2024年12月28日土曜日

最後の投稿

  読者の詳細は分からないけど、「読んでますよ」と声かけしてくれる人がいます。一方的に投げているつもりなのに、キャッチしてくれる人がいるのかと思うと、すこし照れてしまいます。

 以前、書きましたように、今年限りで、温灸院・薬局を閉じることになりました。ホームページも閉鎖しますので、このブログも、これが最後です。ながい間、ご愛読ありがとうございました。



2024年12月27日金曜日

釜たきご飯

  土鍋で炊いていたご飯は、土鍋の老朽化で、鉄釜で炊くことにしました。

 はじめちょろちょろ、なかぱっぱ、赤子ないてもふた取るな

 といわれるけど、火を止めるタイミングがわからないので、20分すぎにフタをとって、炊き上がりをみています。時間どおりだと焦げるし。

 火力が安定しているガスコンロだからいいものの、薪をくべているなら、火力の調整は難しかろう。安易なものには行きやすいが、煩わしいものに戻るのはたいへん!

 くるまも、ATからマニュアルに戻そうかな~

2024年12月25日水曜日

滝川亀太郎旧居

  滝川亀太郎(1865~1946)は、『史記会注考証』の著者。ぼくが、1990年代に『史記』扁鵲倉公列伝を研究していたときに、とてもお世話になった注釈書です。

 先月、島根の松江城を観光したとき、お堀の北側に武家屋敷があったので見学したら、なんと滝川亀太郎が住んでいたという家でした。偶然なのでおどろきましたが、『史記会注考証』を思い浮かべながら、屋敷を見学しました。

 おもいだせば、『史記』を勉強しているとき、隣町の越谷市の文教大学図書館の町田文庫に『史記』関連の資料が豊富にあったので利用させていただきました。今から30年ほど前ですから、ぼくが40歳前後のときです。2000年を境に(師匠の病没)、扁鵲倉公列伝の研究から手を引きました。

 偶然といえば、柳川市を観光していたとき、大きな地図に「下村湖人旧居」とあったので、勇んでタクシーをとばして行きました。そのころは『論語』を読んでいたので、『論語物語』の著者の名前をみて、その偶然さ驚きました。


2024年12月23日月曜日

子守と体幹

 昭和初期の子守の写真です。大抵は、お姉さんが、妹や弟をおぶっています。おぶったまま、外で遊んでいたようです。

 孫が3人もいて、だっこするつらさを知る身としては、小学生のお姉さんがおんぶしているのも、たいへんなんだろうね、と同情してしまいます。

 したの写真なんかは、自分の背丈の3分の2くらいの妹を負ぶっています。上の写真の左はしのお姉さんは、顔の大きさが同じくらいの弟をおぶっています。

 ふたりの妹、弟は、3~4歳くらい、体重は15キロ前後と思われる。 大人でも大変なのに、小学生のお姉さんがおぶっているのですから、体幹がきたえられますね。

 体幹ばきばきのお姉さんたちが、現在の80歳、90歳のおばさまに成長したのですよ。きっと。

2024年12月18日水曜日

ほうき

 

 掃除機が出回る前は、ほうきで掃除していました。背丈ほどあるほうきは、立ちぼうきといっていましたが、イラストによれば庭ほうきというらしい。その半分の背丈は、なんというかわすれたが、イラストによれば荒神(こうじん)ほうきというらしい。

 ほうきA・B・Cで良いのに、ひとつひとつに名前があるのが、ほほえましい。それが、脈絡ないのが、さらにほほえましい。

 小学校の家庭科では、ぞうきんをぬったの思い出しました。ストッキングを裂いて、はたきを作ったこともありました。

 これらの道具は日用ではなく、ことばに死語というのがあるのにちなめば、死道具というのかも知れません。




 

