今思えば、父親は、変人であり、文化人だったかも。
まず変人。43歳で、仙台の鍼灸学校に入ったこと。その前は、せんべい屋だったとか。当時の鍼灸は被差別の職業で、五体満足の男性が選ぶ職業ではありませんから、それなりの風当たりがあったでしょう。それも妻の実家に子供4人を3年間預けぱなしでしたから。今だって、なかなかできないことを敢行したのでした。
免許を取ってから、家族をよびもどし、松島町で鍼灸人生をスタートしました。田舎の古い町ですから、差別の目もあったでしょう。小学生のぼくには、わかりませんでしたが。
文化人といえば、毛筆が達者であること。年賀状はもちろん、賞状書きの内職もしていたこともありました。また、尺八を吹いていたこと。尺八に至った理由や、どこで買ったのかなどまったく知らないのですが、尺八を吹くという血すじがあったのでしょう。
その変人、文化人の血すじは、ぼくは受け継がなかったと思う。
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