日

『霊枢』の講座

 島田先生が亡くなっての翌年から、『霊枢』の講義をうけもっています(2001年)。現在は、第77篇の九宮八風篇に突入しました。

 担当してわかることは、一文字一文字検討しないことには、真実はわからない、ということです。わからないところは、わかるまで読まなければ、真実はわからない、ということです。流し読みではわからないと思います。運よく熟読の機会を与えてもらって、運よく継続できました。残すところも運よく行くでしょう。

 おそらく、来年度には『霊枢』講義は終えるでしょうが、気持ち的には最初からやり直したいところです。順番に終わったという感じなので、もう一度やり直して各篇を「味わい」たいところです。また、出土資料との比較研究も面白いので、楽しみでもあります。

 ここまで来てわかったことは、『霊枢』の2大流派の存在です。
 経脉派と九鍼派です。経脉派は陰陽説を土台にし、九鍼派は兵家を土台にしているようです(こういうことは誰か言っていると思うのですが、自分で実感できたことが、達成感があって、なかなかよろしいのです)。

 まずは、2大流派の確立をしないと、先に進まないのです。呼吸の補寫はどちらの流派? 開闔の補寫はどちらの流派? これを一緒くたにしてきたので、今まで、明解がなかったのです。最後まで読み終わった時に、いったん整理してみたいところです。



2018年12月10日月曜日

関西風うどん いらっしゃい

 鶯谷に、「関西風うどん いらっしゃい」といううどん屋さんがあり、500円~600円で、おいしいうどんが食べられるのです。

 ただ、こぎれいでもなく、こじゃれてもなく、こざっぱりもしていない。さらに、うどんの切り方も揃ってなく、店主のおじさんの身なりもきれいとはいえない。これらが気になる人には、この店のうどんがおいしいと思えないだろう、かえって不味いと感じるかもしれません。

 しかし、「視力が悪くて細かいところはよく見えない」という設定にすると、見てみぬふりができ、それができれば、うどんの味だけに集中できて、よく味わえるのです。「いらっしゃい」のうどんはおいしいと思います。

 店内にトイレの匂いがもれてくるお店も、味の評価は難しいですね。高田馬場に「傘亭」というお蕎麦屋があって(今は無し)、漫画家の杉浦日向子さんおすすめのお店でしたが、ぼくはトイレの匂いが気になって、味はあんまりわかりませんでした。

 こんなわけで、まわりの雑事を取り除かなければ、本当に味わったことはならないと思うのであります。まわりの雑事に気が削がれない人が言う「おいしい」は、真言なのかもしれません。


 



2018年12月3日月曜日

ケララの風Ⅱ

 大森のカレー屋さん、ケララの風Ⅱが、昼定食のミールスを辞めて、代わりに軽食のティファンを提供することになるらしい(来年の1月から)。

 ちらちら聞くところによれば、忙しいのが原因とのこと。仕込みに時間がかかり、お客様も増えて、65歳の体には負担が大きいのだそう。

 引き際が、見事だなと思う。自分の思う通りにカレーが作れなくなる、なりそう、そのぎりぎりのところで、判断したのでしょう。作れないことはない。でも手を抜くのも面白くない。ミールスの開拓者らしい潔さではないでしょうか。

 こういう姿勢を『老子』2章「功成りて居らず」というのだと思う。「居らず」はまるで引退のような印象があるが、「功成り」に執着しないことであり、力を抜いて、謙虚に、そこに居るということ(2章は「是を以て去らず」と締める)。居らないけど、去らない、という2章、カレーを食べててピンときた。

 ゴーンさんでいえば、一定の成果があがったときに謙虚になれば良かったわけで、一定の成果が上がったら退任したほうが良い、というわけではない。

 老子の宇宙論、老子の政治論についていえば、『老子』は縁遠い古典なのだが、老子の謙虚さをいえば、とても身近な古典なのでした。


2018年11月29日木曜日

温鍼

 11月18日の杉山遺徳顕彰会の講演は「灸頭鍼について」です。前半歴史、後半実技。前半の歴史では、灸頭鍼の祖先と思われる「温鍼」の古典記載を検討しました。

 「温鍼」の初出は王綸(15--16世紀)『明医雑著』で、中国の南方で行われている、効果的な方法だが、俗法であると紹介されています。

 香白芷を使うとあったので、最初は、もぐさに香白芷をまぜて燃焼させるのかと思い、やってみましたが、驚くような効果、変化はありませんでした。
 よく見たら「餅」に作れとありました。どのように餅に作るか、それをどのように鍼にからめるのか、わかりませんでしたが、他の古典から「餅にする」という記載を調べると、唾、蜂蜜、小麦粉などを混ぜて作るとありました。

 作った餅であれこれ思案した結果、これを台座にした隔物灸にしてみました。したら、なかなか良いのです。これだけだったら各物灸ですが、鍼を横刺して、その刺鍼部に隔物灸をすれば、温鍼法となるわけです。温鍼法が数百年ぶりに復活したのです。

 ①温熱効果
 ②白芷の薬効(散寒止痛)
 ③鍼体を温めることにより、皮膚内部への温熱効果

 以上の3点が期待できます。と書いても、具体的にどうするのか、どういう味わいなのか、体験してみなければわかりませんが。また、機会があったら、披露します。



2018年11月26日月曜日

楷樹

 写真は、楷樹(カイノキ)の紅葉。下から見て、薄い葉が透けて見えるのが、ナイスです。大きな木で、空一面が楷樹の紅葉というのは、まあ見事です。湯島聖堂の楷樹は大きなものです。

 楷樹は、孔子の墓所に植えられている木で、子貢が植えたとされている。日本には、大正4年に持ち込まれ、現在ではあちこちに植えられていて、大森の衛生学園前の公園にも植えられています。


11月連休

 11月の連休は、23日に大阪に行き、25日は松島に行き、大移動でした。

 23日の東京駅は殺人的な混雑で、新幹線ホームはごった返ししていました。指定席、自由席は満席で、大阪まで通路で立っていました。2時間半。

 25日の帰りの新幹線も満席で、これも立ってました。こんどは最初から指定席車両のデッキにきめ、本を読んだりしてました。1時間半。

 普段、電車で立っているので、苦行ではありませんでしたが、連休はおそろしや、でした。

2018年11月18日日曜日

めんばん

 松島の近所の斎藤さんのだんなさんは、「松島観光ホテルのめんばんさん」でした(50年ほど前の記憶ですが)。ふと、思い出しました。
 
 板場(調理場)の板長(料理長)さんは、カウンターに立つので花板、立板と呼ばれ、副料理長は、次板、脇板と呼ばれます。めんばんは面板と書き、このどちらかで、方言なのだと思います。「めんばんさん」は尊敬をこめた呼び方なのでしょう。今では、言わないかもしれません。

 松島観光ホテルは、お城の形をしたホテルで、2003年に閉鎖され、3階建ての天守閣風の建物だけが残り、展望台になっています。小藩の本丸、天守閣ぐらいの規模はありました。

 ちなみに、古いホテルに松島パークホテルというのがありましたが、1969年(昭和44)に火事で焼失。中学1年のころなので、半鐘の音、赤く焼けた空、いまでも思い出します。

 めんばんさん、松島観光ホテル、松島パークホテル、無くなった3兄弟でした。

2018年11月16日金曜日

俵型鍼管


 間中喜雄「きゅうと鍼の効用」(主婦の友社、1964年)に、管鍼の写真が載ってました。よくみると、俵型の鍼管のようです。たたずまいがいいですね。

 人的交流からすれば、おそらく4世神戸源蔵作でしょう。そのレプリカを何本か持っていますが、ツボが小さい手足の五兪穴に刺すのには、とても良いのです。ディスポ全盛の時代には話柄にのぼらないことでしょうが、道具話ができなくなるのは、一抹の寂しさがあります。




稀勢の里

 力士個人の問題より、横綱の美学からすれば、4敗すれば、引退でしょう。周りは、恩情過多のような気がしてならない。ほかの横綱も、横綱の美学が無いようなので、昔と今の横綱意識は違うのかもしれませんが。

 初めて相撲を見たのは、近所の方のテレビの前。ご近所のみなさんと。東京オリンピックの前年です。それ以降、熱心なファンとはいえませんが、テレビ桟敷で観戦しています。

 大関がだらしないのは、昔からで、あの初代貴乃花でも「くんろく大関」といわれて、9勝6敗がアベレージでした。今場所も、結構、だらしなく、負けてます。

 大相撲がきりっと締まるのは、やはり横綱がいてこそです。3人の横綱は末期的なので、あたらしい横綱が待ち遠しいところです。

 




2018年11月6日火曜日

大器晩成

 大器晩成は、『老子』41章が出典。
 大物は、速成しない(速成したのは、大物じゃない)、晩成である。
 
 大方無隅、
 大器晩成、
 大音希声、
 大象無形、

 3字目は、無、晩、希、無、である。

 希は、14章に「聴之不聞、謂之希」とあり、聞こえないものを「希」というからには、「希」は無いという意味をもつ。

 そうしてみると、晩も、無いという意味をもつに違いない。蜂屋邦夫『老子』は、出土した『老子』に「晩成」を「免成」「曼城」に作るものがあり、「免成」も「曼城」も「無成」の意味で、できあがらないこと、という。

 大きな四角は四隅が無く、大きな器はできあがらず、大きな音は音が無く、大きな形は形が無い。私たちが理解している「大器晩成」とは違う意味のようです。

 なんでこんなことを言い出したかといえば、鈴木大拙『無心ということ』の、

 「本当の祈りというものは、永遠の祈りなので、いつといって成就するものではない。成就したということになるともはや祈りの生活をやめてしまう。」

 という文章と、重なるなあ、と思ったからです。

 極楽が大楽だとすれば、そこいらの楽しみではなくて、得ることができないすごい楽しみがありそうなところです。(しばらくは)夢は極楽に行くこと(にしておきましょう)。

 


 

2018年11月5日月曜日

日本人の体質

 まえに、岡田耕造『お血という病気』から、中国南方と日本とは、気候が似ていて、お血を形成しやすいという説を紹介しました。岡田がいうお血は、血流が悪いことをいいます。鍼灸では、それを気のめぐりが悪いともいいます。

 一昨日は、3年目の、ジャパンセミナーでした。外国の方が日本の鍼灸を学びに来日します。今回は、20人の参加です。1週間ほどの旅程のようです。1週間治療を休むことによる減収と、参加費を払う出費を考えれば、数十万円をかけて日本の鍼灸を学びにきているのです、と主催者の田中さん。毎回参加する方もいます。

 日本では、国内の研修会にも参加しない、ましてや海外の研修会にも参加しない人が多い中、なんと熱心な方々でしょう。頭がさがります。その行動力に「隔ての無さ」「謙虚さ」を感じます。さらにいっそう頭が下がります。

 ところで、その数人を腹診して思うのですが、ほぼ平腹(健康的)なのです。今までの経験でいえば、日本人はほぼ病腹(病気を持っている)なのです。見た目が健康だとしても、病腹なのです。

 このちがいは、①岡田がいうように、お血し易い体質だから、②日本人が「隔てありすぎ」て、体が窮屈になっているから、と考えました。老子は、控えめ(謙)、出ししぶり(嗇)、あえて先頭に立たない、という「三宝」を提唱しましたが、さもなんと思ったセミナーでした。

