昨日(10月19日)は、藤本蓮風先生の臨床50年を祝う会に参加してきました。
臨床50年を数える人は、選ばれし人。故人では、岡部素道先生、小野文恵先生、現役としては首藤傳明先生、伊藤瑞凰先生がご活躍中。野球で言えば、名球会入りみたいな感じ。
天寿100歳として、鍼灸家ならば、臨床70年は目標とすべきかも知れません。がしかし、鍼灸家が折寿している現在、臨床50年は、輝く金字塔といえる。今後は、70年を目指して欲しいところである。
ところで、藤本先生に『弁釈 鍼道秘訣集』という著書がある。本人は、27歳で書いたという。出版されたのは、もう少し後だが、それにしてもなんと早熟なことか。派手な印象はあるけれど、とても地道な人であることは間違いない。地道な下積みを重ね、着実に成長し、開花をみたのであるから、本人は鍼狂人と自称するけれど、実にまっとうな先生である。藤本先生のみどころは、実に足元なのである。
後進には、その開花をものまねせずに、下積みのところをよく見て、地道に進まれんことを、切にねがうところである。
2014年10月20日月曜日
2014年10月6日月曜日
迷い無き前進
島田先生が亡くなったのは2000年8月。おそらく、その2年ほど前から、島田先生とテニスのラリーをしたくなって、テニス教室に通い始めました。
以来、15年、欠かさずに通っています。その間、コーチが何人か変わりました。コーチそれぞれに教え方があって、特徴があります。
今のコーチは、一番、合っているような気がする。何が合うかというと、前に歩くように打て、というんです。横で打たないで、前で打てというんです。遅めのボールならなんとか出来るのですが、速いボールだと、反応が遅れて、横で打つようになります。それでも前で打てというわけです。いつも頭の中は、前、前。
テニスの技術としては特段のことは無いのでしょうが、実は『論語』とかぶっているので、納得がいっています。『論語』の核心は「仁」ではあるが、その他に「積極性」もあると思います。
子、顔淵を謂う。惜しいかな。吾、其の進むを見たり。未だ其の止むを見ざりし。
先生は顔淵について語った。死んでしまったのはとても惜しい。彼が前進しているのはよく見たが、彼が立ち止まったのは見たことがない。ためらいなく、よこしま無く、まっすぐ前進をつづける顔淵が、まぶしくて仕方ない、楽しそうに前進するのが羨ましくてならない。そんなセリフではないでしょうか。
「進む」には迷いは邪魔である。
迷った冉求(ぜんきゅう)という弟子は、「今、なんじはかぎれり」と叱られました。今、おまえは、迷っただろう、と。「かぎれり」は、原文では「画」で、「今、お前は自分から見切りをつけている」と訳される(金谷治)が、そうでは無いような気がする。
「画」は、分画の意味で、ふたつに分けることであり、ふたつを天秤にかけることである。先生の道を進むことは自分には出来ないのではないかと冉求。その冉求を、出来る出来ないで迷っている、そのことがお前の前進をためらわせているのだ、「今、なんじはかぎれり」と。
解釈はいずれにしても、「迷い無き前進」は、『論語』から教わり、テニスからも教わって、そして身につきそうです。そういう意味で、今のコーチは、良いのです。
以来、15年、欠かさずに通っています。その間、コーチが何人か変わりました。コーチそれぞれに教え方があって、特徴があります。
今のコーチは、一番、合っているような気がする。何が合うかというと、前に歩くように打て、というんです。横で打たないで、前で打てというんです。遅めのボールならなんとか出来るのですが、速いボールだと、反応が遅れて、横で打つようになります。それでも前で打てというわけです。いつも頭の中は、前、前。
テニスの技術としては特段のことは無いのでしょうが、実は『論語』とかぶっているので、納得がいっています。『論語』の核心は「仁」ではあるが、その他に「積極性」もあると思います。
子、顔淵を謂う。惜しいかな。吾、其の進むを見たり。未だ其の止むを見ざりし。
