2024年9月28日土曜日

水主町

  小学校から高校まで住んでいたのは、宮城県松島町の水主町(かこまち)という地区。地域の人は「おかこまち」と言っていました。伊達藩の藩船の水夫が住む地域です。

 その町中に、写真のような島があります。大昔は海だったのでしょう。まったく当時のままです。昔の郵便ポストもそのままあります。

 大人になってしみじみ見てみると、自然の造形美というか、曲線や、岩と緑のコントラストがすばらしい。よく考えてみると、近くの瑞巌寺の建物も美しいし、ひっそり佇んでいる三聖堂も美しい。周囲にはたくさんのもみじもあって、紅葉の時期はさぞかし美しいのでしょう。

 子供のころは当たり前の風景でした、圧倒的な美しさの中で10年ちかく生きていたのかと思ったら、今頃になって、幸せ感が湧き出てきました。


2024年9月24日火曜日

今年から

  今年から、茗荷をたべられるようになった。子供のころ、便所の脇に植わっていたので、あの香りを敬遠していたのだが、今年から食べられるようになった。典型的な思い込み、食わず嫌い。

 今年から、小説を読むようになった。手始めに、家の中にあった、村上春樹『一人称単数』、中島たいこ『漢方小説』。今は、勉強会の会場での処分品の藤原新也『コスモスの陰にはいつも誰かが隠れている』を読んでいる。

 小説家の文章はとても読みやすい。少しは文章を書くので勉強になる。

 小説家の文章はきめ細やか。これは虫の視点なのかも。

 小説家の文章は頭が疲れない。というか頭の疲れが抜けていく。

 というわけで、今年は、ちょっと成長しています。

2024年9月19日木曜日

もぐさ欠番

  いつも頼んでいるもぐさ屋さんから「ご注文の○○もぐさは欠番になりました」という電話がありました。似たような製品の試供品を送るので、そこから選んでくれとのこと。じわじわと、その日(もぐさ絶滅の日)が近づいてきているような気分です。

 はりはそんなことは無いかもしれませんが、最終的には、1本の鍼で成立する治療が生き残るのかもしれません。

 さらに考えていけば、マッサージは生き残る可能性が大きい。しかし、無免許者が存在するので、生き残るためには、今の癒やし的なマッサージを、治療的なマッサージに進化させないといけないでしょう。

 いずれにしても、鍼・灸・マッサージ、戦略性がないと、消滅してしまう可能性が大きいのです。

カメラ目線

 スマホが優秀なせいか、みなさん沢山写真をとる。たべもの、風景、記念写真、何かあれば動画だったり。写真を撮るのは、残すためか、人に見せるためか。

 それはそうと、カメラの目線は、虫の目線。カメラを構えないで、全体をみることもしないと、視野が狭くなる、視野を狭くしてしまう、と思う。

 また、目にかたよらず、匂い、味わい、音、触れた感じ、空気の重さ、五感すべてを使う習慣にすると、楽しみがどんどん広がります。自宅の玄関と隣の家の間は、風の通り道で、帰宅すると、庭のサクランボの香りの風が迎えてくれます。家の前は幹線道路で、いろいろな車の排気音がします。改造車の排気音は、ときどきは(荒々しくて)いいものです。高級車の排気音は、それなりに調律されているので、それなりにいいものです。

 目にかたよらない、目を頼りにしないと、別の世界が見えてくるというのは、こういうことではないかと気がつきました。


2024年9月7日土曜日

虫の視点

  金谷武洋『英語にも主語はなかった』(講談社選書)第1章「神の視点と虫の視点」

 日本語を話す人は虫の視点を持ち、英語を話す人は神の視点を持つ、という。地上をゆっくり歩み、廻りの情景がよくみえるのが、虫の視点。天上を飛び、全体がよく見えるのが、神の視点。

 神の視点の神については子細にわからないが、大局的な視点と表現するのがいちばん近い。目先のことは気にならず、おおざっぱに見えるだけである。

 虫の視点は、局面的な視点と表現するのが一番ちかい。目先のことが気になり、細かに見えてします。自分が中心にいる視点である。

 こうしたことを知りながら、村上春樹の「一人称単数」(という短編集)をよんだら、まさに虫の視点であり、まさに日本文学である、ことがすぐわかった。

 ということは、自分の鍼灸治療も、虫の視点だったなあ、と反省。もうちょっと大局的な視点をまぜたい。