2020年7月26日日曜日

拝むのは

 葬儀にいくとき、加地伸行の『儒教とは何か』(中公新書)の「はじめに」を思い出しました。
 
 拝むのは誰かという話で、仏教式葬式なら、本尊である。葬儀場に本尊を持ってこれないから、それに替わる「南無阿弥陀仏」「南無釈迦牟尼仏」と書いてある掛け軸でもよいのだそう。

 それを拝むのであり、お坊さんでも、棺でも、位牌でも、写真でもないのだそう。島田美智子さんの葬儀では、掛け軸がなくて、困りました。しかたなく、型通りに前を向いて拝みましたが。

 喪服は、親族はフルバージョンで、その他は簡易でいいのだそうです。親族は、故人を失って、着ている服を考える間もなく、おしゃれの気持ちも無いのだから、決まった喪服をきればいいのだそう。お化粧はしてはいけない。ほつれ髪ぐらいがいいのだそう。

 親族以外は、それほど心を失っていないので、華美にならない程度の衣服でよいのだそうです。ネクタイを黒くしたり、黒い腕章をまいたりするぐらいで。親族でもないのに、親族と同じフルバージョンなのは、僭越にすぎるのだと言っています。

 そんなことを思いだし、喪服はやめて、黒の上着と、グレーのズボンで行ってみました。

 葬式の本来の意味を知ると、現代社会の風習、葬儀やさんがつくった儀式などが、意味ないことがよく分かります。
 


0 件のコメント:

コメントを投稿