先生は顔淵について語った。死んでしまったのはとても惜しい。彼が前進しているのはよく見たが、彼が立ち止まったのは見たことがない。ためらいなく、よこしま無く、まっすぐ前進をつづける顔淵が、まぶしくて仕方ない、楽しそうに前進するのが羨ましくてならない。そんなセリフではないでしょうか。
「進む」には迷いは邪魔である。
迷った冉求(ぜんきゅう)という弟子は、「今、なんじはかぎれり」と叱られました。今、おまえは、迷っただろう、と。「かぎれり」は、原文では「画」で、「今、お前は自分から見切りをつけている」と訳される(金谷治)が、そうでは無いような気がする。
「画」は、分画の意味で、ふたつに分けることであり、ふたつを天秤にかけることである。先生の道を進むことは自分には出来ないのではないかと冉求。その冉求を、出来る出来ないで迷っている、そのことがお前の前進をためらわせているのだ、「今、なんじはかぎれり」と。
解釈はいずれにしても、「迷い無き前進」は、『論語』から教わり、テニスからも教わって、そして身につきそうです。そういう意味で、今のコーチは、良いのです。
鍼法の真髄
9月28日の丹塾古典部は、『内経』の刺法、補写法についての条文を、関連づけながら読みました。これらの条文は、個人的には何度も読み、その都度、わかったつもりでした。
今回読み直してみたら、やっぱりわかったつもりで、わかっていませんでした。一つの漢字、一つの語句、一つの文章の読み方が浅すぎました。『論語』を読むように、何度も繰り返し読まないと、真髄までは到達しないと痛感しました。さらに、ちょっと読んだだけでわかったつもりになるのは、『内経』に失礼じゃないかと思うようになりました。
それでも、今回は、なんとなく鍼法の核心部分に近づいたような気がします。山頂が見えてきたというか。とはいっても、それが山頂なのかは、心もとない。
『論語』は、教養のためにと読み始めたのだけれど、繰り返し読んでいる内に、古典の読み方の基本を学んだような気がする。わからないけど、繰り返し読んでいると、いつのまにか真髄に到達できるような感じがする。『内経』は分量が多いので繰り返し読むというわけにはいかないけど、大事なところは繰り返し読みたい。
本の読み方にいろいろあるけれど、『内経』は精読するしかない。一回読んだだけで理解できる、そんなチープな古典ではなさそうです(他の古典もそうなのでしょうが)。
『論語』は医書じゃないから、読む必要はないのかも知れないが、古典の読み方を学ぶためには格好の教材。孔子の生の言葉、行動が記録されていて、脚色が無いのが何よりいい。お釈迦さまの説法を金口直説(こんくじきせつ)というらしいが、まさに『論語』はそれである。『内経』もそれなのである。今までは、肩肘張って、読み解くというような気持ちで、読んでいましたが、そうではなくて・・・・
「説法者と、漢字を挟んで、会話する」、9月28日は、そんな気持ちになれました。
今回読み直してみたら、やっぱりわかったつもりで、わかっていませんでした。一つの漢字、一つの語句、一つの文章の読み方が浅すぎました。『論語』を読むように、何度も繰り返し読まないと、真髄までは到達しないと痛感しました。さらに、ちょっと読んだだけでわかったつもりになるのは、『内経』に失礼じゃないかと思うようになりました。
それでも、今回は、なんとなく鍼法の核心部分に近づいたような気がします。山頂が見えてきたというか。とはいっても、それが山頂なのかは、心もとない。
『論語』は、教養のためにと読み始めたのだけれど、繰り返し読んでいる内に、古典の読み方の基本を学んだような気がする。わからないけど、繰り返し読んでいると、いつのまにか真髄に到達できるような感じがする。『内経』は分量が多いので繰り返し読むというわけにはいかないけど、大事なところは繰り返し読みたい。
本の読み方にいろいろあるけれど、『内経』は精読するしかない。一回読んだだけで理解できる、そんなチープな古典ではなさそうです(他の古典もそうなのでしょうが)。