2024年12月12日木曜日

父親のこと

  今思えば、父親は、変人であり、文化人だったかも。

 まず変人。43歳で、仙台の鍼灸学校に入ったこと。その前は、せんべい屋だったとか。当時の鍼灸は被差別の職業で、五体満足の男性が選ぶ職業ではありませんから、それなりの風当たりがあったでしょう。それも妻の実家に子供4人を3年間預けぱなしでしたから。今だって、なかなかできないことを敢行したのでした。

 免許を取ってから、家族をよびもどし、松島町で鍼灸人生をスタートしました。田舎の古い町ですから、差別の目もあったでしょう。小学生のぼくには、わかりませんでしたが。

 文化人といえば、毛筆が達者であること。年賀状はもちろん、賞状書きの内職もしていたこともありました。また、尺八を吹いていたこと。尺八に至った理由や、どこで買ったのかなどまったく知らないのですが、尺八を吹くという血すじがあったのでしょう。

 その変人、文化人の血すじは、ぼくは受け継がなかったと思う。


2024年12月9日月曜日

近江 永源寺

 北里研究所医史学研究室(のち研究部)の客員研究員になって、はじめての仕事が、月舟寿桂が『史記』に書き込んだ注釈を翻字することでした(扁鵲倉公列伝のみ)。調べていく内に、月舟寿桂は、近江の永源寺における桃源瑞仙の『史記』講義を受けていることがわかり、いつかは永源寺に行きたいと長らく思っていました。7~8年前に行くことができました。

 開山は寂室元光で、中国にわたり中峰明本に学んだ僧侶です。中峰にまなんだ僧侶達が日本で開いた寺院は、いずれも紅葉の名所で有名です。おそらく中国から種を持ち帰って、留学先の雰囲気を再現しようとしたのでしょう。

 永源寺も、紅葉の時期は、観光客が押し寄せるといいます。まさに、今頃でしょう。僕が行ったのは、そんな時期ではないので、ひっそりとしていました。それでも、月舟寿桂と同じ場所にいるとおもって、感慨ひとしおでした。


2024年12月7日土曜日

みやかわ温灸院を閉じる

 本年12月末をもって、漢方薬局と温灸院を閉じることになりました。まだまだできるのに何故? と言われました。スポーツ選手の現役引退と同じように、臨床だけが鍼灸師の人生では無いと思えば、教育や執筆活動にチェンジしても良いかな、と思っています。

 今まで、請われるままに、講座・講演をやってきましたが、その後始末はしていません。せっかく準備した資料が、未整理のまま、PCの中に眠っています。もう一回、練り直して、きちんとしたものとして残したいと思っています。

 また、校正会で入力したデータを再び見なおして、より精度のよいものにしたいと思っています。

 こうしたことは、細切れの時間ではできません。だから未整理のままだったのです。未整理だったので、なんとかしたいとモヤモヤしていました。ようやく、着手できると思うと、来年以降が楽しみなのです。


新年発表会

  毎年、1月には、新年発表会があります。北里の医史研と内経医学会の共催で、北里大学の会場とオンラインのハイブリッド開催です。

 この発表会は、20数年皆勤で発表してきましたが、次回は発表しません。発表するとなると、年末年始はその準備に追われてしまいます。「追われない幸せ」を久しぶりに味わいたいとおもいます。

 下記のような内容です。参加無料ですので、興味ある方は、アクセスしてみてください。

「第9回鍼灸医学史研究発表会ー出土資料再考ー」

事務局
加畑 聡子「馬王堆漢墓考古発掘50周年国際学術研討会参加報告」
猪飼祥夫「『天回醫簡』読んで思うこと」(オンライン)
郭秀梅「長屋王家木簡の「麦縄」と東大寺写経所の「索餅」について」
左合昌美「出土医学文書の是動病と所産病」
林孝信「相脈之道と三部九候論(仮)」
米谷和輝「『天回医簡』のオノマトペ-内経オノマトペ研究第二報」
真柳誠「初期から打膿灸がメインだった」