明和5年(1768)刊行された、藤井秀孟(ひでたけ)の『鍼灸弁惑』を、日本内経医学会の講座で数回読みました。『論語』がよく引用されていること、後藤艮山の医説に近いこと、五行説を否定していることなどが特徴です。
『論語』を信奉する医者は、たいへんまじめで、よく勉強し、知性が豊かである。そして、はったりやうそを言ったり、手抜きの治療をするのを、とても嫌う。
藤井先生の医論は、序文の「斟酌古法、間加新意」(古法をよく汲み取り、「新意」を創出する)につきます。冒頭の建門論にも「これ古賢の要論要法を取捨して、加るに自己の発明を以てせずんば、巧を収め難し」とあります。
ただ言われたとおりにやるのではなく、冷静に考えて、取捨選択すること。まず、これが出来ないと、成果(功)は得られない。
つぎに、新意を加えること。新意は、工夫といっても良いでしょう。工夫を凝らす、というより、工夫を楽しむ、そういう心持ちが無いと、成果は得られない。
要するに、古賢(古法と賢人)に学ぶこと、古賢を盲信しないこと、工夫すること。藤井先生の真髄は、この3つのようです。
2017年3月13日月曜日
2017年3月6日月曜日
『諸病源候論』
『諸病源候論』は、昨年の早い時期に校正が終わっていて、最終作業として句読をほどこしているのだが、これがまあ、終わりのない作業で、苦行である。句読をつけてもつけても終わらない。ときおり、なんでこんなことしているんだろう、こういうことを選択した自分を恨めしく思う。A4版で、450ページもある。
こんなとき、終わりのない石垣復元作業をこつこつ続けている、鳥取の上月騰さんを思い出し、気を取り直して、また作業を続けるのである。
池田政一先生が、経穴の本を出した。分量が多い本で、執筆だけでなく、校正作業は大変だったろうと思う。来る日も来る日も、校正作業をするのは、なまじの人にはできない。時間があってもできない。無くてもできない。さいごは、魂でしょうか。
こんなとき、終わりのない石垣復元作業をこつこつ続けている、鳥取の上月騰さんを思い出し、気を取り直して、また作業を続けるのである。
池田政一先生が、経穴の本を出した。分量が多い本で、執筆だけでなく、校正作業は大変だったろうと思う。来る日も来る日も、校正作業をするのは、なまじの人にはできない。時間があってもできない。無くてもできない。さいごは、魂でしょうか。
2017年2月27日月曜日
『江南遊』
鶯谷書院の書架にあったので、借覧しました。著者は書家の青山杉雨(1912~1993)。長江下流南岸地域の旅行記録である。文人の出身地をたどり、古蹟をさがし訪れている。何度も訪れているようである。
とりあげているのは、杭州、紹興、寧波、蘇州、無錫などの都市。どちらかといえば、古都市の、古びた部分が好きらしく、よく探し出して紹介している。
なんと、昨年春に訪れた南京が取り上げられている。梁墓(梁代の王侯慕)、孝陵(明代の太祖の墓)を紹介し、また中華門の重厚さに驚いている。予習しておけば良かったなあ。
著者が行ったときは、孔子廟は焼失して、ただの広場になっていたらしいが、わたし達が行ったときは、りっぱな孔子廟が建っていた。その孔子廟の前の秦淮河を、南のほうにいけば、その中華門があるらしい。行ってみたかったなあ。
白黒ですが、写真がふんだんに使ってあるので、なかなか楽しい読み物です。その写真の半分くらいは、クリーク(小運河)に小舟が浮かんでいる写真で、櫓がついている小舟は、母方の実家の小舟とまったく同じ構造。源流は江南なのでしょうか。
いまごろ復習したことになりますが、予習復習は大切だと思いました。
とりあげているのは、杭州、紹興、寧波、蘇州、無錫などの都市。どちらかといえば、古都市の、古びた部分が好きらしく、よく探し出して紹介している。
なんと、昨年春に訪れた南京が取り上げられている。梁墓(梁代の王侯慕)、孝陵(明代の太祖の墓)を紹介し、また中華門の重厚さに驚いている。予習しておけば良かったなあ。
著者が行ったときは、孔子廟は焼失して、ただの広場になっていたらしいが、わたし達が行ったときは、りっぱな孔子廟が建っていた。その孔子廟の前の秦淮河を、南のほうにいけば、その中華門があるらしい。行ってみたかったなあ。