『論語』は医書じゃないから、読む必要はないのかも知れないが、古典の読み方を学ぶためには格好の教材。孔子の生の言葉、行動が記録されていて、脚色が無いのが何よりいい。お釈迦さまの説法を金口直説(こんくじきせつ)というらしいが、まさに『論語』はそれである。『内経』もそれなのである。今までは、肩肘張って、読み解くというような気持ちで、読んでいましたが、そうではなくて・・・・
「説法者と、漢字を挟んで、会話する」、9月28日は、そんな気持ちになれました。
2014年9月23日火曜日
相性の良い土地
僕の生まれは宮城県で、宮城県といっても広くて、生まれたのは桃生郡豊里町というところで、現在は登米市に合併。一昨年、弟に連れていってもらって、50年ぶりに、出生の地をみてきた。そこには、4才くらいまで居たのだとおもう。あたまの奥に、その木、その道が、かすかに残っていたし、道の突き当たりには学校があるという記憶も確かだった。
父が鍼灸師になるために仙台の学校に行っていた3年の間は、母の実家の塩竃市浦戸野々島(離島)に3年ほど住んでいました。周りは海。幼稚園などないから、ただ遊び回っていたのだと思う。1年生の1学期は浦戸小学校にまなび、2学期から松島町に借家を得て住むことになった。
その借家とは、松島瑞巌寺を造営するための大工さんの住まいだったそうで、築400年のかやぶき屋根の家。今で言う古民家ですね。古民家に住んだ経験からいえば、古民家には住みたくないですね。湿気で床は腐り、虫は上の方から落ちてくる、何にしても不便です。それから10年位して、近くに土地を得て、簡易なる住宅をたてて、ようやく独立というところでした。
標題の相性の良い土地というのは、浦戸野々島で、船を下りたとたんに身体が軽くなり、気も晴れ、それだけで幸せを味わうことができます。(以前のブログにも書きましたが、桃源郷のようなところです。)
松島も、いい土地柄なのでしょう。伊達正宗が選んだだけあります。今は、埼玉県川口市に住んでいますが、松島か野々島から帰ってくると、駅から自宅まで歩いて3分のあいだに、身体も心も、どよ~んと重くなります。いかんとも、重い。
しかし、家に帰り、時間が経つと、重いという感覚も忘れてしまっています。感度が鈍るというか。重いということは、身体にはなんらかの影響があるのではないかと、ちと気になっています。
父が鍼灸師になるために仙台の学校に行っていた3年の間は、母の実家の塩竃市浦戸野々島(離島)に3年ほど住んでいました。周りは海。幼稚園などないから、ただ遊び回っていたのだと思う。1年生の1学期は浦戸小学校にまなび、2学期から松島町に借家を得て住むことになった。
その借家とは、松島瑞巌寺を造営するための大工さんの住まいだったそうで、築400年のかやぶき屋根の家。今で言う古民家ですね。古民家に住んだ経験からいえば、古民家には住みたくないですね。湿気で床は腐り、虫は上の方から落ちてくる、何にしても不便です。それから10年位して、近くに土地を得て、簡易なる住宅をたてて、ようやく独立というところでした。
標題の相性の良い土地というのは、浦戸野々島で、船を下りたとたんに身体が軽くなり、気も晴れ、それだけで幸せを味わうことができます。(以前のブログにも書きましたが、桃源郷のようなところです。)
松島も、いい土地柄なのでしょう。伊達正宗が選んだだけあります。今は、埼玉県川口市に住んでいますが、松島か野々島から帰ってくると、駅から自宅まで歩いて3分のあいだに、身体も心も、どよ~んと重くなります。いかんとも、重い。
しかし、家に帰り、時間が経つと、重いという感覚も忘れてしまっています。感度が鈍るというか。重いということは、身体にはなんらかの影響があるのではないかと、ちと気になっています。
2014年9月8日月曜日
丹澤章八先生随筆・講演集『鍼灸の風景』
東洋鍼灸専門学校の元の校長の丹澤章八先生が、かつて発表した随筆や、講演文をまとめた『鍼灸の風景』が刊行された。といっても軽装版である。
昭和52年にかいた「中国針法に想う」は、中国留学の時の記録。古い時代の中国、中国鍼法がかいま見えて、とても面白い。
