2014年7月28日月曜日

からだとこころ

 よく、からだとこころは一体だ、とか言われ、心身一如ということばが利用されている。中医基礎理論では、五神、五志などといって、五蔵と魂魄や感情が関わっていることを言うが、そこまでであって、心身一如ということは書いてないようである。どうも、日本人が考え出したような感じである。


 こころの問題は、日本内経医学会の霊枢講座で、天年篇に及んだときが、本格的に取り上げなければならない題材だと気がついた。天年篇は、健康は、蔵府の調和、経脈の調和、志意の調和から成る、と明言している篇で、蔵府と経脈については既知のことだが、志意の調和とはどのようなことか、そもそも志意とは何か。そこから、突っ込み始めました。


 7月26日(土)・27日(日)の両日は、恒例になっている、第9回北里大学東洋医学研究所主催の「教員のための古典講座」が開催された。小生も一講座担当することになり、こころの問題を整理して、発表した。


 『内経』には、こころを扱う立場が三つあること、それぞれ異なる立場であること、中医学で取り上げているのはその一つの立場だけであって、残りの二つの立場は、見落としているか、削除していること、などをとりあげた。『内経』は、清濁併せのみ、すべての意見をふところをに抱えているのである。もし、こころがからだと密接に関係しているならば、からだの見方も三つあるということになる。『内経』はいろいろな立場の論集だといわれるが、ひとつの切り口として、こころの問題があるのかもしれない。


 
 こころの問題は、医学のみならず、養生とも関わり、宗教、思想、哲学とも関わり、なかなか扱いにくいのだが、『内経』の原初的な問題提起を、まずは素直に拾って、整理しておかねばならないと思った次第。


①主宰神を認める立場→『霊枢』本神篇
②主宰神を認めない立場→『素問』上古天真論篇(老荘思想)


③分別智を重視する立場→『霊枢』天年篇
②分別智を否定する立場→『素問』上古天真論篇(老荘思想)


 おおよそ、以上の三つの立場を拾うことができる。すべて、立場が異なっている。ただし、三つの立場ともに、『内経』では簡単な紹介でおわり、医学的に深めたとは言いがたい。おそらく、鍼・灸、湯液という治療が、こころの不調に適していないから、問題を提起しただけで、さらにすすんで検討されなかったのかも知れない。


 こころの問題が深められたのは、老荘思想や仏教が活発に討論された、六朝時代ころと考えられる。









2014年7月24日木曜日

『鷹野鍼灸院の事件簿』

 『鷹野鍼灸院の事件簿』は、東洋鍼灸専門学校のごたごたが題材になっていると漏れ聞いたので、早速、買って読みました。

 宝島社の文庫で、600円。著者は乾緑郎さんと言う人で、東洋鍼灸専門学校卒の鍼灸師でもあります。前半は、鷹野鍼灸院をめぐる話題で、後半が主人公の母校のごたごたが題材になっています。

 こういう小説は、世間受けするのか、と思ったけど、今年5月の第1刷で、7月には増刷しているようなので、結構売れているようです。乾ファンと、鍼灸師が読者なのか。ペーパー鍼灸師が、すっかり忘れてしまって、今更教科書も気が重い人には、思い出すように読むのにはとても良いかと思います。読みやすい文章ですし、専門用語も適宜、ばらまかれてあります。著者は、鍼灸師なのだけど、それだけでなく、よく勉強なさっていて、説明も的確で、読みやすい文章でした。

 学校のごたごた物を題材にし、それを切れ味よく事件に仕立て上げているところでは、構成力といい、文章力といい、優れた人だなあ、という感想でした。一気に読ませる、そういう力量は、あるのではないか。(評論家みたいですけど)

 後半の主人公は、教務から事務に移動した立花先生で、モデルの先生が彷彿として、にやにやしながら読みました。鍼灸に関しての、著者の意見が挟まっていたりして、勉強にもなりました。

2014年7月14日月曜日

重岡恵さん逝去

 数年前に脳卒中でたおれ、その後、闘病中だった、同門の重岡恵さんが、本日(7月14日)に逝去した。60代半ばでしょうか。先輩も仲間も、相次ぎ、70才を超えられずにこの世を去っているのを思うと、焦るような、あきらめるような、複雑な気分です。

 
 倒れた直後と、転院先の山梨の病院、そして最後になった流山市の光陽台病院、都合3度のお見舞いでした。齒が抜けるように、ひとり、ひとりと、仲間が居なくなるのは、たましいが抜けるようです。居なくなることがわかっていても、現実に直面すると、す~っと、抜けていくようです。
 