白黒ですが、写真がふんだんに使ってあるので、なかなか楽しい読み物です。その写真の半分くらいは、クリーク(小運河)に小舟が浮かんでいる写真で、櫓がついている小舟は、母方の実家の小舟とまったく同じ構造。源流は江南なのでしょうか。
いまごろ復習したことになりますが、予習復習は大切だと思いました。
2017年2月20日月曜日
古民家
わらぶき屋根の家、冬はあたたかそうですが、ごらんの写真は真冬で雪がまっていますが、雨戸を開けないと家の中は真っ暗なので、フルオープンです。唯一、最前線で寒さを防いでいるのか障子です。
その障子すら、たてつけが悪くてすき間があるのですから、かろうじて寒さを防いでいるだけです。こんな状況、よほど強い老人でなければ、乗り越えられなかったのではないでしょうか。
ガラス戸が普及したために、開けなくても良くなり、サッシになって機密性がよくなり、ストーブも備わって、いよいよ快適な近代生活になりましたが、つい50年くらいまでは、田舎では、江戸時代と変わらない生活していたのです。
便所も、お風呂も、今考えれば不便なもので、普通に生きていくことが大変だった時代です。
もし、このお宅で、冬に鍼灸治療をしようとしたら、手足だけのツボで済むように工夫するしか無いし、鍼数、灸数も少なくしなければならないでしょう。そんな心づもりも、江戸時代の鍼灸文献を読むときに必要かも。
2017年2月14日火曜日
懐かしの渡し船
『一億人の戦後70年』(毎日新聞出版社)という本に載っていた写真。写真の解説には「渡し船に乗った生徒たち 1949年7月 宮城県・松島湾」とあります。
渡し船は、今は今は塩竃市営汽船というのですが、昭和40年ころまでは、このような船で、今は立派なものになっています。小学生のとき、母方の実家(塩竃市浦戸野々島)に行くとき、これと同じものにのりました。写真残っていたんですねえ。
船の中は畳張りで、冬は火鉢がありました。夏なので、窓を全開にしているようです。
舳先が桟橋に着くので、おりるときは後から、先生らしき人が立っているへりを通って舳先まで行くことになります。20センチくらいの幅しかないので、子どもながら怖かった記憶があります。屋根の手摺りにつかまりながら移動しました。
屋根に乗っている子供らは、平気のへいざで立っていますから、怖くないんですね。海の子でしょうね。先生も、堂々としたもんです。僕には、母方の海の血がまじっているといっても、怖がっていたのですから、この子達からみれば、海の血はそうとう薄いかもしれません。
渡し船は、今は今は塩竃市営汽船というのですが、昭和40年ころまでは、このような船で、今は立派なものになっています。小学生のとき、母方の実家(塩竃市浦戸野々島)に行くとき、これと同じものにのりました。写真残っていたんですねえ。
船の中は畳張りで、冬は火鉢がありました。夏なので、窓を全開にしているようです。
舳先が桟橋に着くので、おりるときは後から、先生らしき人が立っているへりを通って舳先まで行くことになります。20センチくらいの幅しかないので、子どもながら怖かった記憶があります。屋根の手摺りにつかまりながら移動しました。
屋根に乗っている子供らは、平気のへいざで立っていますから、怖くないんですね。海の子でしょうね。先生も、堂々としたもんです。僕には、母方の海の血がまじっているといっても、怖がっていたのですから、この子達からみれば、海の血はそうとう薄いかもしれません。
2017年2月11日土曜日
懐かしの我が家2
もう一枚。
前の家(奥田さん)の解体の写真です。残っているのが、我が家です。このころ、我が家の周辺に、我が家も含めて5軒のわらぶきの家が残っていました。その5軒は、父親に変わって、解体作業を手伝いました。中学生のころだと思います。
父親は、まだ50台なのに、なぜ中学生のぼくが手伝いに行かされたのか。近所づきあいが苦手だった。身体が華奢だった。手が荒れることはしたく無かった。全部かもしれません。
すすが舞って、鼻の穴、目のまわりまで、真っ黒になりました。屋根の藁を取りのぞくと、土壁を壊し、最後は柱や梁にロープをつなげ、みなで引っ張って倒しました。大きな家でも、人力で解体できるのは、智慧なのでしょうか。これが、コンクリだったら、人力では壊せないでしょう。
解体作業の写真もありました。藁をトラックに積んで、近くの畑で焼いてました。藁をばらす係、それを束ねてトラックに乗せる係、藁を焼く係。思い出しました。わらを束ねる係をやりました。