平成6年に書いた「山下先生とわたし」は、師匠の山下九二夫先生への思いの重い追悼文。理想的な追悼文で、軽い追悼文しか書けない僕には、よいテキストである。
平成20年の「鍼灸教育雑感」は、第36回日本伝統鍼灸学会学術大会の会頭講演の記録。丹澤会頭、宮川実行委員長の、東洋鍼灸専門学校あげての学会でした。昨日のことのように思い出す。
以上3篇を含めて、都合15篇を納める。
鍼灸の世界で、文章が書ける先生が少ない中、丹澤先生は、本人は遅筆といいながら、吟味を重ねた文章が書ける先生である。
1冊1500円(送料別)で頒布いたします。希望者は、miyakawakouya@gmail.com にメールください。もしくは、鶯谷書院に直接お渡しすることも可能です(ただし、毎週土曜日の午後2時~5時。第3日曜日、第4日曜日の午後2時~5時。メールで確認してください)。
文章は、いろいろなところに発信できるツールなのだが、今の鍼灸界は文章が書ける人が少なくなって、発信力にとぼしく、しぼんでいるように見える。とくに、伝統鍼灸では、それが著しい。伝統伝統鍼灸の普及発展には、書き手の育成が緊急の課題でもある。
昭和52年にかいた「中国針法に想う」は、中国留学の時の記録。古い時代の中国、中国鍼法がかいま見えて、とても面白い。
平成6年に書いた「山下先生とわたし」は、師匠の山下九二夫先生への思いの重い追悼文。理想的な追悼文で、軽い追悼文しか書けない僕には、よいテキストである。
平成20年の「鍼灸教育雑感」は、第36回日本伝統鍼灸学会学術大会の会頭講演の記録。丹澤会頭、宮川実行委員長の、東洋鍼灸専門学校あげての学会でした。昨日のことのように思い出す。
以上3篇を含めて、都合15篇を納める。
鍼灸の世界で、文章が書ける先生が少ない中、丹澤先生は、本人は遅筆といいながら、吟味を重ねた文章が書ける先生である。
1冊1500円(送料別)で頒布いたします。希望者は、miyakawakouya@gmail.com にメールください。もしくは、鶯谷書院に直接お渡しすることも可能です(ただし、毎週土曜日の午後2時~5時。第3日曜日、第4日曜日の午後2時~5時。メールで確認してください)。
文章は、いろいろなところに発信できるツールなのだが、今の鍼灸界は文章が書ける人が少なくなって、発信力にとぼしく、しぼんでいるように見える。とくに、伝統鍼灸では、それが著しい。伝統伝統鍼灸の普及発展には、書き手の育成が緊急の課題でもある。
2014年9月4日木曜日
喜左衛門井戸
写真が、「喜左衛門井戸」である。喜左衛門という人が所持していた井戸茶碗である。井戸茶碗というのは、朝鮮で作られていた、ごく普通のどんぶりである。これを高麗茶碗という。
大量生産品で、美術品ではない。「喜左衛門井戸」は、失敗作らしく本来は捨てられたはずのものが、どういう運命か日本の茶人に拾われ、いまや国宝である。つまり、ゼロ円の品物が、もし完成品だとしても100円くらいの品物が、日本に渡り、島根の松平不昧公が買ったときは550両(1両10万円として5500万円)。そして、今や国宝に。
ご覧のように、綺麗で整った美術品ではなく、どちらかというと見にくいゆがんだどんぶりである。なので、産地の朝鮮では価値は認めてもらっていない。なぜか、日本の茶人が、渋いだとか、わびだとか言われて、美術品に昇華したのである。
評価の対象は「無作為」。美術品を作ろう、高く買ってもらおう、世間にみとめてもらおう、そういう作為が全くみられない。柳宗悦は、「朝鮮の品々は、嘗ていやらしいもの俗なもの、つまり醜いものが、殆どないのである。」「ここで醜いという言葉を<罪深い>という言葉に置きかえると、尚はっきりしてくる」と言う。
醜いというのは、見た目の醜さではなく、裏に見え隠れする「作為」である。高く買ってもらおう、世間に認めてもらおう、そういう作為である。それが、井戸茶碗だけでなく、なんにでも、そうだという。
井戸茶碗に、透明な精神性があり、それを茶人が発見し、好んだのである。