 セミナーは、9時~5時で、やる方はしんどいのですが、得るものがあれば、報われます。今回は、「三宝」をよく理解できたことが、収穫でした。体にも出るのでした。


2018年10月25日木曜日

ふたたび「達」

 「達」は、素朴で正義を好み、人の発言を察し、顏色をよく観て、よく考えてへりくだることで、そうすれば、国でも家でも、その名が通達すること。

 この孔子の「達」の定義をよむと、忖度する官僚を想起する。忖度する官僚になれ、と孔子はいったのだろうか。そこで伊藤仁斎の説明を参考にするのだが、なるほど深耕している。
 
 「質朴・正直で道義を好むときは、虚飾を事としない。
 相手のことばつきや顏色ばかり気にするときは、心中満足して尊大に構えるわけにはいかない。
 思いをめぐらせ人に下るときは、たかぶるわけにはいかない。
 孔子の言われた三つの項目は、身を修めながらも謙遜しており、人が自分を認めてくれることを求めないということなのだ。」

 相手に対してへりくだるのではなく、相手がいなくても謙遜の生活を実践すべきだ、という意味らしい。虚飾しない、尊大にならない、高ぶらない。

2018年10月24日水曜日

達と聞

 日曜の講座で読んだところの、『論語』顏淵篇の一節。

 二十代の子張が、晩年の孔子に、「達」の意味を質問した。 まず孔子は子張の考えを聞く。子張は、国でも、家でも、有名になることが「達」だと答えた。孔子はそれを聞いて、それは「聞」ということで、「達」ではない、と答え、区別して諭した。
 「達」は、素朴で正義を好み、人の発言を察し、顏色をよく観て、よく考えてへりくだることで、そうすれば、国でも家でも、その名が通達すること。
 「聞」というのは、うわべは「仁」をとり繕い行動は「仁」に違い、そうすることに疑いを持たない人が、国でも家でも有名になってしまうこと。

  達:中身が充実して、名が知れ渡る。
  聞:中身が無いけど、有名になる。
 
 こんなことが書いてありました。問題は、子張がなぜ「達」を持ち出したのか、である。顏淵篇では子張は「政」について質問していたのに、なぜ「達」なのか。

 孔子塾の徳目(人徳を形成する科目)の基本は「仁」で、そこから忠恕、孝悌、義、中庸などが細目となるが、そこには「達」は無い。また、「剛毅木訥は仁に近し」といっても、ここにも「達」は無い。なので、なのに「達」を持ち出したのか。

 きっと、雍也篇での子貢と孔子の問答を聞いていたにちがいない。孔子が言うには「夫れ仁者は、己 立たんと欲して人を立たしめ、己 達せんと欲して人を達せしむ」と。その話を聞いていた子張は、「達」を名声を得ることとと解釈して、孔子に質問したのでしょう。

 それを、孔子はたしなめるように、中身を充実させることなのだ、と若い子張に釘をさした。こうして読むと、「達」を持ち出した意味が、自分なりにわかって、すこしすっきり。


  
 

2018年10月23日火曜日

第二回 南京学術交流

 今年、第二回 南京学術交流を行う予定です。
 期日は、①9月23日,②11月3日、③9月16日のいずれかです。南京中医薬大学の返事待ちです。
 第一回は、参加者に大変好評でした。二匹目のどじょうをねらって、第二回を企画してみました。
 行きたい人は、こころづもりしておいてください。
 もし、発表したい人がいたら、お申し出下さい。
 

杉山神社で講演

 杉山神社で、灸頭鍼の講演(古典と実技)をします。
 参加希望の方は、下記アドレスにメールしてください。
 (メール受信の返信は無いようです。あしからずご了承ください。)
杉山検校遺徳顕彰会 平成30年度・第4回学術講習会
 日時:平成30年11月18日(日) 13:00~16:00
 会場:杉山和一記念館 1F多目的室
  東京都墨田区千歳1-8-2 江島杉山神社境内  03-3634-1055
 演題:「灸頭鍼―歴史・考え方・実技―」
 受講費:一般4,000円、学生:2000円、顕彰会会員:3000
 申し込み:松本 俊吾  はり灸 峰鍼堂
     E-mail    syungo.16hari@orion.ocn.ne.jp

2018年10月19日金曜日

ひさびさに医学史

 長野仁さんから指名され、テーマ内容も指定された研究発表

 京都大学人文科学研究所科学史班/国文学研究資料館医学書班 共催
  第4回「日本鍼灸医術の形成」研究会

 日時:11月23日(金・祝)13時~17時(担当は 14:45 ~16:15)
 場所:茨木神社参集殿(大阪府茨木市元町4-3)
 演題:「『難経俗解』一栢注と『扁倉伝』幻雲注について」 
 参加:自由、無料

 どちらも、北里医史研から翻字本で出したので、それを下地に研究発表せよとのご指示だが、今から20年ほど前の仕事なので、昔のことを思い出し出し、資料を探し探しして、ひとまとまりの発表にしなければならないのですが、まあ難しいです。

 一栢といっても、鍼灸の人は知らないでしょうし、『難経』読んでいる人もしらないでしょう。ましてや扁倉伝を読むような人もいないだろうから、鍼灸界渇望のテーマでは無いのですが、中国古典畑の人が、『難経』は分からないし、扁倉伝にも踏み込めないのです。

 だから、東洋医学の人、できれば鍼灸の人が研究しなければならないテーマなのです。廻りから期待されているのに、「わしらは臨床だけやっていればいいんだ」と殻に閉じこもっていては、鍼灸の人の心の狭さが問われるだろうから、ここは奮発しなければならないと、奮起している次第。
  
      

2018年10月13日土曜日

参勤交代

 先週なにげに聞いてたラジオで、金沢の殿様が参勤交代するときは、総勢4000人だったそうです。先頭が出発して、最後尾が金沢を出るのが2日後なのだそうです。4000人の人が団体旅行するのですから、宿場町は相当潤ったのでしょう。宿場町に必ずある、味噌屋、しょう油屋、日本酒醸造元は、参勤交代で大分潤ったのでしょう。大名によっては、(毒殺をおそれて)食べ物、飲み物、食器までを持ち運ぶ人もいて、すごい人は日常使っているものまで運ぶのだそうです。公費の無駄遣いなのですが、宿場町は潤ったのでしょうから、絶対悪とはいえません。

 徳川吉宗が日光社参したときは、総勢13万人だっだそうです。公費の無駄遣いも桁はずれです。先日問題になった、議員さんの欧州視察旅行は、参勤交代の名残かも知れませんが、お酒を飲んだ、土産物を買ったというようなのは、かわいいものです。

*『論語』に出てくる「千乗の国」というのは、一乗は戦車一台(兵士が100人くらい付く)のことで、千台の戦車を用意できる国、つまり諸侯を指す。君主は万乗で、家老は百乗。家老の場合は「百乗の家」という。軍隊ではないけれど、13万人を連れた吉宗は、古代中国では諸侯ぐらいか。

*10月の日曜講座で読んだ、『論語』顔淵篇の「邦に在りても達し、家に在りても達す」というのは、諸侯の国でも名が知れ渡り、家老の知行地内でも名が知れ渡る、という意味。この家は、個人の家ではない。



 



2018年10月10日水曜日

不安除去型の医療

ノーベル医学・生理学賞に選ばれた本庶佑さんが、愛知県の藤田保健衛生大学で講演を行い、つぎのように話しました。


「20世紀になって私たちは抗生物質やワクチンなどの発見で感染症を克服してきたが、今世紀は、体が本来持っている免疫でがんをコントロールし、克服できる可能性が出てきたのではないかと思う」


「これまで私たちは、病気を治したいという願望に応えようとする『欲求充足型』の治療に努力してきたが、これからは不安を和らげる『不安除去型』の医療も、人を幸福にするという意味で同じくらい重要だ」


 これからは不安除去型の医療も重要になるとは、医者の治療一辺倒ではなく、患者さんへの十分な配慮もうかがえる点で、ちょっとドキッとしました。

 ところで、不安とはなにか。除去の前に、不安を作らない方法はないのか。こういうことに、わたし達の医学は、なにか出来ないのか。東洋医学の「こころ学」の確立させねばならないと思う。心と身は一体だ、心と身は陰陽だとか、安直に落とし込まないで、もっと深く考えなければならないときが来ているような気がします。

2018年10月8日月曜日

鈴木大拙『無心ということ』

 6月に買った『無心ということ』、まもなく読み終える。難しい本でした。前にも書いたけど、平成19年初版で、平成29年で20版(刷?)とのこと。こんなに難しい本が、猛烈に売れているのは、日本の知的レベルが高いのか?

 第四講の「無心の完成」は、ほとんど専門用語の羅列で、読みはしたが、理解はできていません。この本は、講演を起こしたものらしいですが、頭の中からこういう内容が出てくること、これを聴いている聴衆のすごさ、なんだかすごい。講演は昭和14年、大拙69歳。ここからすると、我が鍼灸界は、かなり幼稚かも。

2018年9月29日土曜日

中野健康医療専門学校

 この学校は新設校なので、知らない方も多いとおもいます。この学校で、数年前から特別講師をしています。年に2回の講義だけなのです。東洋鍼灸の同級生の小松秀人君が校長になって、生徒数も増えて順調だと思ったのですが、新しい指導要領で、授業日数も増えるし、臨床実習の形態も変わるので、それには対応できないということで閉校することになったそうです。現2年生が最後の生徒です。

この講義が水曜日で終わり、ほっとしています。自分勝手に講義すればいいのですが、相手に合わせてしまうので、とても疲れるのです。その方式が、年令を加えるごとに負担になってきたのだと思います。そもそも、人前で話すのは、好きではないし、向いていないのです。そう思いながら講義しているから、いっそうダメなのでしょう。

 教えることで勉強をしますから、自分のためにはなるのですが、そろそろ潮時かとも思っています。

2018年9月24日月曜日

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 光文社新書のこの本を借りて読んでいます。
 テニスのレギュラー、イレギュラーと同じように、立ち位置が変わりそうです。
 
 ①レギュラーだけ対応していた
  ⇒稚拙だった
 ②レギュラーに対応していたが、時にイレギュラーに対応することになった
  ⇒イレギュラーに慌てる
 ③イレギュラーに対応することを主にして、レギュラーはその延長線上
  ⇒すべてのボールをイレギュラーと思って構えるのです
  ⇒イレギュラーに慌てなくなる
  ⇒タフになる

 身体がついていくのと、頭の理解がついていくのと、両行なのです。自由自在に適応できるようになれば、身頭一体というのでしょう。

 ところで、目の見えない人は、見えないだけに、
  死角が無い
  表と裏が無い
  内と外が無い
 のだそうです。これって、老子の言うこととまるっきり同じです。「わたし達が得る情報の八割から九割が視覚に由来する」といわれるそうですが、老子の無心とは、もしかしたら視覚情報に惑わされるな、ということなのか?

