2013年12月23日月曜日

前漢の経穴人形 発見!!



 京都の猪飼祥夫先生から、前漢の経穴人形が発見された、というニュースを送ってもらいました。
興味の有る方は、覗いてみてください。
 前漢の医学史料は乏しいので、すごい発見だと思います。


http://culture.people.com.cn/n/2013/1220/c172318-23904135.html

http://culture.people.com.cn/n/2013/1218/c172318-23879851.html?prolongation=1

http://photo.takungpao.com/society/2013-12/1362568_4.html

2013年12月18日水曜日

宮里優作 腰が抜ける

 12月8日、日本オープン。宮里優作は、ついに初優勝をつかむ。プロになって11年目の初優勝。その最終ホールの第1打・第2打はミスショット。第3打目のチップインパーで優勝を決める。
 なんと、その後、しゃがんで、立てなくなってしまった。「あれが腰が抜けるという感じなんでしょう。足がもう一歩も出なかった」という。そのあとも、膝に手をのせ、支え棒にして何とか立っている状態。

 さて、腰が抜けるとは、立っていられなくなるのは、何がそうさせているのだろうか。
「これは生理学的にいうと、突然に大脳の中に異常で強力な抑制が生じ、そのためにそれ以外のことが全然意識もできなくなり、全ての行動が抑えられます。意志が体の他の運動に及ばないため、行動ができないという現象なのです。医学的には、脊髄神経の中の腰の筋肉を動かす腰神経の機能が一時停止してしまう状態です。」

 『霊枢』本蔵篇に「志意は、精神を御し、魂魄を収め、 寒温を適え、喜怒を和する者なり」とある。この中で、日本語の「こころ」に相当するものは、志意、精神、魂魄、喜怒と、オンパレードである。宮里優作の大脳は、どれに相当するのだろう。

 志意は、『霊枢』本神篇に「物事を処理(任)するのが心で、心が記憶しているのが意で、意が存続するのが志だ」とある。これからすれば、経験した考え、体験した知識に基づく判断を志意というのだと思われる。

 
 喜怒は、感情で良い。

 魂魄は、魂消た(たまげた)、キモをつぶした、失神、人事不省、というものに相当するだろう。意識を失うような状態を生み出す。

 精神は、気力とか、気が抜けたとかいうものか。

 『霊枢』本蔵篇の意味は、考えや知識は、精神を制御し、魂魄をコントロールし、寒温に対処し、感情を和らげる、ものである。

 つまり、宮里優作は、優勝の経験が無かったので、精神を制御できなくて、気が抜けてしまったといえるのではないでしょうか。

 すくなくとも、本蔵篇では、考えや知識、精神(気力)、魂魄(たましい)、感情、の4種類を「こころ」と見なしていたということになる。精神(気力)、魂魄(たましい)、感情をコントロールするのが、考えや知識だというのは、立場とすれば、荘子の万物斉同的であるなあ。



 
 

2013年11月29日金曜日

白隠禅師「坐禅和讃」

 臨済宗中興の祖といわれる白隠慧鶴(1685~1768)と長野県飯山の正受老人の問答。
  正「おまえの悟りを見せてみよ」
  白「そんなものは見せられません」
  正「この穴蔵死人坊主め」

 自分は悟ったと思っていた白隠に対して、自分ひとりの世界に留まっているのは自己満足にすぎず、衆生の救済という仏教の命題にまったく役に立っていないと、正受老人は戒めた。かくして禅の教えを大衆に広めることをみずからの使命とし、そして生まれた「座禅和讃」。

  衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、
  水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし、  
  衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ、
   たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり、
  長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず、
  六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり、
  闇路に闇路を踏そえて、いつか生死を離るべき、
 11月24日、母の一周忌。臨済宗の松島瑞巌寺の僧侶によって詠まれた「坐禅和讃」は、荘子ともかぶり、後藤艮山ともかぶり、なんとも味わい深く聞きました。
 真実は難しく高尚なことばにあるのではなく、身近でわかりやすいことばにあるのだということを、禅の悟といい、儒の仁といい、どちらも目の前の届くところにあるということを、聞きました。
 

2013年11月3日日曜日

養生学

 東洋鍼灸の非常勤講師だったころに、一年に10コマで、養生学を講義することになった。1年が40コマなので、半期で20コマ。その20コマを、漢方と分け合って、養生学をすることになった。東洋医学の3本柱のうちの2本柱が、ご挨拶程度でいかがなものかと思うけれども、全く無いというところからみれば、おおきなステップアップである。

