2013年4月30日火曜日

吾が好むところに従わん

金持ちになれるのならば、賎しい仕事でもする。金持ちになれないのなら、自分の好きなことをしよう。(『論語』述而篇)

金持ちと偉くなるのは誰しも望むところで、私も正当な方法で金持ちになり偉くなったら、そこに留まっていたい。(『論語』里仁篇)

 聖人孔子といえども、『論語』の中の孔子は、もし成れるのならばと金持ちをあこがれる。『論語』のおもしろさは、等身大の孔子と対話できることにある。孔子が語った気の利いた言葉が、名言に格上げされて、そして讃えられているが、そこまで持ち上げなくて、日常の言葉として読んでも、なかなか面白い。

 この前(4/27)の朝刊の広告に、ホリエモンの『金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?』という面白いタイトルの新刊があった。金持ちになったことが無いから、金持ちに憧れるけれど、金持ちになってみると、いろんな苦労があるのでしょう。見知らぬ世界だから憧れるが、実際に行ってみれば大したことないのかも知れない。

 そういう体験、ありませんか?

行楽で、温泉に行ったり、美味しいもの食べたり、観光したり、まるで極楽浄土みたいだけれど、ぼくは、旅行に行って、極楽浄土だと思ったことは無いなあ。美味しいのに当たったことはないし、お風呂は好きじゃないし、広いから平泳ぎするだけだし。そんななら、近くでラーメン食べて、プールに行くほうが、よっぽど極楽浄土だ。

そうすると、あまり先のこと期待しないで、毎日を極楽浄土にするほうが、現実的ではないか。極楽浄土が、西方の彼方にあるのではなくて、足元にあるよ、とは誰かが言ってたような・・・

「自分の好きなようにしよう」とは、孔子おじさんいいこと言うなあ。

2013年4月9日火曜日

素のちから

 何時だったか、オリエント出版社からの招きで大阪で講演したときのはなし。
ホテルをあてがってもらったので、土曜から大阪入りして、ぶらぶらと夕食を探していたら、「夏野菜のスパゲッティ」なる看板発見。茄子のほか、いろいろな野菜(覚えてない)と、スパゲッティを炒めたもので、まことに美味しかった。ミートソースも使わず、トマト味でもなく、塩味のみだったので、(いつものように)目からうろこが落ちてしまった。きっと、秘密の塩を使っているに違いない、なにか隠し味があるに違いない、と踏んだ。たいてい、こういう時は、次の日も食べる。さすがに、連食すると、感動が薄れ、うまさも少し減るが、ほぼ同じもの。

材料はシンプルなので、家に帰って作ってみたら、それがまあ、美味しいこと。秘密の塩でも、隠し味を発見したわけでもなく、普通の手順で、オリーブオイルでニンニクのみじん切りに火を通し、具と麺を炒めて、塩味で完成。素っ気なく、完成。あっというまに完成。おそるおそる食べてみたら、美味しい。おどろきましたよ。素の力、偉なるかな。忽焉として前に在り(正しい使い方か知りませんが、使ってみたくて)。

初めからミートソースやトマトの力を借りていたために、素の力(オイルとニンニクと塩の力)をスポイルしていただけなので、秘密があるとか、テクニックがあるとか、そういう問題ではなくて、素材の力、基本の力だけでも、十分に美味しく仕上がる、ということを発見しました。ナポリタンで始まり、ミートソースで育った世代なので、なかなかそこから離れられない。手を加え、複雑に味付けすればおいしくなる、素材だけではおいしくない、だしは欠かせないというように、頭でっかちになっていたわけです。

さて、これは鍼灸にもあてはまるような気がしました。己の鍼灸治療像を、学校なり、講習会なり、本なりで作り上げて、頭が拘束され、不自由になってませんか? 鍼灸の「素」について考えてみたら、おどろくほど自由になるかも知れませんよ。
子母沢寛著『味覚極楽』の「宝珠荘雪の宵 伯爵 小笠原長幹氏の話」に、「料理はあまり技巧めいた包丁使いのものはうまくない。包丁味がどうこういうようなことはわからないでも、うまく食わせよう食わせようとしている調子で、いやになる。ぴたりと時節にあったものをその物の一番うまい季節に、淡白に料理して出してくれるのが何よりの馳走である」。受け売りで申し訳ないですが、こういう鍼灸が「素」ではないかと、ひそかに思っています。