 とても刺激になる本です(まだ読み終わっていない)。

2018年9月17日月曜日

温室の鍼と野生の鍼

 何度か書いていますが、島田先生が亡くなる前からテニスを始めて、おおよそ20年になります。

 最初は、ハードコート。途中から、人工芝コート。今年から、オムニ(土)コート。
 
 ハードは球足がやや速め。人工芝とオムにはやは遅め。

 速ければラケットを強くふらなくても当てれば返るのですが、遅いのはラケットを強く振らないと返らない。オムニのお蔭で、肉体的にタフになりました。

 ハードと人工芝はイレギュラーが無く、オムニはイレギュラー多し。

 イレギュラーがなければ、単一思考で済むので、頭は楽。イレギュラーがあると、レギュラーとイレギュラーを意識しなければならないので、頭はやや混乱。

 最初はイレギュラーに戸惑いましたが、今はイレギュラーがあるのが当たり前になり、冷静になりました。オムニのお蔭で、精神的にもタフになりました。

 温室で育ったのと、野生で育つのの違いかな。鍼灸にも、温室系と、野生系があるかも知れません。そう思うとおもしろみは尽きないのであります。ただの食い扶持にしているのは勿体ない。

2018年9月14日金曜日

稽古場横綱と場所相撲

 稽古場で強いが、本割の土俵で弱いのが、稽古場横綱。
 稽古場ではぱっとしないが、本割の土俵で強いのが、場所相撲。

 稽古場横綱の代表格が豪栄道、場所相撲の代表格が御嶽海。
 両者の対戦が6日目にあるが、この意味で、とても楽しみ。

2018年9月12日水曜日

上古天真論

 『医道の日本』に、上古天真論の解説を書いて、次号で全9回の連載が終わります。素人学問ですが、現時点の解釈をアピールしておきました。他の注釈書と比べても、新しい切り口でトライしてみました。

 経脈篇では、足太陽膀胱経を除いて、11本の経脈が横隔膜を貫いているのですが、かねてより、食道裂孔を手足太陰陽明、大動脈裂孔を手足少陰太陽、静脈孔を手足厥陰少陽が通過していると考えていたのですが、このたび出版された『閃く経絡』(医道の日本)に解説してありました。 はやく発表しておけば良かったと思いました。

 そういう意味で、9回の連載は、成果ありと思っています。『内経』を題材にして、治療家の心構えシリーズはまだ続きますので、定期購読をねがいたいところです。
 

2018年9月10日月曜日

全米テニス

 全米テニスで、大坂さんが優勝しましたけど、ぼくは、対戦相手のセリーナの激高が、印象的でした。コーチにアドバイスを受けた、だからペナルティーだと審判。受けていないいとセリーナ。審判との言い合いになり、興奮してラケットをたたきつけて、さらには侮蔑的発言をしたらしい。

 この一連のことがマイナスになり、墓穴となり、敗戦したのだとおもう。もしプラスになれば、結果はどうなったか。あんなに易々と負けなかったと思う。

 プロボクシングの誰かがいってましたけど、「強い者が勝つのがアマで、勝った者が強いのがプロ」と。プロの世界は、勝機は紙一重のところに存在するものらしい。

 弁証論治どおりに治るなら誰も苦労しないが、そうもいかないから紙一重のところに勝機をみつけるしかない。そのところを、九針十二原篇は「粗は関を守り、上は機を守る」というのでしょう。粗工は、弓を引くことだけに留意するが、上工は、勝機を得ることに注意する。

 関は弓を引くことで、弓を引いて相手を倒そうとすることだけしか考えていない。これがアマ。上工は、相手を倒すも倒さぬも、戦いに勝つことだけしか考えていない。これがプロなのだと思う。

 サッカーでいえば、ゴールを奪おうと攻撃しか考えないのが、粗工で。攻守両面に気を配り、勝つことに徹しているのが、上工。

 たとえば、腰痛。粗工は、直そうとやっきになるが、上工は、腰痛の原因を考え、治療するかしないかを決め、治療するならどういう作戦が必要なのか考える。治療してはいけない腰痛を治療しないことも、治療して直すことも、さらには養生指導することも、勝機をえることなのである。

 九針十二原篇は、手練れの作品、としか言いようがない。

2018年9月4日火曜日

『四季の味』

 本棚から、ふと、『四季の味』が出て来ました。元は、鎌倉書房から発刊されていたのですが、鎌倉書房が傾いて、ニューサイエンス社が発行を継続した料理雑誌です。20年ほど前は、定期購読していたのですが、いつのまにか読むのをやめて、すべて廃棄したのですが、ただ1冊だけ残してありました。それが、出て来たのです。

 小学校の同級生の色川秀行くんのお店が取り上げられていたからです。色川君は、その前年、『四季の味』で一年間巻頭カラーを担当していました。日本料理界では有名らしい。

 手元の1冊の巻頭カラーは、『美味しんぼ』にも取り上げられた西健一郎さんなのです。色川くんすごい。宮城県塩竃市に「千まつ島」というお店です。開店したばかりと、昨年父の33回忌で利用しました。

「本号でお取り次ぎする食器」という通販がすきで、ときどき購入しました。ベトナムのイム・サエムさんが好きで、食器を少しばかり買ったはずすが、今確認してみたら1枚もありませんでした。割ってしまったのでしょう。

 一時期は、食器集めをしましたが、今はぱったりしていません。包丁といい、食器といい、好きだったのですが、たましいがこもっていなかったのでしょう。飽きていないところをみると、古典にはたましいを込めているのかもしれません。


金沢 つる幸

 金沢の名料亭「つる幸」が11月で閉店すると、新聞記事。昨年の伝統鍼灸学会のとき、その脇を通り抜けたことがあり、「ここは金沢のセレブが利用するらしい」と話題になったのが記憶に新しい。富山石川のミシュラン二つ星を獲得したほどの名店だが、大おかみの体調不良、従業員の人手不足が原因とのこと。

 ミシュランをとることは名誉だが、味は落とせないし、従業員も確保しなければならないし、経営者には負担が大きくなるようです。従業員を増やさず、お客さんが増えれば、従業員の仕事が増え、不満もふえ、辞める。従業員を増やしても、お客さんが減れば経営が苦しくなる。経営者はたいへん。52歳の店主は、カウンター数席、一人で切り盛りできるお店を新規に開くとか。

 漏れ聞くところによると、ある治療院で従業員が一斉に辞めたとか、ほかの治療院ではぜんぜん人員が補充されないとか。この業界でも同じようなことがあるようです。経営者としては右肩上がりは望ましいが、経営が不安定では、治療家のこころも不安定になるでしょう。治療家の心がすさんでしまっては、元もこうもない。つまだつ者は立たず。とはよく言ったものです。



2018年8月31日金曜日

てんよ

 ところてん(心太)は、東北地方では「てんよ」といいます。テングサを材料にしているので、「てん」はわかるのですが、「よ」は意味不明です。

 夏休みのおやつはてんよでした。しょうゆ+酢で味付けし、ときおりむせてました。また、この時期はトウモロコシもありました。方言で「トウキビ」、子供達は「トウミギ」と行ってました。

 母方の実家は、松島湾内の離島でしたので、海水浴がたのしみでした。泳ぐというより、水遊びでしたが。浜の堤防は、三陸津波で壊されて、いまは新しいのができています。

 やはり夏なのか、ガザミ(わたりがに)がおやつの時もありました。おいしいと言われますが、小さい手足をホジくるのが面倒だった記憶があります。大ざるに山盛りありました。

 いまから50年前のおやつは、ごく自然なもので、自然の豊かさがあふれていました。たった50年で、大部変わりました。

 今の好物は、ぼっちゃんかぼちゃを、まるごと蒸かしたもので、栗のような食感で、おいしいものです。外で、手の込んだ料理も良いですが、シンプルに煮炊きしたもののほうが、相性が良いようです。そのほうが、カラダも喜んでいるような気がします。また、コンニャクに、自家製味付け味噌をつけて食べるのも、おいしいものです。

 昨日も、体操女子で、パワハラ問題が生まれました。上に立つ人は昔の意識のままで、若い人達が変化しているのに気がつかないのだと思いますが、スポーツ界全体として、東京オリンピックまでに古い体質を一掃しようという力学がはたらいているのだと思います。

 鍼灸界も風が吹くと良いのですが・・・

2018年8月30日木曜日

肥前 名護屋城

 先週末、久留米市で研究発表ののち、唐津市で宿泊しました。翌日は、肥前名護屋城に行きました。写真でみて何となく知っていたつもりでしたが、自分の想像を遙かに超えて雄大なのにはとても驚きました。

 ガイドさんに案内して貰って、たいへん勉強になりました。自分も、『内経』のガイドさんになりたいと思いました。

 全国の大名が、秀吉のむちゃぶりにしたがって、名護屋に戦陣を張ったのですが、その資金は人民から搾取したものだと思うと、ふくざつな気分です。表に見えているのが1で、その裏には99がある。研究発表も、準備が99で、発表が1という割合です。スポーツでも、練習が99で、試合が1ではないでしょうか。この眼で、自分を振り返ると、中途半端に学んで、中途半端な治療をしていたことが、恥ずかしい。


 

アジア大会 柔道

 柔道男子73キロで、3分の試合で決着がつかず、ゴールデンスコア方式の、無制限一本勝負みたいな延長に入った。決まったのは、都合11分後。

 昔は、3分の試合が終わると、判定になっていたけど、主観的な判定よりは、延長戦で、決まるまで戦うというゴールデン方式は、すがすがしくて良し。試合後は、両選手とも、立ち上がるのがやっとの状態。ただし、選手生命という点では、課題があるかも知れません。

 人間による判定では、忖度がまじったり、奈良判定とか、あまりいい印象はない。今後は、人間による判定に、ビデオを活用する方法が、加味されるのではないでしょうか。

2018年8月23日木曜日

「一」

金谷治『中国思想を考える』からの引用。

「実際、日本人は、選択好きなようです。日本人は、何でも比べたがって、どちらが良いどちらが悪いということをすぐ言いたがる。」
 
「(中国人は)まずは両方をそのままに認めます。両方がそれぞれに違ったあり方をしているのは、あるいは対立しているのは、~~一時的な現象だけで簡単に比べられるものではありません。」

 4月29日、日本内経医学会30周年集会で、黄龍祥先生が、『内経』のキーワードは気血だとお話されたが、会場から、「気と血どちらが大事なんですか?」という質問があったが、これが日本人の質問なのだなあと思い出しました。9月26日は、久留米の気血研究会で発表。テーマは、「東西医学の気」だそうです。なんでもかんでも「気」に帰一してしまうのは、どうなんでしょう。

 気だけでなく、一つの鍼法だけ。補法だけ。虚は陰経だけ。ということをよくききます。日本人は、淡泊に「一」にしているのでしょうが、老子がいう「一」は、「二」という区別をせず無にして「一」にしているもので、同じ「一」でもまるっきり違います。同じ「一」なので、同列のようですが、かたや浅く、かたや奥深い。

 どうせ「一」にするなら、奥深いのも欲しいところ。

 

2018年8月22日水曜日

陰陽虚実

 金谷治『中国思想を考える』(中公新書)の第三章に「対待」によれば、陰陽だとか、有無だとか、虚実もそうでしょうが、「ものごとを一面的にみないで両面を見、そのプロポーションを全体的に見ようとするゆき方です」を「対待」というそうです。両面思考ともいいます。

 陰陽、虚実、寒熱などで、この見方は身にしみているのですが、これに縛られたくないなあ、と思います。

 善悪:分ければ善悪の2者になりますが、たいていはルールをまもり、法律をまもって生きているのだから、いつもは善、まれに悪が行われるとかんがえると、善と非善と考えたほうがよいでしょう

 動静:生きている活動でいえば、大いに動く(動)、静かに動く(静)。寝ているのは、止まっている訳ではなくて、静かに動いている。という意味では、動と、非動とみなした方がよい。

 虚実:有余を実、不足を虚とするが、有余は大いに充実している(実)、不足は欠如ではなくて、充実がたりないという意味とすれば、充実と非充実ということば使いのほうが良いと思われる。虚実補写といえば、固定的に考え勝ちだが、一歩進んで、柔軟に考えてみたいものです。

 陰陽:易の陰陽では、必ずどちらかが存在することになるが、陽だけ、陰だけとも考えれる。たとえば、日向が陽で、日陰が陰。つまり太陽を陽として、日向が陽、日陰が非陽ということになる。昼と夜というが、昼目線でいえば、夜は非昼なのです。

