2012年11月22日木曜日

自然に、さらに、自然に


 黄帝曰.願聞自然奈何.岐伯曰.臨深決水.不用功力.而水可竭也.循掘決衝.而經可通也.此言氣之滑澀.血之清濁.行之逆順也.(『霊枢』逆順肥痩篇)
 
 先生は「自然」というけれども、どのように対処すれば良いのか、教えてください。
 
 お答えします。深い淵に望んで(この水を汲み出そうと思案しても)、その水流さえ通せば、何の工夫(功)、余計な力仕事(力)をせずとも、その水は無くなってしまう。
 
 同じように、凹みをならし(循屈)、突き出たのを除けば(決衝)、経脈は自然に通利する。
 
 凹みと突き出たのは、気の滑・渋であり、血の清・濁であり、流注の順・逆である。(これらを調えれば、経脈は自然に流れて、健康になる。)
 
 
 治療は、経脈のめぐりを助けているのでもなく、経脈を疎通させているのでもなく、経脈の自然を取り戻しているのだとは、目が覚める。小賢しい工夫や無用の努力は不要とは、さらに目が覚める。目が覚めて、さわやかな心持ちである。
 
 
 
 
 『素問』『霊枢』の中で一番の文章ではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2012年11月21日水曜日

之れを約するに

君子は、博く文を学び、之れを約するに礼を以てせば、また以て畔(そむ)かざるか。

 孔子の塾では、学ぶことが奨励されている。これは、現在の私たちも同様で、学校で学ぶだけでなく、あらゆる情報が津波のように押し寄せてくる。そのとき、それらの知識や情報を、要約するルールがなければ、支離滅裂、てんでんばらばら、収拾が付かなくなる。

 格好の例が、鍼灸の治療。言い換えれば、先生の数だけ流派があるようなもので、たくさん学んでも、要約できないのであれば、あまり役立たないような気がする。
 
 

 さて、どんなルールで、鍼灸術を要約すればよいのだろうか。それが「礼」だとすれば『論語』を、それが「自然」だとすれば『老子』を、それが、「陰陽五行」だというならば、『内経』を、読まねばならない。そういう意味では、古典は、欠くべからざる至宝なのである。
 

 一番大事なところを粗略にして、技術ばかりに心を捕らわれていては、まるで砂上楼閣のようで、危ういのではないか。

2012年11月11日日曜日

野武士

 50歳の前の島田隆司先生は、もみあげを長くしていたので、黒い顏と合わせて、野武士のようでした。野武士と評したのは、四世神戸源蔵師。
 50歳を過ぎたころから、もみあげを剃り、たまには髪にパーマを当てたりして、イメージがだいぶ変わりました。どんな理由でそうしたのか、聞かなかったのが、残念です。
 さらに、初孫が生まれたころからは、表情が柔和になり、昔の面影は無くなりました。
 『島田隆司論文集』をお持ちの方は、かかれた年代と、そのときの風貌を対比させながら読んでみて下さい。
 書かれた文章の向こうの、書き手を思いながら読むことは、古典も同じかと思います。ただ字面を追うのではない。そういう意味では、『論語』は一級品。