2015年7月20日月曜日

オリエント研修その4








 森共之先生が、30年以上も臨床に従事し、おなじ位の時間『老子』を読んで、「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所なり。医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」と書いたのは、生半可な思いでもないし、中途半端な技術でもないのは、間違いありません。


「相い忘れ」は単なる手先の技ではなく、日頃の鍛錬も踏まえたものであり、また老子の思想を踏まえた人生観を土台とした「相い忘れ」なのです。


 「相い忘れ」が、バッターボックスに立った打者の境地だとして、おそらく「来たボールを打つだけ」と言い換えることができるでしょう。ヒットになるか、空振りになるか、そんなことを考えている時間もないし、勝つとか、負けるとか考えている隙間もないでしょう。そうすると、「相い忘れ」の打撃をするためには、毎日の練習が欠かせないし、さらに野球選手としての人生哲学がなければ、おそらく打席で「相い忘れ」を表現できないでしょう。


 お相撲だってそうでしょう。土俵に立ったら、「相い忘れ」にならないと、勝とうとか、こんちくしょうとか、思った時点で、負けるかも知れません。印象的なのは、白鳳で、天敵である稀勢の里との対戦のときは、顔つきがかわり、相撲もばたばたして、負けることが多いようです。きっと、心の中が揺らいでいるんだとおもいます。かつての負け相撲を忘れていないし、目の前の稀勢の里も忘れていないので、負けることがあるのだと思います。


 こうしてみると、腹診という技術も、手先の技術として普段の鍛錬が欠かせないし、こころの鍛錬としても「相い忘れ」、つまり無心無欲になる工夫も欠かせないということになります。しかし、無心無欲といっても抽象的で理解しにくいのです。無心無欲を提案したのは老子であり、その系譜の荘子も唱えましたが、具体的な工夫の仕方は、何も教えていません。個人的な感想ですが、それを具体化したのが、禅宗ではないかと思います。沢庵の『不動智神妙録』が、とてもわかり易い。無心無欲とは、「こころを止めないこと」に置きかえても良いかと思います。千手観音の千本の手は、千本自由自在に使うためには、どの手にこころを止めてはならない、ことを教えているのだ、とかいう例えがあって、とてもわかり易いです。


 沢庵の『不動智神妙録』をよくよんで、無心無欲を工夫し、「相い忘れ」に到達する。これが、腹診の始めと終りです。その上で、各流派の腹診法を学ぶべきだ。と、今回のオリエント研修で、再確認しました。


 いきなり講演をふってくれる野瀬社長は、良い機会を与えてもらって、感謝に堪えません。また、熱心に聞いてくれる皆さんがいるのも、ありがたいことです。



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