 思想、思考方法は、たくさんあって、いろいろ学んで柔軟に対応したいのです。一つの考え方で固定し、それで強引に押し通すのは、力づくではないでしょうか。そういう意味で、陰陽五行盲信派には、つよい違和感をおぼえる。

2018年8月18日土曜日

山口・2歳児発見

 3日間行方不明だった2歳児を、大分からのボランティア男性が見つけ出した。それも、30分ほどでだ。
 
 それまで、県警、消防で、90人、140人、150人と、体勢を強化して捜索していたのに、男性がたった1人で、わずか30分で見つけ出したのだ。

 記憶にあるところでは、北海道七飯町で7歳の男児が偶然に発見されたのがだ、6日間のべ900人を投入してもみつからなかったことがある。

 今年の4月の愛媛の脱走囚は23日間みつからなかったし、最近では、8月17日大阪の富田林署から脱走したのも、まだ見つかっていない。

  能力の高い人材を投入し、人海戦術で捜索しているのに見つからないのは、どこかに落とし穴があるに違いない。 
 
① 捜索になれていない。主な業務は捜索ではない。ごく希な業務である。捜索感が無い。しらみつぶしに探せば見つかるだろう、という甘さ。

② ボランティア男性は、捜索になれている。感が強い。強い意志。見返りをもとめない純心さ。

 こういう所の差だろうと思う。いま、『医道の日本』で連載しているが、聖人というのは、ボランティア男性のような人を指すのだろうなと思った次第。

森進一

 今日のNHKで、森進一(70)が「おふくろさん」を歌っていた。森の目が小さくなっていて、母が晩年に「目が小さくなった」と嘆いていたのを思い出しました。しぼんでしまうのでしょうね。

 そんな森進一を見たら、父の顔に似ているのに気がつきました。あんな感じだったなと。

 大正6年生まれは、丸山昌朗先生と同じ。享年は68で、島田先生と同じ。40歳すぎて、仙台の赤門に入学した、当時としては奇人。五体満足な壮年の仕事ではないので、どういう理由で、この世界に飛び込んだのか。聞かずじまいでした。

 兄の名前は宏基、弟の名前は寛三です。今でこそ、似たような名前はあるでしょうが、当時は、~男、~雄が標準でしたから、珍しい名前でした。ちょっと、世間とはズレている父親だったのでしょう。

 わが家の長男は医師、長女と次男は鍼灸師となりました。この辺りは父親の遺伝子なのでしょう。この3人は、奇人では無いので、この辺りは受け継がなかったようです。これからどうなるかわかりませんが・・・

2018年8月14日火曜日

傍目のこごと

 当事者より、そばで見て居る人のほうが、冷静な判断ができるようで、当事者は廻りが見えないのでばたばたするばかりです。

 沢庵和尚も、禅僧なのですが、医学をよく勉強しています。しかし、医学どっぷりではないので、冷静で、客観的な指摘にあふれています。米国のT氏も、臨床家ではないのですが、なかなか正鵠を得た見方をします。ありがたいことです。

 素人の視点で恐縮ですが、日本鍼灸の大きな特徴であり、また弱点でもあるのは、「医術(=芸術)」であって「医学(=科学)」ではないことにあるのではと感じています。

 かつて、技術は、師弟制度で伝承されてきましたが、現在は学校制度になっていますので、師弟制度ほどには伝承されていません。なので、みなさん、勝手気ままに自己流を発揮しています。勝手気ままな治療は、社会的に信用されるでしょうか? 

 学校制度になったのですから、知識教育に重点をおくべきなのです。が、その学問が未熟だし、教える方も未熟だし、教わる方も未熟だし。3未熟のせいで、もしかしたら、日本鍼灸は衰退するのではないでしょうか。今後、日本鍼灸術を維持しつつ、日本鍼灸学を確立せねばならないでしょう。

2018年8月11日土曜日

人は見た目によらない

 先生は普段何食べてます?
 なんでも食べますよ。朝はパンとコーヒーですね。
 パン食べるんですか? コーヒー飲むんですか?
 どんな風に思っていたんですか?
 玄米食べていると思ってました。洋風なもの絶対食べないと思ってました。

 僕の印象を、みなさん同じようなことを言います。
 
 料理はするんですか?
 しますよ。以前は、食事当番がありましたし。お魚もさばきますよ。
 ええ!
 子供のときから、母親の食事したくの手伝いしてましたので。
 
 アラカンが家事(料理、掃除、洗濯、育児)するのは、珍しいようです。ぼくは、何とも思わないのですが、家事は男子がするものじゃない、お説教する方もいます。

 料理といえば、以前は、注文した鮮魚が山形から月一で届きました。鮭一匹というのもありましたし、いわがきとアワビのセットもありました。ハタハタもありました。鱈一匹もありました。なので、出刃包丁と、小さいもの用のあじ切りと、刺身包丁ももっています。いまは、頼んでいないので、使うことはありません。包丁でいえば、中華包丁、なっ切り包丁、三徳包丁、牛刀、フルーツナイフ、パン切りナイフもあります。しかし、魚もさばきませんし、いろいろ料理もしないので、三徳包丁とパン切りナイフがあれば、日常で困ることはありません。

 そういえば、この図式、鍼の歴史と同じかもしれません。あらゆる病気に対応しようと九鍼が考え出された。のちに、生活が代わったのか、湯液が普及したためか、毫鍼で間にあう病気だけの治療になった。あるいは、毫鍼法が深化したともいえます。

 脱線しましたが、自分が思っている自分像と、他人が思っている像とは、大分違うのですから、他人の目を気にしたって、あんまり意味がないかなと。


 
 

2018年8月8日水曜日

天寿

 天寿とは、自然の寿命を言い、100歳を指します。天年ともいいます。天寿を全うするまで、あと38年。先はながい。

 わが家は建てて20数年。ここ1,2年で、壁をぬりかえ、クーラーを取り換え(1台)、トイレの水洗部品交換(2台)、台所の蛇口の取り換え。近い将来に、冷蔵庫の取り換え、クーラーの取り換えが、差し迫っている。

 20年後も同じような、取り換えラッシュになるものと思われる。この家に、あと38年住むならば、自分の身体だけでなく、家のメンテナンスは欠かせない。その他に、財布の養生も必要だし。

 と思うと、もっと冷静になって将来を考えるか、そんなこと投げ出して全く行き当たりばったりに生きるか。(と、台風上陸を前にして考えました。)

 

 

2018年8月5日日曜日

ルッキズム

 容貌(見た目)による差別を、ルッキズム、外見主義、外見至上主義というそうです。外に出れば、いつもルッキズムをしてます。ただ、声を出して言わないだけで。

 6月12日東京新聞の、精神科医の香山リカさんの記事ではじめてしりました。大学の授業で取り上げたそうです。学生は、たしかに、マイナスの評価はしないとして、プラスの評価ならいいじゃない? とあまり納得できないようだったとのこと。

 たしかにほめるならば悪いことなさそうですが、記事では、プラスであってもマイナスであっても、見た目の評価をしないようにしましょうとありました。

 かつて、娘が、(ほめたつもりで)欧米人に、鼻が高いですね、といったら、嫌みか?と言われたそうです。180センチの人に、背が高いですね。といっても、背が高い人はもっといるので、ご本人は背が高いと思っていなければ、ほめ言葉にもなっていない。

 美人さんは、どうしてもほめたくなるのですが、そう思っていない人には、迷惑なはなし。キムタクは、自分の鼻が電気ポットみたいな形なのでイヤなのだそうです。だから、美男子とほめても、複雑な心境になるのではないでしょうか。

 ほめられるのが、うれしい人がいるでしょうけど、迷惑な人もいるのです。やはり、外見の評価をしないほうが良いでしょう。ただ、評価は無意識にしているので、評価をしないというのは、なかなか難しい。

  こうした、高い・低い、美人・非美人の、区別をしないのが良いというのは、老子の考え。区別すれば、良いほうに気持ちがかたむきます。見方が偏るという意味で、偏見が生まれやすいのです。偏見差別をしていないと思っていても、身近な所で毎日たくさん偏見差別をしているのです。なので、『老子』48章は「日に損し」といって、捨て去ることを奨励しています。

2018年7月23日月曜日

想定外

 だいぶ暑いですねえ。今までの夏とは、確実に違う。雨の降り方も、今までとは確実に異なる。とは、みなさんの実感だろうと思います。

 それなのに、待ち受けるこちらは、今までの気持ちのまま。変化しているのに、危険が押し迫っているのに、いままでの安穏の気持ちのまま。災害対策の第1は、意識改革だろうと思います。病気で言えば、病気になるのを静かに待っているのと同じで、予防は積極的にすべきなのです。日本人全体、安穏としすぎているのかも知れません。

 未病は、東洋医学から発信しなければならないのに、東洋医学者が手をこまねいているのは、これまたのんびりとしているというか・・・

 で、災害がおきると、想定外として、「天」のせいにし、難病だ、奇病だと、また「天」のせいにするのですが、「天」につば吐く所業ではないでしょうか。

 夏の甲子園。今までならいいでしょうが、今後は、時期をずらすべきですし、東京オリンピックも、非常におそろしい。いずれにしても、天候が変化しているのだから、今まで通りに安穏とはしておれないぞ。とひしひしと感じています。

 きょうは、埼玉県熊谷市で、41.1度の、最高温度でした。テレビでは、危険を連呼していました。ソフトテニスの大会では、7人の選手が熱中症で搬送されたとのニュース。

 

2018年7月17日火曜日

ランクルピックアップ

今朝(7月17日)、目の前の通りを写真のような車、通過。
14年(H26)8月、新型時のフロント。仕様はグレードにより異なります
しらべてみると、ランクル70ピックアップという車種で、5MTで、4000cc。燃費は6.6/Lと、良さそう。

外見からエンジンまで、無骨一点張り。ちょっと乗ってみたいが、死ぬまで、使えそう。

2018年7月9日月曜日

ベンツ 190E

 今から30年ほど前に生産されていたベンツ190E。状態が良いく、白くきれいなのが走っていました。よほど好きなんですね。

 30年ほど前は。
  下取りがいいからと3年で乗り換え。
  下取りがいいからとトヨタ車一辺倒。
  下取りがいいからと白いくるま。
 と、当時は、好きで乗っている感は全くなし。浮雲の如し。

 知人の○○さんは、ロードスターで買い物に行くそうです。ときにオープンにすると、気持ちいいんだそうです。病気したので、前の車(レガシーB4)を手放したけど、治ったので、ロードスターを買ったといいます。くるま好き、たましい発信男です。
 

2018年7月6日金曜日

禹は吾れ間然する無し(『論語』泰伯)

 禹とは、治水事業に尽力した古代の聖人。「禹は吾れ間然する無し」とは、禹に対して「非難するスキがない」と孔子。なぜならば、「力を溝洫に尽くせり」。つまり河川を整備して洪水対策に全力を注いで、大勢の国民の生命を守ったのです。

 テレビでは、特別大雨警報が、流れている。毎年、この時期に、大雨被害が続いているのに、毎年、手をこまねいている。いつも、後始末で、終わらせている。大地震が来る、津波が来ると言っているのに、何の対策もしていない。

