『老子』第五十五章に「含徳の厚きは、比するに赤子においてす」とあり、道の徳を秘めた人(が、道の徳を秘めているかどうかを照合する場合)は、赤子で比べる。言い換えれば、赤子のような人が、道の徳を秘めている人なのだというのです。
その赤子は無心だといわれるので、なんとなくそれを信じていたのですが、昨夏に孫が生まれて遊びにくるので、観察してみて、無心というのはどういうことなのか、確認してみました。
不満があると泣く、体調が悪いと泣く、不安だと泣く、気にくわないと泣く。どこが無心なのだろう。
7ヶ月になると、イヤなものはイヤらしく、ぷいと横をむく。我が出てきている。どこが無心なのだろう。
ただ、怖さしらず、きたないもの知らずのところはある。高いところにおいても怖がらないし、なんでも口にいれるし。この点は、無心のよう。
総合すると、老子が、道の徳を秘めた人は赤子のようと言った意味は、なんとなくの無心ではなく、分別が無いことを指すようである。感情が無い、我が無いことでは無いらしい。
『老子』の理解に孫が役に立つとは。この3月は、『老子』五十五章が、少し理解できたので、少し進歩しました。
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