2016年1月26日火曜日

味覚極楽


中公文庫に「味覚極楽」という随筆がある(絶版かも知れません)。愛読書のひとつで、なんども読んでいる。

 

 小倉藩主の小笠原忠快の長男の長幹(ながよし)伯爵の話で、

「料理はあまり技巧めいた庖丁使いのものはうまくない。庖丁味がどうこういうようなことはわからないまでも、うまく食わせよう食わせようとしている調子で、いやになる。ぴたりと時節にあったものをその物の一番うまい季節に、淡泊に料理して出してくれるのが何よりの馳走である。」

 

 ここに至り『老子』六十三章「無味を味わう」が思い浮かぶ。聖人は無味を味わうというのだが、無味とは、全く味が無いことではなく、余計な味付が加わっていないという意味である。つまり、季節の味、自然の味、つまり素材の味を無味と言い、人による味付けを有味と言うことがわかる。 持ち前の味はあるが、人為的な味付けがない、これが老子の無味なのである。

 

 スイカは、割ってたべると美味しく、庖丁をいれると一段おちるらしい。さらに、細かに切って、他の果物とまぜて、シロップなどかけたら、スイカの本来の味を台無しにしてしまう。本来の持ち前の味を台無しにしないように、人の手はできるだけ少ないほうがよろしい。

 

 炊きたての白いご飯は、おかずが要らないほど美味しい。それに、納豆をかけたり、たまごをかけたり、はたまたチャーハンにしたのでは、本来のおいしさは分からなくなってしまう。ご飯を食べたいならば、余計なことをしない方がよく、納豆ごはんを食べたいならば、納豆をかけるが宜しい。

 

 ここから老子の無欲を考えてみると、欲望をすべて否定しているのではなく、持ち前の欲望は否定せずに、こ賢しい知識に煽られた欲望はいらない、ということになる。空腹をみたす適度の食欲は認めるが、度を過ぎた食欲は否定しているのだとわかる。度を超したのは、私利私欲のためである。

 

 とすれば、老子性といおうか、自然性といおうか、素材主義といおうか、これも料理の一面でもある。究理の中国医学が在ってもよいが、無理の中国医学が在ってもよい。それを、日本から発生したらどうだろう。無理の中国医学は、江戸時代で言えば、古方派なのかとも思え、あるいは無分流なのでは無いかと思う。もしそうだとすれば、これらを受容する側に、老子性、自然性が無ければならない。それなしに、頭ごなしに導入しても、なにも得ることはないと思う。

 

 第四土曜日に『老子』輪読会を始めたのだけど、いよいろおもしろくなってきました。

2016年1月14日木曜日

曲直瀬道三

 昨日、曲直瀬道三の物語がありました(NHKヒストリア)。


 1528年に田代三喜から医学を学び、1546年に京都で開業。39歳。頭脳抜群の道三にして、10年間の修業期間。これを知って、今のわたし達の足元の危うさに、おそれをいだきました。




 技術職が、たったの3年。これでしあがるはずがない。死にものぐるいの修練を積むならば、3年でも身につくのかもしれないが、現況の子供じみた学校教育では、10年あっても足らないかも知れない。
 
 この子供じみた教育で、試験に通ったからといって野に放っている此の業界は、いつしか消滅するかも知れない。どう考えても、どんな職業でも、未熟な者が受け入れられるはずがない。にわか鍼灸師が、東洋医学でございと看板をかかげられる、この状況は、早い内に、終止符を打ったほうが良いのではないか。




 学校3年間といっても、1日2時間ですから、1日4時間にしたら1年半です。1日6時間にしたら1年。そんな短期間で、本当に鍼灸師が養成できるのか。抜本的な改革をしなければ、しりすぼみになることは自明でしょう。いつまでもアグラをかいてはいられないでしょう。




 日本の鍼灸術は優秀だと思いますが、日本の鍼灸師養成システムはあまりにも幼稚です。この鍼灸文化が滅びる前に、米国なりに移して置くのも一策かも知れません。鍼灸の母国に返すのも一法かも知れません。


 いずれにしても、土台からやりなおす新しい鍼灸教育をスタートさせなければと強く思ったしだい。

2016年1月12日火曜日

沢庵『老子講話』

 年末から年始にかけて、沢庵の『老子講話』を読んでいる。

 蜂屋邦男訳注(岩波文庫)や、その他、近代の先生の注釈とはずいぶん違う。何故に違うのかと、案じつつ読んでいるが、老子の人物像が明解であるか、そうでないか、そこが異なるのかもしれない。

 第20章の末句に「求食於母」とあるが、蜂屋邦男は「道という乳母を大切にしたい」、福永光司も「乳母なる道をじっと大切にしている」と訳す。

 これを沢庵は「小児の母にママ食ふの事なり。老子の心、小児の何の求め貪る事も無く、ママ食ふと云ふ其れが貴い、其の心がよいとなり、然るを註に頑且鄙しからんやと見て、母の字を道と見たるは大に非なり。老子の心には非ず。頑且鄙なりと云ひ、食を母に求むと云ふが是れ老子のおもしろき本意なり」という。

 第20章の冒頭は「絶学無憂」とあり、沢庵は、礼学を立てば憂いが無いとよみ、人間社会の小うるさいしきたり・マナー・倫理道徳を切り捨てれば、憂いなんぞ無くなる。だから、食事の作法、その以前に、子供が母に食べ物をせがみ、もくもくとご飯をたべる、その純粋無垢な姿が貴い、ここのところが老子のおもしろさなのだ。ところが、それでは、戯れだし(頑)、鄙びているとして、母を道に置き換えて注釈するのは、大いなる間違いである。と言っている。

 沢庵は、老子がどのような人物であるか、それを元にして解説している。老子ならば、こういう意味だろう。老子は、こんなこというはずがない。このように、作者を具体的にイメージしていないと、文面を追うだけで、上滑りで、真味が出てこない。そこが、読者の気持ちを捕まえるか、捕まえないかの差になっているようである。

 近代の『老子』註は、学者から発信されるから、どうしても上滑り調である。このことは、『内経』にも言える。ただ文字面を追うのではなく、作者の人物を想像し、その意図を汲みあげるのを目指すべきである。ただ、それには、相当な労力と時間がかかるに違いない。速馬でも淀、遅馬でも淀。

 それはそうと、古聖の智恵に触れるのは、実に悦びである。