老子は、小国寡民、小さなコミュニティを理想としましたが、今思えば、水主町は、老子の理想郷だったのかも知れません。地域のことは、地域の共同作業で、自力で処理する。日本全国どこにでもあったことなのでしょうが。
集団の時代から、個の時代にかわって、失ったものもあり、得たものもあり。
前の家(奥田さん)の解体の写真です。残っているのが、我が家です。このころ、我が家の周辺に、我が家も含めて5軒のわらぶきの家が残っていました。その5軒は、父親に変わって、解体作業を手伝いました。中学生のころだと思います。
父親は、まだ50台なのに、なぜ中学生のぼくが手伝いに行かされたのか。近所づきあいが苦手だった。身体が華奢だった。手が荒れることはしたく無かった。全部かもしれません。
すすが舞って、鼻の穴、目のまわりまで、真っ黒になりました。屋根の藁を取りのぞくと、土壁を壊し、最後は柱や梁にロープをつなげ、みなで引っ張って倒しました。大きな家でも、人力で解体できるのは、智慧なのでしょうか。これが、コンクリだったら、人力では壊せないでしょう。
解体作業の写真もありました。藁をトラックに積んで、近くの畑で焼いてました。藁をばらす係、それを束ねてトラックに乗せる係、藁を焼く係。思い出しました。わらを束ねる係をやりました。
老子は、小国寡民、小さなコミュニティを理想としましたが、今思えば、水主町は、老子の理想郷だったのかも知れません。地域のことは、地域の共同作業で、自力で処理する。日本全国どこにでもあったことなのでしょうが。
集団の時代から、個の時代にかわって、失ったものもあり、得たものもあり。
2017年2月9日木曜日
懐かしの我が家
弟経由で、懐かしの我が家の写真が送られてきた。
この道は、江戸時代から続く街道で、おそらく松尾芭蕉も通っている。このあと、道を間違えて、石巻に行ってしまう。
左側の二件目、電信柱の後のわらぶきの家が、我が家。松島瑞巌寺を建築したときの大工が住んでいたといわれ、瑞巌寺は1609年に完成しているから、1600年初めのころの建物である。
父はここで生まれたわけではなく、ツテをたどって、ここを借家にして、ここで鍼灸を営んでいました。半宅半出張だったのではないでしょうか。
この町は歴史が深く、「水主町(おかこまち)」といわれ、松島湾に浮かべてある伊達藩の御座船の船頭が住む町である。年中、船頭の仕事があるわけではないので、半農半漁、ときどき船頭という身分なのでしょう。
お向かいの商店が、桜井百貨店。雑貨屋さんで、駄菓子を買いにいったところ。季節になれば、鮒釣りの竿も買いました。長靴にベルト固定するスケートも売ってました。
お祭りのときの写真で、みえないけど先頭に御神輿がいるはずです。まるで江戸時代みたいですね。
電柱の両脇に人がいるのだけど、弟によれば、兄と僕だそうです。こんなところで、50年以上も前の自分とご対面するとは。(前回のブログのタイトルが「ルーツ」なだけに、とても驚いています。)
この道は、江戸時代から続く街道で、おそらく松尾芭蕉も通っている。このあと、道を間違えて、石巻に行ってしまう。
左側の二件目、電信柱の後のわらぶきの家が、我が家。松島瑞巌寺を建築したときの大工が住んでいたといわれ、瑞巌寺は1609年に完成しているから、1600年初めのころの建物である。
父はここで生まれたわけではなく、ツテをたどって、ここを借家にして、ここで鍼灸を営んでいました。半宅半出張だったのではないでしょうか。
この町は歴史が深く、「水主町(おかこまち)」といわれ、松島湾に浮かべてある伊達藩の御座船の船頭が住む町である。年中、船頭の仕事があるわけではないので、半農半漁、ときどき船頭という身分なのでしょう。
お向かいの商店が、桜井百貨店。雑貨屋さんで、駄菓子を買いにいったところ。季節になれば、鮒釣りの竿も買いました。長靴にベルト固定するスケートも売ってました。
お祭りのときの写真で、みえないけど先頭に御神輿がいるはずです。まるで江戸時代みたいですね。
電柱の両脇に人がいるのだけど、弟によれば、兄と僕だそうです。こんなところで、50年以上も前の自分とご対面するとは。(前回のブログのタイトルが「ルーツ」なだけに、とても驚いています。)
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