 この学統の「いいつたえ」として、「誰かをよぶ」というのがあります。昭和50年に丸山先生が亡くなったあと、翌年には藤木先生をよび、平成12年に島田先生がなくなったら、翌年には島原の森川君を呼びました。昨年9月に亡くなった金古先生は、重岡さんを呼んだのでしょうか。

 こんな「いいつたえ」が効力を発揮しているのかどうかわかりませんが、ひとり、ひとりと、齒が抜けたように居なくなるのは、残った者としてはなかなかにしんどいです。しんどくない人もいるのでしょうけど、ぼくの場合は、しんどい。わかっていることなのに、こころに空洞ができ、その空洞が埋まる前に、次々と空洞ができるのは、もっとしんどい。

 10年前ならこんな思いはしなかったから、だんだんこころもろくなってますなあ。



2014年7月7日月曜日

温灸読本のPR

 医道の日本社のHPに、温灸読本の著者インタビューが掲載されました。ご参考ください。
 昔だったら恥ずかしくて、こんなことには至らないのですが、『論語』を読み始めて、だんだん、ふところが深くなって、清濁併せのむことが少しずつ出来るようになりました。恥ずかしいけど、出しゃばっているけど、僭越ですが、訴えるのは今しかないと思って、思いを発露しています。

 
 
 
 
 
 
 

文質彬彬(ぶんしつひんぴん)

 ワールドカップのブラジル・チリ戦のオープニングの国家斉唱。どちらのチームの、選手も、監督も、コーチも、さらには満場のサポーターまでが、叫ぶように国歌を歌っていました。まるで怒鳴りあっているようでした。

 君が代では、叫ぶような歌い方はできないし、日本人もおとなしいし、見たことがない異次元の国歌斉唱でした。この叫びをみて、『論語』の文質彬彬を思い出しました。

 「質、文に勝てばすなわち野。文、質に勝てばすなわち史。文質彬彬、然るのち君子なり」(『論語』雍也篇)

 文とは、美しい模様のあるさま、温和で上品なさま。
 史とは、虚飾があるさま、うわべがかざられているさま。
 質とは、飾り気のないさま。素朴さ。
 野とは、野蛮で、教養が無く洗練されていないさま。

 文が過ぎれば史になり、質がすぎれば野になる。文と質は、相反するものだが、ほどほどに混じり合った人物が、理想的人物(君子)だという。彬彬は半々とおなじ。

 おそらく、孔子の教団に所属すると、仁愛だとか、教養だとかいわれるので、どうしても文にかたよるのだろうと思う。弟子たちが、だんだん温和で上品になり、おとなしくなっている様子が浮かび上がる。其の結果、文が良くて、野が悪いという差別意識が生まれてきているところに、「君たち、荒々しさ、下品さを、忘れてはいけないぞ、捨ててはいけないぞ」、そう言ったのでしょう。

 二つのうち、どちらかを否定して抹消させるのではなく、二つの相反する見方をバランスよく活かすべきだ、ということでしょう。善なるも良し。悪なるも良し。苦も良し。楽も良し。分け隔てが無い。

 孔子は、品行方正で、まじめ一辺倒な人物のようだけど、そうではないようです。お酒は、乱れない程度に、飲む。歌をうたうのは、葬儀の間は、止める。金持ちになりたいけど、自分の努力不足なら貧乏でも良い。親孝行のためには長生きしたいけれど、「朝に道をきかば、夕べに死すとも可なり」と言ったり、老いがやってきているのに気がつかなかったり。堅苦しくなく、価値観に融通性がある。物事の判断に隔てがない。こんなところが、魅力的です。

 それはそうと、今の私たちの生活は、便利で、安心で、平和な世の中に見える。とても、文に片寄っている。その延長線上に、サッカーの日本のチームが在ったのではないかと思う。チームワーク、協調性、パスワークとかが、日本のチームの特徴だというけど、別な見方をすれば、野にとぼしい。型破り、意外性、強引、自分勝手、そういう面を持ち合わせていない。チームとしての幅、奥行きがなく、単調だったのではないでしょうか。

 いずれにしても、日本人に粗野性が薄れている。失いかけている。それは素朴・純朴から発するとしたら、もっと生活も、頭の中もシンプルにして、原初の野生を復活させたい。鍼灸にも、その原初性があるに違いない。

 
 
 
 どばーっと血をとって欲しい、釘のようなものを刺して欲しい、ぎゅ~っとつねってほしい。時には、そういうリクエストをする方がいる。こういった理屈抜きの鍼灸も、忘れがたいものです。

 理屈の鍼灸と理屈抜きの鍼灸、半々。然る後、上工なり。でしょうか。