 何という国なんだろう。智性のある国と思えない。国民に智性が無いとしても、一国を束ねる人は、禹のように、自然災害対策を講じて欲しい。急いで。

 と願っても、一国を束ねるひとが、しっかり「私」を持っているようでは、天下の仕事はできない。こういう歯がゆい状況が続くのかと思うと、いっそう歯がゆい。

さすらいラビー

 新聞の記事なのですが、さすらいラビーというお笑いがいるそうです。一人は、青学大卒、一人は、一橋大卒。いわゆる高学歴芸人。その入門時のエピソードが印象的。

 その1人が、女手ひとつで育ててくれた母に伝えたとき・・「記憶にあるのは、翌朝にみつけた、母が投げたであろう、炊飯器の残骸と障子の破れた跡。」

 もう1人の場合は、「芸人になるなら家を出ろ! という父の怒号。母の涙。」

 今から50年位前は、五体満足な青年が、あんま、鍼灸をやるといえば、反対されました。世間は、真っ当な仕事とは思っていなかったのです。時代が代わって、いまは、いい仕事と思われているらしい。

 そんなことだったので、この記事は、印象的でした。せっかく、育て上げた、出来の良い息子が、お笑い芸人をめざすだと。「ちくしょう~」。母親は一晩中泣いたかも。


2018年7月5日木曜日

鈴木大拙『無心ということ』

 角川ソフィア文庫の、同著を買いました。全6講、全79の短文で構成されています。自序によれば、東京の同信会という東本願寺の信徒諸君、知識階級の方々の要請による講演を文字化したものである。

 昭和19年の講演だから、きっと、配布資料なしで、ただ聞くだけの講演だとおもいますが、読んでも中身が濃いのに、これを聞いて理解しているとしたら、東本願寺の信徒という方々は、相当に知的です。

 この文庫は、平成19年に発行されてから、平成29年で20刷を数えている。半年に1回、増刷を加えている。鈴木大拙が良いのか、無心というテーマが良いのか。しかし、無心を説明するのに、大拙で、6講を要するのですから、かなり偉大なるテーマだということがわかります。

 短文で構成されているから、空いた時間にこまめに読めば良いのですが、空いた時間くらいでは1文すら読み終えず、なかなかの難行なのです。




2018年6月20日水曜日

腹診ーお血

 寺沢先生の本で、腹診を学びなおして、2年余。本日はお血。岡田耕造『定本 お血という病気』によれば、中国南方地域と日本は、お血由来の病気が多いという。

 中国南方といえば、九鍼が生まれ出た地域。九鍼を使った流派は『霊枢』では多数派なのに、現在の教育が毫鍼だけしか教えないから、本当の鍼の能力を引き出しているとは思えない。

 病気の本源は五蔵にあるという蔵象派は、『素問』で多数派。陰陽五行説を使っていて、学校教育でもおなじみ。おなじみなのに、お血由来の病気が多いという現実とは、あまりマッチしていない。

 日本では、自然災害が多い。他の国とは圧倒的に違う。なのに他の国と同じような政策をしていたのでは、自然災害にきちんと対応できないでしょう。自然災害優先の政策をしてほしい。古いブロック塀を放置していた政策がうらめしい。

 という意味で、お血を放置しておくことは、日本鍼灸の損失だとつくづく思う。

2018年6月17日日曜日

日暮里 一力

 今や、世界級になったラーメン。その原点のようなお店が、日暮里の一力(いちりき)。日暮里の至宝にして、絶滅危惧種。5年くらい前は、ご夫婦で営業してましたが、ここ2年くらいは、奥さんのみの営業(80歳前後か)。繁忙期は息子さんが手伝うこともあるけれど(息子さんは勤め人で後を継がないとのこと)、あと何年営業するのか、心細い。(運が悪いのか)お店は閉じていることが多い。

 昨日はひさかた振りにヒット。昔は中華料理屋だったらしく、店内には色々なメニューが張り出してあるが、いまやラーメンとギョウザのみ。具は、小さいチャーシュウ、なると1枚、小松菜少し、メンマ少々、ネギ少々と、必要最低限のラインナップ。スープは、とりがら+とんこつの、透明で、見た目通りのさっぱり味。こういうスープには、なかなか当たりません。

 いつもは、塩分過多を案じて、スープを残すのだが、昨日は、これが最後の一杯になるかも知れないとおもい、魂を込めて、完飲。


2018年6月13日水曜日

ヨイトマケ

 建築で地固めのときに重い槌を数人で上げ下げする労働を「ヨイトマケ」といいます。西岸良平の『三丁目の夕日』に昭和30年代の一こまがある。


 1966年のヒット曲、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」
  おとちゃんのためならエンヤコラ。
  おかちゃんのためならエンヤコラ。
  もひとつおまけにエンヤコラ。

 1877年のモースの記録にもみえ(『日本その日その日』東洋文庫)、少なくとも江戸時代から続く労働風景なのでしょう。

 変な、単調な歌が唄われ、一節の終わりに揃って綱を引き、そこで突然縄をゆるめるので、錘(おもり)がドサンと音をさせて墜ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まことに莫迦らしい時間の浪費のように思われた。時間の十分の九は唄歌に費やされるのであった。

 労働者たちが、二重荷車を引っ張ったり木梃(てこ)でこじたりしていたが、ここでも彼らが元気よく歌うことは同様で、群を離れて立つ一人が音頭をとり、一同が口をそろえて合唱すると同時に、一斉的な努力がこのぎこちない代物を六インチばかり動かす、という次第なのである。

東洋文庫は3冊本なので、もっとこういう記録はあるかもしれません。エンヤコラは、力を込める時のかけ声なのでしょう。せわしく、ドサン、ドサンと落とすのではなく、やすみ休み、間を置いているので、非効率的に見えたのでしょう。また、何かの歌をうたって、15センチ動き、また歌をうたって15センチ動く。これまた、非効率に見えたでしょう。民謡のソーラン節、木遣り歌などの労働歌が、その名残りなのでしょう。「せっせせーのよいよいよい」というかけ声もありました。「じゃんけん(ぽん)」もそうか。

 実際に労働しているのが「実」だとすれば、その間が「虚」と考えると、味わいが深い。そういえば、鍼でいえば、前揉撚が虚の作業で(日曜日に『霊枢』刺節真邪篇を読んだばかり)、実際に刺すのが実の作業。日本では虚実行うが、中国では実しか行わないのは、『内経』の刺鍼法とはおもむきを異にしている。

 

2018年6月8日金曜日

とんかつ丸五

 先月のはり灸祭(湯島聖堂)の帰りは、秋葉原まで歩きました。秋葉原のとんかつといえば、丸五さん。かつては、木造2階建てでしたが、今はコンクリ造りの2階建てになっていました。おどろいたことに、10人が並んでいました。それが、みな外国の人でした。秋葉原全体でも、日本人は少なく、圧倒的に外国の人で埋まっていました。10人も並んでいたので、丸五さんに寄りませんでしたが、味が変わっていなければ良いなあと思いました。世は、行列ができると評価が高まりますが、どう考えてみても、忙しくなれば、心が荒れ、味は落ちるんではないか。

 個人的には、営業日を限定し、営業時間を限定し、お客さんの数を限定しているお店のほうが、好きなのです。作り手が、自分の体調、心の余裕などを重んじているところが、好ましい。

 いま、岡本一抱の著作の校正をしていますが、著作ばかりしているから、臨床家ではない、臨床は下手だと思われているようです。臨床数が多いのが上手で、臨床数が少ないのが下手、という単純な評価ですが、それはきっと勘違いだとおもいます。岡本一抱は、数多くバッターボックスに立つ選手ではなくて、代打できちんと結果をだす選手なのです。打数をかせいでいる凡医とは違うのです。

 たくさんの知識があり、その上、頭脳明晰であれば、考察が適切ですから、治療方針も的確なのです。最適な治療穴が決まれば、誰が治療しても、一定の効果は得られるはずです。たとえば、おきゅう。ひねって燃やすだけですから、熱さのばらつきはあっても、技術に目くじらを立てるほどではありません。むかしは、治療穴を印して、施灸は家庭ですることもあったのですから。

 矢野白成『鍼治枢要』を読んでみると、患者さんに鍼を渡して、自分で治療するように指示する場面があります。治療は技術だけできまるものではなく、むしろ的確な治療方針をきめ、最適な治療穴を選ぶのが一番むずかしいのです。
 
 いま、技術が優れ、患者さんの数や収入が多い治療家が、もてはやされますが、どうなんだろうと思っています。霊性とか、品性とか、奈辺にありや。
 






2018年6月4日月曜日

山形県置賜郡川西町の良い香り

 山形県米沢藩は、伊達政宗が治めていたが、豊臣秀吉の命で、宮城県岩出山に転封になった。その際、部下のみならず、職人衆、さらには神社・仏閣まで引きつれて、岩出山に移ったという。その部下の中に、宮川家の祖先がいた。というのが弟の推測で、その現地調査に、先月同行した。

 父が生まれた宮川家は、宮城県矢本町小松地区で、その小松という地名こそが、転封前の米沢藩の置賜地方の地区で、山形県川西町の小松城がそれである。城の後方では新山神社が控えている。矢本町にも新山神社があるので、小松という地名と合わせても、そうとう確からしいという。確からしいけど、証拠らしきもの在らず。

 それはそうと、車の窓をあけると、桜の木のにおいが入ってくるんです。それが、どこまで行っても、途切れないのです。しあわせなひとときでした。あの当たりは盆地なので、その凹みの底に、桜のにおいが溜まっているのかもしれません。サクランボの産地だからだろうと思います。いろいろ、あちこち、旅行していますが、ベリーグットな経験でした。ちなみに、成城学園は花のにおいがいつも漂っています。

 帰ってきたら、東川口は好きでない臭いが漂っていて、残念。しかし、今日は、その臭いは分かりませんでしたから、何時もに戻ってました。

2018年5月28日月曜日

上々の精工

『老子』45章に「大巧は拙きが若し」とある。

この部分の森共之(『老子国語解』)の解釈。

・小し智のある者は。己(おのれ)過ち有るときはあやまちと。人にしらさぬやうに。いひまぎらかせども。
・大智の人は。つくろひなく。過ちは。あやまちにして。速かに改めて。いひまぎらかしかざることなきに依て。拙きか若く見ゆる也。
・巧は細工の上手也。智巧は智慧才覚の。たくみなる也。
・拙は細工の下手也。又何によらず不調法なるを云。
・此の一句智の拙巧のみのことに非ず。上々の精工は。けつく(結句)不調法に見ゆるもの也。 

 もりかけ問題でいえば、「小し智のある者」は首相で、うまいこと言い紛らかしているけど、姦智(邪な知恵・悪知恵)なること疑わしく、かえって何時までも詰問を受けるはめになっている。小智がはたらいて、謝るタイミングを失ってしまったか。アメフト問題で言えば、日大の選手は、まさに大智の人。本来責めらるべき人だが、かえって高評価である。今回ばかりは、『老子』の言う通りと、合点したところである。

「上々の精工は。けつく(結句)不調法に見ゆるもの也」という文章で、妙工を連想した。妙工は、いかにも流麗な技術を持っていそうだが、そうではなく、不調法で、つたないように見える(こともある)。粗工と妙工の違いは、技の巧拙ではなくて、何か考えているか、たとえば「上手そうに見せようという意識」が有るか(有心)、何も考えずに行っているか(無心)、なのである。

 粗工、上工という表現があるところをみると、『内経』の時点で、こういう事が、はっきりわかっていたのでしょう。



2018年5月26日土曜日

妙工

鈴木大拙『東洋的見方』
「芸術ではテクニックということをいうが、そのテクニックでも、単にテクニックだけではだめで、その熟練がいくらあっても妙というものはそこから出てこない。そこにはやはり形而上学的無意識というものが働かんといかん。そこから出る者を妙という」