 おそらく、それから10年くらい経っているだろうと思う。このたび、丹塾(第39回 11月10日)で、時間をもらって「養生を考える」と題して、3時間、発表します。

 現在、そのために読んでいるのが、貝原益軒の『養生訓』。いろいろ知った上でよむと、なるほど名著であります。押さえるところはおさえて、はずすところははずして、養生の歴史・要諦をよく知った先生だとわかりました。

 また、読んでいるのが、伊藤仁齋の『童子問』。貝原先生も儒者ですが、伊藤仁齋も儒者。養生が、荘子によって、概念が変わったのですが、その概念でとらえると『論語』も養生書ということになる。荘子によって、養生がどう変わったかというと、生き方も養生なのだ、ということ。これは見逃してはならないのだが、見逃していました。これを見逃していないのが、整体師の野口晴哉先生です。

 養生は養生術によって普及し、道教に吸収されて、いよいよ発展しました。現在の、私たちの養生観は、この延長線上にあります。養生は、養生術だけでないと言ったのが荘子で、生き方こそ養生なのだと提唱しました。が、これが主流になることはありませんでした。『素問』上古天真論篇が、荘子的養生の継承者といえるでしょう。

 養生とはなにか。それを丹塾の講座の中で冷静に見つめ直すことができればと考えています。
興味があったら、丹塾に来てみませんか。

 

2013年9月27日金曜日

何の陋かこれ有らんと。

 『論語』の子罕篇に「子、九夷に居らんと欲す。或るひと曰く、陋なり、これを如何にせんと。子曰く、君子これに居らば、何の陋か、これ有らんと。というのが、9月の霊枢講座の始まりに読んだところ。
 孔子が乱世の地を離れて、未開の地にでも住みたいといったところ、そこは非文化の地であり(陋俗)、そんな所でもいいのかといわれ、君子が住めば文化的になると応えた。君子の孔子が住めば、自動的に文化が広まる。この解釈は朱子にもとづく。

 陋といえば、雍也篇で、顏回の狭い路地暮らしを「陋巷に有り」といい、孔子は、その顏回を評して「人は其の憂いに堪えず。回や、其の楽しみを改めず」と大絶賛を浴びせている。絶賛をあびせたのは、貧窮にではなく、楽しみを保持していることにである。

 その楽しみとは、つまり、「善悪の差別の無い」ところを指して言うのではないか。顏回が貧窮生活でも、自分のことを貧窮と思っていない。なので「楽しみ其の中に在り」という。非文化も文化も、善悪の彼岸に立てば、どこに住んでも楽しいということになる。孔子は、もちろん仁愛、忠恕を訴えたのだけれど、その分母に楽しみ、つまり知的分別が無いということを求めているのではないだろうか。

 楽しんで仁愛をふりまくのと、型どおりに仁愛をふりまくのとでは、天と地ほどの違いがある。『論語』の核心が、このあたりにあるのではないかと、9月8日に気がついたのであります。

2013年9月2日月曜日

オリエント研修

 9月1日は、大阪のオリエント研修でした。
 今回は、スケジュールも強行で、9時~12時、13時~16時と、合計6時間でした。まさにオリエント強行。学生と、既卒者にわけて、石原克己先生と、講義してきました。

 様子がわからないので、下準備無し、原稿無しで、体当たり興業。そんなことより、前泊して、新幹線往復のほうが、身体がつらい。腰は痛くなるし、ホテルの冷房には当たるし、遠征はつらいです。疲弊ということばがよくわかるようになりました。

 既卒者は、毎年同じメンバーなので、日進月歩、進化しておかねばなりません。オファーが来るのは光栄なのですが、それに応えるのが難儀です。来年はオファーが来ないのをこっそり祈っています。

 帰りの電車では、石原先生と、藤原先生と一緒になりました。石原先生は、島田先生とか丸山先生と霊界通信モードにはいって、僕の使命など、熱く語ってくれました。6歳年上ですが、とてもパワフルです。

 今回は、頭がまわらないので、報告だけでした。



2013年8月12日月曜日

先生方、飢えているなあ

 8月6日(火)に、東洋療法学校協会の教員研修会で講演をしてきました。聴衆は、教員の他、校長、理事長らの面々、260人。「初心にかえれ-原典に学ぶ」と題して、90分講演をしました。

