『老子』13章に「わたしに大きな災禍が降りかかるのは、わが身に執着しているためだ。わたしがわが身に執着しないならば、なんの災禍が降りかかろうか」(蜂屋邦夫訳)とありました。
これを読んで、天災を悪者にしていた自分に気がつきました。天は、ただ無心に、雨を降らして、風を起こしただけなのに。そよ風は善で、強風は悪、小雨は善で、大雨は悪、と決めてしまっていました。自分に被害があれば、天災とうらんでいました。天にたいして、なんと傲慢だったのでしょう。
孔子は、迅雷(突然の雷)、風烈(暴風)のときは、居ずまいを整えた(『論語』郷党篇)、そうです。自然現象に対する、いいかえれば天に対する敬虔さをよくあらわした一言かと思います。
老子、孔子ともに、よく出来た人で、たんに人間社会の生き方を指導するだけでなく、自然に対する心構えも教えてくれる。人体が自然の一部と考えれば、老子、孔子に、学ぶことが多いのではないでしょうか。『内経』が中国医学の原典であるけれど、『老子』は天地の中の人体のとらえ方、『論語』は天の下の人体のとらえ方を学ぶ古典として、役割は大きい。かくして、伝統鍼灸大学の基礎科目に、『老子』講読、『論語』講読の2科目が確定しました。
『老子』の「なんの災禍が降りかかろうか」というのは、実際に災害に遭っているのだけど、それを災害と思わなければ、実際の災害は災害ではないという意味で、「仕方ないねえ、自然にはかなわないね」と、すっきりした顔でテレビのインタビューに答えていましたが、そういうことではないでしょうか。
阿蘇山は何度も噴火しているけど、その麓に住んでいる人、鹿児島市の人たちは、きっと阿蘇山の噴火を災害と思っていないのでしょう。自然とともに生きるというのは、自然から与えられる益だけでなく、自然から与えられる損というのも、どちらも受け入れること、つまり損益の区別をしないことなのだと、理解できました。
損益、善悪にわけないこと。
天災と言うのは、慢心であること。
自然に対する敬虔さが欠如していた。
0 件のコメント:
コメントを投稿