森共之『意仲玄奥』

「無にして刺し、無にして出すと云こと、凡そこの道理に通達せざるものは鍼工と云に足らず。また病を治することかたかるべし」


 テクニックのゴールは熟練工。

 それだけでは限りがある。無意識がはたらいて妙工、無心がはたらいて鍼工となると、別のステージの治療家ができあがるわけである。

 妙工は、『霊枢』九鍼十二原篇に「妙哉工独有之」とみえる。ただしくは「妙哉上独有之」であるが。

 「妙」これは上工だけが所有しているのだ。

 つなげてみると、『意仲玄奥』がいう鍼工は、妙工であり、『霊枢』九鍼十二原篇でいえば上工である。熟練工とは別次元の治療家なのである。次元が異なるので、要するに相手にならない。よって「鍼工と云に足らず」と素っ気ない。


 これで何となく、『意仲玄奥』の「無にして刺し~~」が分かったような・・・




2018年5月24日木曜日

高千穂在来

 この5字をみて、すぐ分かる人は、相当のそば通。その土地で昔から作られていたそばを在来といいます。高千穂在来は、宮崎県高千穂郷で作られた蕎麦です。収穫量が少ないかわりに、味と香りが濃いのが特長です。食べる機会が稀なのが、唯一の欠点です。

 今のそばは収穫量が多くなるように改良されたもので、味と香りは在来種からだいぶ落ちます。こちらのそばは、どれだけ背伸びしても、在来種にはかなわないでしょう。その分、おつゆとか、出しとか、総合で勝負するしかないと思います。

 在来をたべると、次元が違うなあ、とつくづく感じます。

 鍼灸師でも、次元が違う人はいるんだろうな、とつくづく感じます。たとえば、『意仲玄奥』が「無にして刺し、無にして出すと云こと、凡そ此の道理に通達せざるものは鍼工と云に足らず。又た病を治することかたかるべし」というのがそれです。無じゃない人を、まるっきり相手にしてません。

 スペインのサッカー選手が、神戸のチームに入るという。風貌は、素朴そのもの。虚飾らしきものみられず。となりに居た楽天の社長は真反対。うさんくさそう。(どちらもお金持ちだとしても)次元が違いそう。
 






2018年5月14日月曜日

真気というもの

 真という字は、道家文献(『老子』や『荘子』)に限定的に使われる、という特長がある。『内経』にも使われているから、きちんと理解するためには、道家思想を学ばねばならない。

 真は、道と同義で、真気とは道の気ということになります。道の説明は端折るとして、道と自然は同義とされていますから、真気とは自然の気とも言えます。
 (真気=道の気=自然の気)

 太陽がめぐりで、四季が変わるのは、自然の気がそうさせている。
 植物が、葉を出し、花が咲き、葉を落とすのも、自然の気がそうさせている。
 人が生まれて成長して老化して死亡するのも、自然の気がそうさせている。
 飲食をして、消化吸収して、体が営まれているのも、自然の気がそうさせている。
 体がいつもどおりに営まれているのも、自然の気がそうさせている。
 怪我をしても病気をしても治るのも、自然の気がそうさせている。

 自然の気を、医学的にいえば、真気ということになる。
 自然の気を、邪魔するもの、それが「心」。だから老子は盛んに無心を説くわけです。
 有心になるとどうなるかは、治りが悪い、いつもどおりではない、体が営まれない、早く老化する、という結末にいたる。ということを老子は気がついたらしい。

 半月ほどまえからじんましん。昼となく夜となくかゆい。原因をさかのぼれば、30周年記念事業。そもそも人前で話すのがストレス(有心)。真気(自然の気)を損なったので、いつもどおりの営みができなくなっているようです。消滅するのを、自然に待つしかないでしょう。真気というものを(じんましんのお蔭で)とても実感しています。

2018年5月7日月曜日

山を平らに歩く

 近年、イノシシやシカが増えて、農業に大きな被害が出ているとのこと。原因の1つに、高齢による猟師の引退があるそうです。同時に、後継者難と。では、若者に免許を取らせて、猟師を育成すれば良いではないかと思うのだが、1つの関門があるそうだ。

 それは「山を平らに歩く」ことだそうです。どんなに起伏があっても、平地のように軽々と歩けなければ、猟師にはなれないのだそうです。山を平らに歩くには、やはり若い時からの不断の訓練が必要で、定年退職して時間ができたから猟師をやろう、とは行かないのです。

 中国医学古典では、すでにある『内経』以来の文献のほかに、出土文物というモノが追加されているから、研究の守備範囲はだいぶ広くなっている。それに追いつくには体力がいるが、その体力を鍛えていないので、遠ざかっていくのを見送るしかない。

 中国医学古典を勉強するには、「古典を平らに歩く」という体力が求められる。その代表が、医古文学であるし、内経学である。この意味でも、「内経学」の確立は、急務だなあ。



鈴木大拙『東洋的な見方』

 岩波文庫の『東洋的な見方』は、いくつかの短い文章の集まりです。読むごとに、印象的な文章が異なるのが、自分では面白い。何度も読んでいるのですが・・

 以前には、禅に関する文章をよく読んでいたが、いまは浄土にかんする文章が面白い。印象をいえば、『老子』と浄土と、『荘子』と禅とが、一脈通じているようである。今とりくんでいるのが『老子』なので、自然と浄土に手がゆくのです。

『荘子』は、森共之先生が、「されば。老子と論語とは平易也。孟子と荘子の書は険詖也」というのが頭に残っていて、読んでいて面白いけど、手を出さないことにしている。

 険詖(けんぴ)とは、心がねじけて、よこしまなこと。性質が陰険で邪悪なこと。共之先生の批評はだいぶ厳しい。共之先生に言わせれば、老子は余計な知識、言葉は無用というのに、ムダにお喋りしている荘子は、いかにも老子の考えを踏まえていそうだが、老子の後継者じゃないのである。

 今回は、『東洋的な見方』「自力と他力」が心にしみました。こういうのが読めるようになったのも、嬉しいでした。

2018年5月3日木曜日

私利私欲・自己顕示欲

 自分の知識のために、自分の臨床にために、古典をよむ。それで完結しておきたいのはやまやまなのですが、冷静にみれば、それは私利私欲であり、『老子』をよむ者失格なのです。しかし、自分を顕示したり、手柄話らしく誇ることは、同じく『老子』をよむ者失格なのです。

 こんなことを考えて悶々しているわけなのですが、今、『医道の日本』に連載しているのは、『老子』にどう向き合うか、の試みなのです。私利私欲なのか、自己顕示欲なのか。

 専門家でもない者が、わかった風で古典解説するのはどうなのか。しかし、踏み込んで読んでいるのだから、専門家でなくても発表しても良いのではないか。発表した内容に対する、批判、批評がこわいかも知れない。

 かりに自分が発表したものが仕様もないだとしても、それが切っ掛けで良いものが生まれるならば、結果オーライなわけです。このように悶々した結果、『医道の日本』に発表しています。悶々したお蔭で、ふっきれたのです(いっときですが)。

 

 

2018年5月1日火曜日

『内経』を読み解く鍵は、血気、脈だ。

 昨日は、黄龍祥先生を招いての講演会、シンポジウムが行われました。先生は、長年の『内経』の研究から、『内経』を読み解く鍵は、血気、脈だ、と宣言しました。

 会場から、先生のおっしゃることは、九鍼十二原篇の「粗は形を守り、上は神を守る」と同義なのですか、という質問があり、黄先生は、その通りだ、とおっしゃった。

 しかし、質問者の意図と、黄先生の含意が、よく分かりませんでした。

「粗は形を守り、上は神を守る」にひとこと。

 九鍼十二原篇は、兵家思想を基盤にして書かれている。(この前提で読むと)「粗は形を守り」、粗工は、兵隊の数とか陣形といった現象(形)を観察する。「上は神を守る」は、上工は、この戦いの神気を観察する。

 サッカーの試合でいえば、先発メンバーのことや、向こうの作戦ばかりを重視する監督は、粗工である。勝ち負けは、一つのパスミスや、1人の戦意喪失で決まることが多い。これを神気を失うといいます。1人の果敢なプレー、タイミングの良い選手交代によって、戦局が逆転することもある。これを神気を得るという。このことを、上工は神を守るというのだとおもいます。

 神を訳せば、勝ち負けの転機でしょうか。病気が治るか、治らないか、その転機のことを神と言うのです。そうすると、気や血という問題ではないのですが。

2018年4月24日火曜日

和田東郭『蕉窓雑話』

 和田東郭、『蕉窓雑話』を知らなければ、漢方界ではもぐりと言われるほど、著明な名著なのですが、鍼灸界では、知る人稀なる名著なのです。

 東京衛生学園臨床専攻科第10期の生徒達と勉強会を始めることになり、題材を『蕉窓雑話』にしました。勉強会は自然に消滅しましたが、とても勉強になりました。個人的にでも、全体の半分も読み終わっていないでしょう。いつか、きちんと読みたい名著です。

「常々、手心(たなごころ)に熱ある医は、得て人の体に熱もなきを、熱ある如く思ふことあるもの也。かやうなる人は、つねに心得て手背にて熱のもようを候べし」

 ぼくも手背で皮膚の熱と冷えを診るうかがう習慣になっていますが、200年も前に開発されていまようです。早い段階で、この本を読んでおくべきでした。

「身柱の穴に灸すれば・・・心下をひらく也」
 心下痞硬の治療には身柱は欠かせないということです。(ただし身柱固定ではなく、身柱以下筋縮当たりまでが対応しますが。反応次第)。身柱は、小児治療には欠かせませんが、小児の病気のおおむねは胸が痞えていると予想できます。心下痞硬は、叩打診で簡単にみつかります。

 ちょっと拾っただけで、とても勉強になるのが、『蕉窓雑話』なのです。和田先生が、合理主義者なので、説明がとても分かりやすいのです。たっぷり時間をとって読みたい名著なのです。



2018年4月16日月曜日

森共之『老子国語解』三校終了

 森共之(森立之の祖父)の講義録『老子国語解』。データ入力は、一昨年末で終了し、昨年まるまる、そして今年と校正作業を継続中。今日で3回目終了。A4版で170ページもある力作で、内容が濃いので、校正しながら読み、読みながら校正しと、足ふみふみしながら、本日終わりました。

 校正作業は、ムダな作業のようなので、好きなのです。ムダな作業が嫌いな人もいますから、おすすめしません。タケシは、「ばかじゃないのか」と言われるのが、いちばん嬉しいそうです。お笑い芸人は、笑われてナンボですからね。

 『老子経国字解』は、『老子』研究30年の成果だそうです。僕みたいにダラダラ研究ではなくて、根を詰めての研究ですから、深耕ぶりには、頭が下がります。共之は、代々の鍼師で、鍼治療には無心が欠かせないとのことで、『老子』を研究したのです。気合い入ってます。

 無心については、『医道の日本』で、先月号から始まった『素問』上古天真論の解説で取り上げていますから、興味がある人は読んでください。森共之先生に怒られそうな内容ですが・・・

 

2018年4月2日月曜日

日曜講座

 日本内経医学会の第2日曜日開催の日曜講座は、原宿(区民会館)→新大久保(東洋鍼灸専門学校)→大森(鷲会館)→早稲田(日本医学柔整専門学校)と遍歴し、今年度から港区白金の北里大学薬学部に移ります(4月8日)。

 北里大学附属北里研究所は、小曽戸先生がひきいる医史学の本丸があります。日本内経医学会が設立して30年、そこで日曜講座ができるのですから、まことに慶賀事なのです。といって、慶賀と浮かれている場合ではなく、これを機に、『内経』を一層深化し、鍼灸医学をさらに進化させようではありませんか。
 
  


 