 
 11脈と12経脈の違いを話し、ついで後藤艮山の一気留滞説に触れました。出土文書の話なので、しらけるのではないかと、中身をわかりやすくしてみました。プレッシャーでしたね。

 話しぶりも自慢できるものではなく、拙い講演だなあ、と反省しましたよ。でも、不思議。アンケートによれば、40パーセントがとても満足、35パーセントが満足、でした。

 自由記入の欄を概括すると、「東洋医学の情報に飢えている」姿が、浮かんできました。でも、探せば、あちこちに論文があるから、そんなに情報が足りないというわけではない。そうすると、探して、読んでいる、暇が無いのかも知れません。

 懇親会では、現状をなんとかしたい、という話をする人が多かった。教育内容に不満があるものの、国家試験が前提であるならば、いたしかたない。そして、困惑している生徒を目の前にして、どうしていいのかわからない先生方がたくさんいました。生徒が嫌いな教科が、東洋医学概論。先生が教えたくない教科が、経絡経穴概論、ですって。

 いずれにしても、先生方は飢えている。かれらにに栄養をあげられないのは、先輩としての怠慢だな、と心強く思った次第。

*講演は、いつでも、イヤですね。今回は、特に。一月前から、内容を練り、これでいいかなと思ったところ、実は5日前に気が変わって、中身を一新しました。ああ、疲れた。

2013年8月9日金曜日

父の石臼

 父は、昭和35年ころ、赤門の鍼灸学校に入って、亡くなる昭和61年まで、鍼灸を業としていました。昭和38年4月に免許をとって、借家を宮城県松島町に確保して、その年から、松島町に移りすみました。子供4人と母親は、母親の実家(宮城県塩竃市浦戸野々島)に、3年ほどいました。

 鍼灸学校に入る前は、宮城県豊里町というところで、煎餅屋をやっていたそうで、それを切り上げて、鍼灸の道に進んだようです。下の写真は、煎餅屋で使っていた石臼で、母の実家にあずけておいて、そのまま放置されていたものです。このたびの津波で、母の実家の家屋敷が壊され、塩竃市が一括して解体し、すべて撤去して、更地にしました。そのとき、この石臼が出て来ました。裏返しにとりのこされていました。このたび、だんどりがついて、松島の実家に帰ってきました。感無量であります。

 同業とはいえ、父親とは縁が遠く、まったく親不孝ばかりしたと思っています。何一つ、期待に応えられず、忸怩たる思いがあります。せめてもの親孝行と思い、実家に持ち帰ってきました。

 
 農家の次男で、戦争から帰って煎餅屋をやり、はり灸に転じました。頭の良い人だったらしく、隔世遺伝して孫たちに優秀なのが出ていますから、確かにそのような血筋があるのだと思います。字はうまくて、賞状書きなどもしていたようです。

 治療院といっても、住居と兼用で、居間が待合室で、父の寝室が治療室です。このころ、昭和40年のころは、丸山先生が素問・鍼経の研究をしていて、島田先生は学校に入って、出たかというころ。それから50年たって、鍼灸の世界もだいぶ変化して、世の中に認められるようになりました。隔世の感があります。


2013年7月29日月曜日

品格について

 来週、学校協会の研修会で講演することになり、教育改革について触れ、鍼灸師の品格を高める提案をする予定。

 そしたら、子供のころに、両親から小言された、オショスイ、イヤスイ、メグサイ、という方言が浮かび出てきました。両親亡き後は、もう小言されることはないだろうし、現在ではもはや死語になっているのかもしれない。

 オショスイとは、恥ずかしいということで、小言でいわれれば、恥ずかしい行動をするな、という意味。オショスイから、やめてケロ。

 イヤスイは、卑しい、下品なこと。大体は、ご飯の時にいわれました。口が卑しいという意味ですね。ご飯食べたあとに、お菓子をさがしたりすると、イヤスイことするな、と言われました。だらだら食いなんかもイヤスイです。

 メグサイは、見た目が悪いことで、服装がだらしないとき、行動がだらしないとき、メグサイ、と言われました。

 
 冷静に考えると、孔子のいう徳が底流にあるような気がします。あんな田舎の、貧乏な家にも、孔子の教えが及んでいたと思うと、日本という国家の本質が、ここいらにある(あった?)のではないでしょうか。