江戸時代、高麗茶碗をつくる対州窯が設置され、明治末年まで継承されていた。昭和になって、小林東五という人が再興し、一定の評価を得ていたが、70歳になって、廃窯した。理由は「調子に乗ると見苦しい」。
『老子』第九章に「功成りて、身退くは、天の道なり」を具体化したのである。ほんらい「無作為」のものを作るのに、有名になってしまって、こんどは有名を維持するために制作するのが「見苦しい」というのである。
天の道に外れているから「見苦しい」、不自然だから「見苦しい」。老子を再び考えよう。
2014年9月2日火曜日
直観
柳宗悦の『茶と美』(講談社学術文庫)を久しぶりに読んだら、
「直観は、その文字が示すとおり、見る眼と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見ること、直ちにみることである」
という記載に出会った。この本も、何度か読んでいるのに、この文章を拾えなかったのは、味わう能力が未だ及ばざるが故なり。少しは成長したみたい。
何か食べたいときに、美味しい店を検索したり、他の人の意見を聞くことがあるが、それでは直観にならない。自分の舌で決めるべきである。直観しないかぎり、いつまでも直観に達しない。いつでも人の意見を聞いているかぎり、独立できないし、自由になれない。直に、自分の目で、観る。直に、自分の手の平で、診る。鍼灸は、直観の医療なのである。
直観といえば、東京国立博物館の「有楽井戸」を思い出す。ケース越しに覗いた茶碗に惹かれてしまって、しばらく茶碗に凝ったことがある。この茶碗を持ってみたい。触ってみたい。そういう衝動に駆られてしまった。結局は、同じ系統の茶碗を入手して、満足してしまったのだが、記憶に残っている直観といえば、「有楽井戸」である。
『茶と美』に「喜左衛門井戸を見る」という一文があり、著者の柳が、国宝の「喜左衛門井戸」を直に見ることができて、そのときのことを文章にしたものである。その時の気持ちがとてもよくわかる(けど、雲泥の違い、月とすっぽんの違いがある)。
眼の前にあるのである。持って良いのである。触って良いのである。このような機会は二度と無いのである。あこがれの「喜左衛門井戸」なのである。高揚感に溢れる一文である。
『茶と美』のカバーは、その「喜左衛門井戸」なのだが、ほれぼれします。しぶい。
「直観は、その文字が示すとおり、見る眼と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見ること、直ちにみることである」
という記載に出会った。この本も、何度か読んでいるのに、この文章を拾えなかったのは、味わう能力が未だ及ばざるが故なり。少しは成長したみたい。
何か食べたいときに、美味しい店を検索したり、他の人の意見を聞くことがあるが、それでは直観にならない。自分の舌で決めるべきである。直観しないかぎり、いつまでも直観に達しない。いつでも人の意見を聞いているかぎり、独立できないし、自由になれない。直に、自分の目で、観る。直に、自分の手の平で、診る。鍼灸は、直観の医療なのである。
直観といえば、東京国立博物館の「有楽井戸」を思い出す。ケース越しに覗いた茶碗に惹かれてしまって、しばらく茶碗に凝ったことがある。この茶碗を持ってみたい。触ってみたい。そういう衝動に駆られてしまった。結局は、同じ系統の茶碗を入手して、満足してしまったのだが、記憶に残っている直観といえば、「有楽井戸」である。
『茶と美』に「喜左衛門井戸を見る」という一文があり、著者の柳が、国宝の「喜左衛門井戸」を直に見ることができて、そのときのことを文章にしたものである。その時の気持ちがとてもよくわかる(けど、雲泥の違い、月とすっぽんの違いがある)。
眼の前にあるのである。持って良いのである。触って良いのである。このような機会は二度と無いのである。あこがれの「喜左衛門井戸」なのである。高揚感に溢れる一文である。
『茶と美』のカバーは、その「喜左衛門井戸」なのだが、ほれぼれします。しぶい。
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