2018年3月30日金曜日

ザイフリボク

 写真は台所の窓からみた満開のザイフリボク(采振り木)です。バラ科で、少し早めに咲きました。わが家では、サクランボが先に咲き、つぎにザイフリボク、さらにモッコウバラ(木香薔薇)と、バラ科の花が続きます。

 写真は上から見たものですが、下から見たり、横からみたり、味わいが大分ちがいます。今回は「覗き」のアングルにしてみました。


 サクランボは、隣家との間にはさまれて、人知れず咲き、人知れず散っています。ザイフリボクは歩道に面していますので、一時ですが脚光を浴びています。しかし、散ることはどちらも同じで、1年のうち、98パーセント(の日数)は、静かにしています。いつまでも咲いていて欲しい所ですが、わずかの期間咲く所に、味わいがあるのでしょうね。


2018年3月26日月曜日

我独りくらきがごとし

『老子』30章に「俗人昭昭して、我独り昏(くら)きがごとし」、みんなは陽気で、ぼくだけが陰気だとあります。前後の文章も、周りのひとは楽しそうにワイワイしているが、老子だけが陰静な立場を取っているという表現がつづく。この文章を読むと、老子は陰気で偏屈な人という印象を持つが、そこは本意ではないだろうと、桜の花をみて考えました。

『老子』26章に「(君子は)栄観ありといえども、燕処して超然たり」とあります。森共之がいう。みごとなる見物有る時は、衆人は我れ先にとさわぎ立て、競い見れども、君子たる人は、それには目はくれず、衆人の上に超出し、重く静かにして安処(をちつきおる)、と。

どこどこの桜が見事だ、きれいだと、気を走らせ、心を奪われることなく、落ちついて、冷静でいるべきだ。この時期、この警句を思い出します。

 東洋医学の診察でも活かされます。主訴にふりまわされるな。特定の診察に拘るな。視野が狭くなって、見えるものも見えなくなるぞ。ありとあらゆる角度から落ちついて診察して、冷静に病像を明々白々にする。これが東洋医学の本質ではないでしょうか。

2018年3月25日日曜日

養心養生2

 心理的ストレスがあるかどうかのチェックポイント。
その1。みずおちを叩くと不快や痛いがあるかどうか。→経験上。
その2。胸骨の中央(だん中の周辺)を押すと痛いかどうか。→鍼灸医学的に。
その3。その2の裏側として背中がこっている、つまっているかどうか。→鍼灸医学的に。
その4。ほほが固い・痛いかどうか。→顎関節症の人。
その5。こめかみが固い・痛いかどうか。→顎関節症の人。頭痛の人。
その6。頭頂部の皮が固いかどうか。→脱毛症の人。

 専門家でないと判定しにくいのですが、その1とその2くらいは、分かりやすいです。もしいくつもの項目が該当するようですと、心の処方箋が必要かも知れません。

 ほおっておくとどうなるか。
その1。生活が乱れる。→生活習慣病になる。
その2。心がすりへる。→意欲低減。
その3。心と体がバラバラになる。→快食快便快眠ができなくなる。
その4。心の病気になり、体が動かなくなる。
 全体としては、直しにくくなります。へばりついているので、取りのぞくのが困難。軽くみて、あなどっていると、大変なことになります。初期からの心のケアがなにより重要。

 以上のようなことを考えると、養心養生の確立が急務であることは、自明。チェック1~6で、チェックできるのですから、心の問題は、鍼灸医学者の責務なのかも知れません。

養心養生

 今日の勉強会(灸法臨床研究会)は、養心養生をテーマに話してきました。個人的には、東洋医学の核心に、だいぶ迫ったと思っています。心とは何か、それを明らかにすることは、東洋医学の初階だろうと思います。今回は、それが一歩進んだという手応えです。

 身体を鍛える、サプリメントを飲む、特殊な呼吸法をするというのは、養形養生というもので、誰しもが興味を持つところで、数え上げれば数え切れない程の方法種類があります。それを追い求めていては、切りがありませんし、多岐亡羊、結局、何も得られない可能性も高いでしょう。

 養心養生は、一点「無心」を窮めることですから、目標が明確、方法も明瞭、始めようと思えば今すぐにでも始めることができます。一個一個クリアしていけば、それなりの成果もあがります。ジムに通うお金もいらないし、サプリメントを買うお金もいらないし、ほぼタダで、自分の工夫だけで、養心養生ができるのですから、養生普及という意味では、真っ先に着手したいテーマだと思っています。





2018年3月23日金曜日

4月30日

 4月30日(祝)に、日本内経医学会30周年記念事業として、昼に、『内経』に関する発表、夜に、島田隆司先生顕彰会を行います。

 昼には、中国から黄龍祥先生が発表し、日本から小曽戸洋先生が発表します。その他、二松學舍大学の町泉寿郎先生、明治医療大学の斉藤宗則先生、そして小生が発表します。参加費は無料です。『内経』には興味無いという人でも、先生方の顔を見るだけでも、声を聞くだけでも、参加してはどうでしょうか。友有り、遠方より来たる。旧友に会うかも知れませんよ。楽しそうではありませんか。

 島田隆司先生は、2000年に没しました。島田先生と交流が合った先生に、思い出話をしてもらおうと思っています。島田先生に会ったことが無い人が増えていますので、どのような人だったのか、どんな実績があるのか、そして何を目指していたのか。後進のみなさんに伝え遺しておきたいと思います。こちらは食事が付いているので有料です。どんなお話が聞けるのか、楽しみです。

 詳細は、日本内経医学会HPをごらんください。夜の部は、数に限りがありますので、参加希望の方は、お急ぎください。

2018年3月16日金曜日

精進料理

 今月末に、養生の講義があるので、今日は、食事養生を考えてました。

 その代表は精進料理です。仏教では殺生を禁じていますから、料理はおのずと野菜が主役の精進料理です。父方のおじいさんが亡くなった時、中学生でしたが、葬儀に参加し、食事が振る舞われました。近所のオガタ(奥さん)が集まって作る精進料理です。銘々のお膳に、食べたことのない料理が出てきたのを思い出しました。今から、50年前のことです。

 あんな田舎でも、きちんとした葬儀していたのは、今でも誇りに思います。それ以後は、たましいがずたずたになり、精進という概念も薄れ、律儀に葬儀をするという気持ちも無くなり、すべて葬儀屋さんのいうとおりに、しているのが現在です。

 いま、欧州で、ビーガンという菜食主義者が増えているようです。ドイツでは、2020年には、5人に1人くらいの割合になるそうです。単に肉食を忌避するのではなく、動物を愛護する倫理上の菜食主義のようです。菜食主義先進国だった日本が、菜食主義を捨てて、肉食主義に変わっている現在、先進国は菜食主義に移行しつつあるのです。なんだか恥ずかしくなりました。さらには、ロカボが流行って肉食が加速している、そんな自己都合が大手を振っていることが、とても恥ずかしいのです。

 また、アニマルウェルフェアといって、動物や家畜を愛護する政策もあるようです。たとえば、イタリアでは、鶏のケージ飼いは禁止されていて、すべて平飼いなのだそうです。家畜とはいえ、不健康な環境は、許さぬぞ。イギリスでは、健康的な環境で飼育するように、政策で指導しているようです。ひるがえって、日本を見てみると、とても後進国なのだなあと思います。

 そのおじいさんの孫(10歳くらい年上のいとこ)の結婚式も自宅で行っていたのを思い出しました。自宅で冠婚葬祭をするのは、つい50年前まで続いていました。古いやり方だと思っていましたが、いま考えると、先進的だったのかも知れません。

 この50年で失ったものはたくさんあるけれども、たましいまで失ったことがまことに遺憾。

 


 

2018年3月12日月曜日

蔵王連峰が見える

 郷里の、仙台からでも、塩竃からでも、県境の蔵王連峰が見えると教わって、よくよく見てみると、よくよく見えました。いままで、蔵王連峰が見えると思わなかったので、一度も見たことが無かったのです。見えないのではなく、見ていなかったのでした。

 このように、ちょっと教われば、何気なくできることは、たくさんあるんだろう。一度見えてしまえば、いつでも見ることができるのです。ちょっと教わる、それだけで充分なのです。何も、手取り足取り、ご丁寧に教えなくても。鍼灸の実技もそうなのかもしれません。

 それでも、蔵王連峰に興味がなければ、教わっても、見ないでしょうね。そんなくだりが、『論語』にある。述而篇「一隅を挙げるに、三隅を以て反(かえ)さざれば、則ち復(ふたた)びせず」(先生は、四隅のうち、一隅をあげて示して、三隅があると反応しなければ、くり返し示さなかった)といい、学ぶ側に受け入れる素地が無いときは、不毛の土地にタネを蒔くようなもので、なんともしようがない。

 学問は、受け入れる素地があれば、教え込み、素地が無ければ、興味を持たせる。蔵王連峰を見て、考えました。


2018年2月28日水曜日

金沢の底力

 金沢で、高級店でなくても、普通の居酒屋でも、お椀もお箸も漆塗りでした。いずれも、きずつき易い部分を補強した「布着せ」がほどこされていました。お皿にしても、大量生産品じゃないようです。九谷が交じっていたり、ふるいお皿が活躍したりしてました。金沢市か、石川県全体で、そうした産業を大切にしているのがよく分かります。同時に、美に対する意識の高さにおどろきました。東京文化に流されていない、京都文化とも違うような、独立国のようなプライドを感じました。

 テレビを見てたら、醤油を仕込む木桶を作る最後の業者が2020年に廃業するということで、味噌業者は自前で木桶を作らねばならなくなっているとのこと。木桶で醤油を仕込む業者も少なくなっているそうです。こだわって木桶を使っている小豆島の醤油屋の山六さんの奮闘振りが頼もしい。

2018年2月23日金曜日

抜本的見直し

 草津白根山で、1993年から噴火予知を続けて、東工大の野上教授は、「山が何のサインも出さないのに噴火するなら、何を観測すべきなのかを見直す段階に来ている」という。

 噴火から1ヶ月。1人の死亡者、11人の負傷者をだしたのは、教授のせいでは無いけれど、予知しようと25年も研究したのに、予知できなかった研究者の苦悩がにじむ。

 確からしい原則(火山活動に伴う地震で予測)にしたがって研究を始めたのだが、その確からしい原則が不確かだったのであった。確からしい原則の模索が、さっそく始まっているでしょう。

 世界で質が極めて高いとされる研究論文の生産本数は、
  20年前~10年前:1位アメリカ、2位イギリス、3位ドイツ、4位日本
 という指定席だったのですが、
  2013~2015の3年間の平均:1位アメリカ、2位中国、3位イギリス、4位ドイツ
 と中国の進出がめざましく、日本は追い出されてしまった。日本はどこに行ったかというと、フランス、オーストラリア、カナダ、イタリアに続く9位まで順位を落として、凋落振りが目立っている。

 研究をバックアップする国力の違いなのでしょうか。個人の奮闘に任せている現状が続くようだと、いつか個人の息切れがやってくるし、後継者難がやってくるでしょう。個人頼みの日本鍼灸、果たしてどうなるやら。

2018年2月19日月曜日

夜咄の茶事

 昨日は、年に一度の、夜咄(よばなし)の茶事。阿佐ヶ谷の星岡において。
 夕方5時に始まり9時終了。懐石料理、濃茶、薄茶。
 照明は、蝋燭と行灯。暖房らしきは、炉のみ。4時間、ほぼ江戸時代。畳に正坐、寒さ、暗さ、静けさ。