 こういう小言は、中学生までかな。貧乏でも、品格を保とうとしていた両親を思うと、親不孝していたなあ、とつくづく思います。

2013年6月20日木曜日

自立

 子供のころ飼っていた猫は、ときどきスズメやイモリを捕ってきて、もてあそんでいて、さんざんいたぶって死んでしまうと放置し、見向きもせず。小さな動物をみたら、捕獲態勢に入るのは本能なんでしょうね。食べるために捕ったのではなくて。

 猫は、毎日、家でごろごろしているけど、それが猫のすべてではなく、からだの奥底でうごめいている野生も含めて、猫でしょう。覚醒したときの猫は、予想以上。

 今の家を建て替えるときに、隣の土地にプレハブを建てて、仮営業していました。そこから見えた風景。地盤強化の杭を打ったところにできた水たまり。どこからか逃げてきた犬がやってきて、何をするかと見ていれば、ビチャビチャになりながら、水たまりから水たまりへと飛びはねていました。さんざん遊んだあげく、どこかに行きました。

ずぶぬれになりながら野山をかけまわるのが、あの犬の本能なんでしょう。いつも繋がれてガマンし、汚れると飼い主におこられる。そこから開放されたから、本能が目をさましたでしょう。

 しばりから解放されたら、自分で判断しなければならないのですが、その時、本能というか、潜在していた能力が覚醒するようです。もし、わたし達は、人智から解放されたら、どのような本能が覚醒するのでしょうか。

 ぼくがほんの少し覚醒したと思えることは、島田先生が亡くなって自立しなければならなくなったことでしょうか。すべての判断を島田先生に頼っていたので、多少は積極的になったかも知れません。
 
いま、表向きにみえている能力は、もしかしたら仮の能力であって、自立したとき、自由になったときに表出する能力が、真の能力ではないか。とすると、誰かにたよったり、人智にたよったりすることなく、自立できることが、極めて重要なのではないか、と、ネコとイヌをみて思ったしだい。

2013年5月14日火曜日

鶯谷書院のHP

鶯谷書院のHPを開設しました。
活動の内容、状況、予告などを掲載しています。

http://www.miyakawakanpou.com/oukokushoin/

2013年4月30日火曜日

吾が好むところに従わん

金持ちになれるのならば、賎しい仕事でもする。金持ちになれないのなら、自分の好きなことをしよう。(『論語』述而篇)

金持ちと偉くなるのは誰しも望むところで、私も正当な方法で金持ちになり偉くなったら、そこに留まっていたい。(『論語』里仁篇)

 聖人孔子といえども、『論語』の中の孔子は、もし成れるのならばと金持ちをあこがれる。『論語』のおもしろさは、等身大の孔子と対話できることにある。孔子が語った気の利いた言葉が、名言に格上げされて、そして讃えられているが、そこまで持ち上げなくて、日常の言葉として読んでも、なかなか面白い。

 この前(4/27)の朝刊の広告に、ホリエモンの『金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?』という面白いタイトルの新刊があった。金持ちになったことが無いから、金持ちに憧れるけれど、金持ちになってみると、いろんな苦労があるのでしょう。見知らぬ世界だから憧れるが、実際に行ってみれば大したことないのかも知れない。

 そういう体験、ありませんか?

行楽で、温泉に行ったり、美味しいもの食べたり、観光したり、まるで極楽浄土みたいだけれど、ぼくは、旅行に行って、極楽浄土だと思ったことは無いなあ。美味しいのに当たったことはないし、お風呂は好きじゃないし、広いから平泳ぎするだけだし。そんななら、近くでラーメン食べて、プールに行くほうが、よっぽど極楽浄土だ。

そうすると、あまり先のこと期待しないで、毎日を極楽浄土にするほうが、現実的ではないか。極楽浄土が、西方の彼方にあるのではなくて、足元にあるよ、とは誰かが言ってたような・・・

「自分の好きなようにしよう」とは、孔子おじさんいいこと言うなあ。

2013年4月9日火曜日

素のちから

 何時だったか、オリエント出版社からの招きで大阪で講演したときのはなし。
ホテルをあてがってもらったので、土曜から大阪入りして、ぶらぶらと夕食を探していたら、「夏野菜のスパゲッティ」なる看板発見。茄子のほか、いろいろな野菜(覚えてない)と、スパゲッティを炒めたもので、まことに美味しかった。ミートソースも使わず、トマト味でもなく、塩味のみだったので、(いつものように)目からうろこが落ちてしまった。きっと、秘密の塩を使っているに違いない、なにか隠し味があるに違いない、と踏んだ。たいてい、こういう時は、次の日も食べる。さすがに、連食すると、感動が薄れ、うまさも少し減るが、ほぼ同じもの。

材料はシンプルなので、家に帰って作ってみたら、それがまあ、美味しいこと。秘密の塩でも、隠し味を発見したわけでもなく、普通の手順で、オリーブオイルでニンニクのみじん切りに火を通し、具と麺を炒めて、塩味で完成。素っ気なく、完成。あっというまに完成。おそるおそる食べてみたら、美味しい。おどろきましたよ。素の力、偉なるかな。忽焉として前に在り(正しい使い方か知りませんが、使ってみたくて)。

初めからミートソースやトマトの力を借りていたために、素の力(オイルとニンニクと塩の力)をスポイルしていただけなので、秘密があるとか、テクニックがあるとか、そういう問題ではなくて、素材の力、基本の力だけでも、十分に美味しく仕上がる、ということを発見しました。ナポリタンで始まり、ミートソースで育った世代なので、なかなかそこから離れられない。手を加え、複雑に味付けすればおいしくなる、素材だけではおいしくない、だしは欠かせないというように、頭でっかちになっていたわけです。

さて、これは鍼灸にもあてはまるような気がしました。己の鍼灸治療像を、学校なり、講習会なり、本なりで作り上げて、頭が拘束され、不自由になってませんか? 鍼灸の「素」について考えてみたら、おどろくほど自由になるかも知れませんよ。
子母沢寛著『味覚極楽』の「宝珠荘雪の宵 伯爵 小笠原長幹氏の話」に、「料理はあまり技巧めいた包丁使いのものはうまくない。包丁味がどうこういうようなことはわからないでも、うまく食わせよう食わせようとしている調子で、いやになる。ぴたりと時節にあったものをその物の一番うまい季節に、淡白に料理して出してくれるのが何よりの馳走である」。受け売りで申し訳ないですが、こういう鍼灸が「素」ではないかと、ひそかに思っています。

2013年3月5日火曜日

部の発想と伴の発想

 東京新聞(平成2532日付け朝刊)に連載されている玄侑宗久さんのコラムに、少しばかり啓発されたので、考えたところを記録しておきます。

 空港に迎えに来てくれた女性スタッフは、夕食後に頼んだマッサージさんだった。ホテルで出迎えてくれた40台の男性が、お茶を持ってきて観光スポットの案内をしてくれ、翌日は大島紬の解説もしてくれた。その人は実は支配人だった。夕食後に稿の校正をして、ファックス送信をたのみにフロントにいったら、送信してくれたのは料理長であった。


 このような掛け持ち仕事におどろいて「いったいこの島には部署という概念がないのかと呆れ」、しかし「よく考えると、これは奈良時代に朝鮮半島から部(べ)の民と呼ばれる職能集団が入ってくる以前の、伴(とも)という日本古来の仕事形態なのである」という。

 この部(べ)の話に、大いに啓発された。部は専業で、伴は掛け持ちである。部の民は、中国ではよく見かけた。自分の仕事以外は、まったく手を出さないのである。手が空いているなら手伝えばいいのに、忙しいひとを横目に一生懸命おしゃべりしている、あれが部の民ということなのだ。

 部とは、区分けすることで、その代表は蔵象だろう。 『内経』を部で検索すると、かなりある。三部だの、脈部だの、藏部だの、皮部だの、だのだののオンパレードである。『内経』には部の発想がだいぶ入り込んでいるようだ。区分することで効率が良くなるし、曖昧なところが無くなってくる。

 しかし、生きている人身、効率よく区分できないところは、多々あるだろう。京都の植藤さんが「自然にマニュアルはありませんな」と断言した通り、伴の発想がなければ対処できないかも知れない。僕自身は、伴的かも知れないので、部的な『内経』に手をこまねいているところがある。『内経』を伴の発想でよみ直したら、どうなるだろうか。これは楽しみである。

 物事の発想は、毎日の生活とは、切り離せないと思う。いろんなことをかけ持ちしている人は、物事は単純に割り切れないと気づく。専門にする人には、かけ持ちできる心理が理解しにくいだろうし、違和感があるに違いない。

 もし、伴的な鍼灸があるとすれば、真に理解・実践するためには、毎日の生活が伴的な発想が必要となる。臨床でいえば、多面的な観察、多種多様の技法などがもとめられるだろう。