 小学生の同級生の菅井くんの家は、小石浜という集落から一山越えた先にあって、小学6年の時にようやく電気が通じました。つまり、50年前まで江戸時代と何ら変わのない生活をしていたのです。よく遊びに行きました。行き帰りは山道を辿って行くのですが、時に帰りが1人になると、クマが出るのではないかと怖くて、走ってかえりました。

 2軒のみの集落で、田圃と小川がありました。井戸ははねつるべというもの。かすみあみで、小鳥を捕まえていました。キノコ取りにも行きました。ちかくに射撃練習場があって、皿を飛ばしてそれを射つらしく、バーンという音がよく鳴っていました。農村というより、原農村で、貴重な体験でした。

 昨日の夜咄で、菅井くんの家がよみがえってきました。



2018年2月12日月曜日

孔子と老子②

『論語』の雍也篇に「今、なんじは画(かぎ)れり」(今のおまえは自分からみきりをつけている)という文章があって、力は足りないと腰が引けている弟子の冉求を説教しています。孔子の説く道が、遠く険しいので、自分には歩ききれないから、自分で見切りをつけたのです。

 なぜ遠く険しいと思ったのか。仁斎は「この道が高いことだけをみて、初めはそれほど高くないことがわからない。この道のなしがたいことだけを見て、根本はそんなにむつかしくないことがわからない」と解説する。ようするに冉求は、高い壁を見て畏れているだけで、そこを登る階段があるのに気がついていないというのです。

 仁斎の説明は、『老子』六三章「天下の難事、必ず易きより作(おこ)る」に近い。どんな難しいことでも、一歩ずつ進めば必ず成し遂げられるのだ。しかし、仁斎は『老子』を参考にした気配がないから、『論語』『孟子』の中から孔子の素意をあぶり出したのだと思われる。

 いずれにしても、仁斎にも、老子にも、「難しいこと」は無いようである。

孔子と老子


①孔子在世→没後は孔子の真意が失われる→孟子が補益する
  この流れで、伊藤仁斎は『論語』と『孟子』を教材とする。

②孔子在世→没後は孔子の真意が失われる→老子が補益する
  この流れで、『老子』を標準にして、『論語』を読み直すこともできる。

 いま、考えているのは、以上のようなことです。

②でいえば、
老子の書を能く通暁して論語を読むときは、夫子の寛裕、舒泰、温和、宥恕の気象を知り得て、後世の儒者の厳粛、刻迫にして、努めて小人を去り、愚昧を悪むことは、夫子の教と大に異なることを覚るべし。」-森共之『老子国語解』
 『老子』の大意を知ると、孔子が「寛裕、舒泰、温和、宥恕」の大人物であることがよく分かる。反対に、朱子学者の「厳粛、刻迫にして、努めて小人を去り、愚昧を悪む」という態度は、孔子とは大いに隔たりがあると言っています。

 ②の態度で、仁斎を読むと、孔子の真意がわかりそうなのです。孔子の真意が分からないと、いつまでももやもやなのです。

 一貫して編集された古典ならば、その大意は一すじであろうけれど、『素問』『霊枢』となると、論文集なので、大意を推しはかることはとても難しい。それが、難読たるゆえんかも知れません。だから『素問』『霊枢』も、いつまでももやもやなのです。
 



2018年2月8日木曜日

小田急線

小田急線の電車のつり革は、おしゃれ。色気といい、細身のぐあいといい。真っ黒で無骨なつり革がぶら下がっているJRとは、だいぶおもむきがことなる。

 小田急の社内アナウンスも、日本語と英語。毎日聞いていたら、いつのまにか英語に慣れて、英会話学習もはかどるのではないかと思える。

 いつも小田急に乗っている人は、当たり前、日常だから、「だから?」と言われそうですが、年に数回乗る人にとっては、興味津々なのです。

 『素問』上古天真論に「其の俗を楽しみ」は、俗習(毎日の当たりまえ)を当たり前に受容することである。小田急に乗っている人は、気がつかないのだろうけど、楽しんでいることになる。

 反対に、大宮から出る野田線は、かなりローカルな雰囲気です。快速も急行もなく、ただモクモク走るのみ。これまたいいです。野田線の乗客も「其の俗を楽しみ」ということになります。

 いずれにしても、自分の置かれている状況を当たり前に受容し、(不平不満を言わないことが)「楽しみ」なのです。


2018年1月26日金曜日

当たり前

 先月からコーチが変わって、年寄りだからといってあまり手加減しない人になりました。今までの程よい運動から、しごかれているような感じ。最後まで持つのかなあと思いつつ、ついていくのですが、意外に持つのですね。あきらめてやるしかない、と開き直っているのがいいのかも知れません。ここで不満を言ったら、きっと持たないかも知れません。

 年齢とともに下り坂と思っているのですが、意外にもそうでも無いです。いままでが、年齢にかこつけて、大してやってなかったのかも知れません。自分で、枠を決めているので、その枠を超えられないのです。その枠さえ無ければ、どこまで行くのかは判りません。

 沢庵さんは、72歳、3月田舎の但馬に帰って、その年のうちに江戸に戻ってきます。この人にとっては、「歩くもんだ」が当たり前で、遠くても、何歳であっても、よく歩くのです。この当たり前が徹底しているところが、大事なことなのだなとつくづくおもいます。

 テニスの練習は「つらいのが当たり前」と思えば、意外に結構やれたので、「当たり前」の範囲をひろげてみようと思いました。冬は寒いのが当たり前、夏は暑いのが当たり前。


2018年1月20日土曜日

遥拝

 遥拝とは、遠く離れた所から神仏や天子を拝むこと。はるかに礼拝すること。ちかごろは、沢庵の墓を遥拝しているので、その報告。

 毎週金曜日。大森に教えに行っているが、行きの決まり事は、「沢庵の墓を遥拝すること」です。品川駅をすぎて、右側に、ほんの一瞬、沢庵の墓が見えるのです。

 他のことに気を取られて、遙拝し忘れると、すこし残念です。したがって、品川駅に着く前から、遙拝体勢になります。

 その他に、東川口駅を出たら、男体山の神さまを遥拝。川口駅を出て、荒川にさしかかったら、富士山の神さまを遥拝。ふたつの山は、冬しかみえないのが、少し残念。

 というわけで、金曜日は、遥拝で、いそがしいのです。

2018年1月15日月曜日

両面思考(対峙)

 両面思考とは、物事を一面的には見ないという基本的な態度。陰陽。虚実などが良い例。(金谷治『中国思想を考える』)

「無限は有限に対立するものではなくて、有限をそのうちに包みこむものであるから。」(森三樹三郎『老荘と仏教』)

 森の本は割と読み込んでいたのに、この文章は見逃していました。というのは、両面思考(対峙)がしみ込んでいるので、有限と無限は対立する概念だと思いこんでいたのです。対立するとみなすこともあるが、対立しないとみなすこともできるので、対立的な思考をもう一度見直す必要があるかもしれない。

 心と体。これも対峙すると思いこんでました。老子に言わせれば、心が体を包みこんでいる(よって養心が重んじられている)のだから、対峙していない。心と体がバラバラ。心が不安定だから、自動的に体と離ればなれになるのであって、心さえ安らかになれば良いのである。両面的思考で心身一如というけれど、老子的にはいつでも心が体を包みこんでいるので、後付け的に一如と言うのは、納得できないでしょう。

 男女。これも対峙の概念ですが、男社会では男性が女性を包みこんでいます。男勝り、女だてら、女女しいというような表現があるのですから、中々その意識は無くならないようです。女性活躍社会というスローガンも、男視線です。

 こういう風に考えると、陰陽、虚実、生と死、病気と健康なども、もう一度見直さねばならないでしょう。

2018年1月14日日曜日

大徳寺玉林院

 京都の紫野の大徳寺、その塔頭のひとつ玉林院は、曲直瀬正琳(1565~1611)が、1609年に、つまり45歳のときに、月岑宗印を招いて建てた塔頭である。おそらく数億円、或いは数十億円かかっただろうに。

 三玄院は、石田三成、浅野幸長、森忠政らが、春屋宗園のために建てた塔頭である。一つの塔頭を大名3人がかりで建てているのに、それを正琳が一人で建てたのである。おそるべき財力。それよりも、それを寄進する胆の大きさがけた違いである。「私」への執着が無い人でなければできない行いである。正琳といえば、第一級の医者であるが、それ位の人物は何人もいる。第一級でも、そうでなくても、かくのごとき無私の人は、そうはいない。

 一つ一つの建物(だけでなく街にも)物語があると思うと、観光も、なかなかに味わい深い。


2018年1月5日金曜日

首藤傳明先生からの

 首藤傳明先生からの年賀状の今年のコメントは「宮川先生の評価、外国人にも高い(四国セミナーで)。今年もガンバッテ」と。

 単純に嬉しい。神さまのような人からですから。四国セミナーとは、11月に行われたジャパンセミナーの一貫で、前半が東京セミナーで、後半が四国セミナー。3年前に、首藤先生が引退するので、交替として僕が講師になったのですが、今年は首藤先生が復活したのであります。すごいことです。
 
 外国人とは、おそらくステファ・ンブラウンさん(首藤先生の『経絡治療のすすめ』の翻訳者)。そのステファンさんから、『温灸読本』の翻訳出版が医道の日本社との交渉がうまく行かないので、「米国で本を出しませんか」とは言われています。が、自分の治療大系は、小賢しい小知恵を積み重ねたもので、島田先生に「紙くずになるような本は出すな」とおこられそうな代物ですから、絶対手を出しません。

 「述べて作らず」というがごとく、出すなら『内経』モノにしたい。

2018年1月2日火曜日

再びせばこれ可なり

『論語』公冶長に「季文子、三たび思うて後行なう。子これを聞いて曰わく、再びせばこれ可なり」

 魯の大夫の季文子が、事ごとにかならず三度考えたのちに行動した。孔子は、二度思案すれば良いと仰った。

 ここのところを、伊藤仁斎は、季文子の「三度」は、それをルーチンにしているので、それを批判して「二度」と言ったのであるが、二度思案すれば良いという意味ではなく、三度のルーチンを止めなさいと言ったのだ、と解釈している。よく考えられた解釈である。

 さらに、

 政治には明快果断な決断ほどよいことはなく、優柔不断より悪いことはない。一度考えるまでもなくすぐ結論が出るものもある。千度考え、万度思いめぐらしても、まだ決断できぬものもある。季文子が事ごとに三度考えてのち行ったのは、ただ考えただけで、決断することを知らなかったのである。

 と解説を加えている。ここまで読み込めば、『論語』も活き活きとしてくる。すごい。伊藤仁斎の『論語古義』。それを現代語訳した貝塚茂樹先生には頭がさがるばかり。

 

2018年1月1日月曜日

第5回 鍼灸医学史研究発表会

 北里医史研と日本内経医学会が共催する「第5回 鍼灸医学史研究発表会」が、1月7日、港区白金の北里大学白金キャンパス薬学部1号館で行われます。参加無料です。是非ご参加ください。詳しくは、日本内経医学会HPでごらんください。

 ことしは「沢庵宗彭と中国医学」と題して発表します。沢庵は、柳生宗矩に「無心の剣」を指南したように、(おそらく)御薗意斎にも「無心の鍼」を指南したのだと思います。それが、御薗意斎の弟子の森道和、仲和、愚然と受け継がれ、森共之の代になって、『意仲玄奥』となってまとまりました。『意仲玄奥』は「無心の鍼」の集大成なのであります。

『意仲玄奥』は大塚敬節先生の所蔵となり、2003年に六然社から影印出版されました。『意仲玄奥』が学校の教科書になることを思いえがきながら、発表したいと思います。