 「それは腎ですか、肝ですか?」「それは虚ですか、実ですか?」ととわれて、回答の言葉を濁している人がいれば、おそらく伴的な頭の人ではないだろうか。


*冒頭のコラムの複写は、鶯谷書院にきて頂ければ、10円でおわけします。

2013年2月17日日曜日

古式鍼灸

 島田隆司先生が、勉強会の始まりに飲むお茶を、ペットボトルで供されて、落胆しておった。もしかしたら、今もそうなのか、もう少しでそうなるのか、急須で淹れるお茶は衰退するかも知れない。そうすると、近い将来、急須で淹れるお茶は伝統的な喫茶法になるのだろうか。

 僕が子供の頃、お風呂沸かしが当番でした。まず新聞紙に火をつけ、木の小枝に移し、火が盛んになってから豆炭を投入して、お風呂を沸かしていました。木の小枝は、裏の山に入って、杉の小枝を集めておいたものです。今から思えば、伝統的お風呂沸かし法です。懐古趣味で、昔のお風呂は良かったというつもりは毛頭無いが、もし今風のお風呂が全く使えないとなったら、伝統的お風呂沸かし法が役立つのは言うまでもない。
 
 四谷に、昔ながらの中国料理法を伝える料理人がいて、「ラード、砂糖、化学調味料を使い、油通しをする」のは現代的な中国料理だと嘆いている。中国料理の昔の姿を伝える人も希になっているそうである。そういわれると、ぼくは昔ながらの中国料理に興味津々となります。食べてみたいし。
 

 鍼灸もまたしかりで、現在の鍼灸はやはり今風になっているに違いない。どのてんが今風になったのかは、昔の鍼灸のすがたを明らかにせねばならないでしょう。そのためには、昔ながらの鍼灸を伝える人に学び、昔の鍼灸を記録している古典に読むしかないでしょう。古典を読む意味のひとつは、ここにあるかと思います。

 学校でまなぶ経絡学が、きちんと昔の説のままを踏んでいるのかどうかを知りたいならば、古典を読もう。今風の経絡学で良い人は、そこまでやる必要はない。

 自分の知らない古い鍼灸(古式鍼灸)を見つけるつもりで読むと古典はおもしろいが、ただ知識を得ようと読むと古典はあまりおもしろくない書物だな、とこの頃思っています。

 ちなみに、おでんといえば、大根。皮を厚くむき、ぬかをいれて下ゆでする、というのが普通の流儀。しかし、辻留の現当主の辻義一さんが書いたのをよむと、大根の皮はむかない、下ゆでしない、という。どちらが正しいのか。大根くささを退けるのなら前者、大根くささも味の内とするなら後者、というところか。皮をむかなくて良い、これは僕にとって目からうろこでした。道が大いに開けました。多面的な見方は実に楽しい、と。


 

2013年2月4日月曜日

常磐津古典曲演奏会

 昨日は、常磐津英寿さんの、常磐津古典曲演奏会に行きました。というと、文雅なゼントルマンのように思われますが、誘われて行ったもので、何も素養もありません。素養がないので、まるで異国の音楽を聴いているようなのですが、ジャズのセッションと思うとなかなかに魅力的な古典音楽で、楽しめました。

 古典とつけば、私たちの古典鍼灸と、なにか共通点があるのかと、その赤い糸を見つけようとしましたが、無いように感じました。一生の仕事として、血のにじむような努力をしているかといえば、私たちの古典への思いは、軽く、薄く、チープだなあと思いました。

 邦楽全体のことはわかりませんが、常磐津は斜陽のようです。歴史があって、すばらしい芸術としても、世の中に受け入れなければ、尻すぼみになる、ということかも知れません。私たちも、同じような道を歩みそうな気配です。いま必要なのは、受け継ぐことはもちろんのこと、外へアピールすることでしょう。そこから逆算していくと、アピールするためには、私たちの村言葉を現代日本語に直すことが急務ではないしょうか。たのしみになってきました。

 ところで、英寿さんは御年86歳、20年ほど前に人間国宝に指定されて、なお矍鑠として第一線で演奏活動している、あの凛としたお姿は憧憬ものでした。ステキな先輩を目に焼き付けてきまし
た。故岡部素道先生が、なんでも一流を見なきゃだめだ、とおっしゃっていた理由が、だんだんわかるようになってきました。齢を重ねることはよきものぞ。
 



2013年1月24日木曜日

二つの故郷 喪えり

 何を隠そう(何もかくしてませんが・・切り口の語として)、僕は、農民と漁民のハーフである。父方は農民で、実家は、梨栽培、養豚、養鶏をなりわいとしていたが、20年以上もまえに破綻したらしく、、家屋敷ともに農協に持って行かれたらしい。子供のころ遊びにいったあの風景は、風の雲を吹くがごとく、跡形もないらしい(一度、行ってみたいが、行っても無いのであれば、何をみに行けばいいのだろう)。

 母方は漁民で、松島湾の浦戸諸島、その中の野々島という離島に実家があった。実家があったというのは、3・11の津波で、波の砂をさらうがごとく、今は跡形も無くなっているからである。被災状況を、実際に見にいったので、喪失感がとても強い(父方の実家は見ていないので、喪失感は無いに等しい)。どちらかと言えば、母方の実家の方への思いこみが強いので、さらに一層。

 昨年の暮れ、母が亡くなった。高齢だった(八八歳)こともあって、喪失感はさほどないはずなのに、なぜか喪失感が強い。おそらく、母が亡くなったことによって、野々島への最後の糸筋が完全に切れたためだろう。子供のころの原風景が無惨なすがたになってしまったことが、意外にも、尾を引いていたようだ。

 喪失感というのは、頭が虚(うつろ)の状態で、よく「こころの整理がつかない」というのは、まさにその通りで、何かに没頭していれば、その間は頭に力がはいるのですが、それから離れるとポヤ~ンとしてしまいますから、こころの整理をする時がありません。3・11の直接の被災者でなくてこんな状態ですから、直接の被災者は不可測です。

 
 野々島は、震災直前は人口は160名ほど。今は、若い人は島を出ているから少なめですが、50年ほど前は、50戸~60戸は有ったので、200人は超えていたと思う。その頃は、電気もない、水道もない、自給自足に近い島でした。貧乏だったのだろうけど、老子のいう「小国寡民」に近いユートピアだったとおもいます。実家が野々島だったのは、誇りです。一度、居住してみたかったなあ。

 という経験をふまえ、東洋医学では、こうした悩める者をどのようにして救済するのだろうか、東洋医学では、こころの問題をどのように考えているのだろうか。また、新しいテーマがみつかって、わくわくしているところであります。



 

2013年1月6日日曜日

ただ変のみ。


 ふたたび、和田東郭先生。『蕉窓雑話』の冒頭に「医則」が附録されている。先生の遺稿から抄録したものだという。前回の「用方簡者、其術日精」も「医則」にある。

今回は、「医之所用心者、其唯変乎。揣変於未変、而以非変待変。此之謂能応変也。」である。この文章の意味がわかったのはごく最近で、読み始めて10年ほど経っている。原文には返り点がついているので、読める。読めることと、わかることは、雲泥の差がある。そのわかるまでの道程が、古典をよむことの醍醐味であろう。

新幹線で仙台まで、2時間もあれば到着する。歩で歩けば、10日以上はかかる。仙台に到着したことはおなじでも、その道のりは全く違う。新幹線では古典はわからない。地道をあるくに如かず。苦労した分、よろこびが多い。

 医者が心を用いるのは、(患者の)「変」だけである。「変」を「未変」に推し測り、(医者の)「非変」の状態で「変」を待つ。このことを「能く変に応ずる」という。

 変の対は常である。平常である。医者の非変の状態とは、平常心を指す。どのような患者が来ても、症状にとらわれることなく、こころを動揺させることなく、平常心で対応せよ、という意味である。その平常心でなければ、患者の変を見抜けないし、未変を推し測ることができなくて、ただうろたえるだけである。

 患者の変とは、平常と異なる何か(症状であったり、仕草であったり、身体の反応であったり)であり、変が明確になる前に見つけ出して対処すべきであることをいう。

  まりは、澄明なこころで、静かに、患者さんに対応せよ、言い換えることができるかも知れない。『針道秘訣集』の「三つの清浄」に相通じるところがある。

その脈をたどれば、『老子』第一章の「故常無欲以觀其妙」(いつも無欲であれば、微妙・精妙をみることができる)に到達する。

10年を要したのは、『老子』を読んでいなかったからである。
 
二三子に告ぐ。東洋医学の古典を読むならば、『老子』『荘子』『論語』を併せ読むべきだ。平成25年の年頭に、原点に回帰を唱う。